トマス・ア・ケンピス(1380〜1471)

『キリストにならいて』

岩波文庫、新教出版社、教文館、ドン・ボスコ社、光明社

 

 

イザヤ30・19−21

「まことに、シオンの民、エルサレムに住む者よ

もはや泣くことはない。

主はあなたの呼ぶ声に答えて

必ず恵みを与えられる。

主がそれを聞いて、直ちに答えてくださる。

 

わが主はあなたたちに

災いのパンと苦しみの水を与えられた。

あなたを導かれる方は

もはや隠れておられることなく

あなたの目は常に

あなたを導かれる方を見る。

あなたの耳は、背後から語られる言葉を聞く。

『これが行くべき道だ、ここを歩け

右に行け、左に行け』と。」

 

 

 

光明社/キリストに倣いて/3・21・6

 

「見よ、わたしはここにいる、あなたがわたしを呼んだので、

見よ、わたしはあなたの許に来た。」


主イエス・キリストが文中に現れて作者に語られます。

「己を砕く」とはどういうことかをまことに具体的に教えてくれます。

 

私はスウェーデンボルグを読んで、得がたい知識を学びました。

しかしながら人間的にはちっとも進歩せず、平安な気持ちにもなれず、

どうしたらあこがれのサンダー・シングのようになれるのだろうと

思い悩んでいました。そしてサンダー・シングの伝記の中で

初めてこの有名な本を知りました。サンダー・シングもこの書を再三読み返し、

彼の霊的生活の上に深い印象を受けたとありました。

 

スウェーデンボルグを読み、主の言われるように

「悔い改めなければ再生出来ない」ことは頭では知っていました。

この本を読んではじめて、さらに「自我を砕く」とはどういうことかを知り、

自我をちっとも砕こうとしていない自分に気がついて

頭をガーンと殴られるようなショックを受けました。

そしてほんの少しづつですが、自我を砕くことを試み始めました。

 

その御言葉は威厳に溢れ、人間の言葉の領域を超えています。

おそらくこれは神の聖言(みことば)、すなわち

「新しい聖書」の一つではないかと思われます。

 

「わたしの子よ、服従を拒もうとする者は、恩恵を拒む者である。

また私の利益を得ようとする者は、公の利益を失う者である。

人が目上に対し、進んで快く従わないのは、その肉体がまだまったくその人に

従わず、たびたび逆らい不平を鳴らすことがあるという徴候である。

だから自分の肉体を従わせたいと思うならば、

自分の目上に対し、すぐに従うことを学ぶがよい。

 

内なる人(精神)が荒らされていないならば、

外なる敵(肉体)に打ち勝つことはたやすいからである。

精神とよく一致しないならば、霊魂にとってあなた自身よりも

害のあるやっかいな敵はほかにはあるまい。

あなたは肉と血とに勝ちたいと思うならば、

自分というものをまったく軽んじなければならない。

 

あなたはまだ自分をむやみに愛しているので、

それで他人の意思にまったく従うことを恐れるのである。

しかし、無から万物を造り出した全能にしてこの上なくとうとい

わたしですら、あなたのためにへりくだって人間に服従したのに、

塵であり虚無であるあなたが、神のため人に服従したとて、

それがどうして大したことだろう。

わたしはすべての人のうちで、もっとも卑しいもっとも低い者となったが、

それはわたしの謙遜によってあなたが自分の高慢に打ち勝つためである。

塵であるあなたよ、従うことを学べ、土芥(つち)であるあなたよ、

へりくだって、すべての人の足元に屈服することを習え。

あなたの意思をくじき、何事につけても人に服従することを学ぶがよい。

 

自我を抑える熱心に燃え立ち、

心の中に高ぶる思いを少しでも持っていてはならぬ。

かえって卑しい者、小さい者たる実を示して、すべての人に自分の上を

踏み歩かれ、街路の上の糞土のごとくふみにじられるようにすべきである。

 

むなしい者よ、あなたになんの不平を鳴らすことがあるのか?

あさましい罪びとよ、あなたはかようにしばしば神に背き、

いくたび地獄におとされても文句の言えない身でありながら、

あなたを責める人々に対して、どう言いわけすることができるのか?

 

けれども、それをわたしが大目に見ていたのは、あなたの霊魂がわたしの

前に貴重なものであったからで、またあなたがわたしの愛を認め、

わたしの恵みを絶えず感謝し、いつも真の服従と謙遜とに甘んじ、

自分が軽蔑されるのを、忍耐するようになるためである。」

(3・13)

 

「自分を愛さなければ他人を愛すことは出来ない」

などという甘い言葉を時々目や耳にしますが、トマス・ア・ケンピスを読むと

そんな言葉は真っ赤な嘘・悪魔の詭弁であることが暴露されます。

 

「自分を愛する心は、この世のいかなる物よりも、

あなたに害があることを知るがよい。」

(3・27)

 

『マリアにならう』

エンデルレ書店/木船重昭訳/アルバン・デ・チガラ編/

この本はトマス・ア・ケンピスの他の本から編集されたもの。

この中で聖母マリアが彼に出現します。

恐らくこれも本当にあったことだと私は思います。

『キリストに倣いて』であまりにも有名な彼が、ベルナルドにも劣らぬ

熱烈なマリア礼賛者であることを知る人は少ないのではないでしょうか。

 

「おん母よ、あなたの美しいお顔を、天のみ使いがひざまづいて

賛美もうしあげた、栄光の光背に輝くあなたの聖なるお顔を仰ぎ見るには、

わたくしはふさわしくないことを知っています。

ああマリアよ、あなたは色こまやかなばらとこがねの葉に

飾られて、お現れになります。そしてわたくしは

自分の汚れにおどろいて、たちすくむのです。」

P127

 

「めでたしマリア、神のおん母、永遠のおとめよ、そのおん偉大さを、

人は思うことも、述べることもできません。

こんなにもおびただしい恩恵に、

地上にいらっしゃるときから満ちていらっしゃったおん母よ。

わたくしをお忘れくださいますな。わたくしはあなたのしもべです。

お愛しもうしたいとひたすら願う心のありったけの熱情をこめて、

あなたのみまえに、慎んでひれ伏します。

神のおん母よ、あなたは大天使たちよりも高くあげられていらっしゃいます。

あなたはそれにふさわしいかたなのです。なぜなら、あなたは女性の中で

もっともけんそんなかたでいらっしゃるからです。

ああ、かぎりなく美しいおとめよ、たぐいなきおん母よ、あなたは、

神がごらんになってさえ、恩恵に満ちていらっしゃるのです。

天にも地にも、あなたと比べられるものはありません。

マリアよ、わたくしは、罪のない心で、うやうやしいことばで、

あなたをいっそうよく賛美もうしあげることができますように、

もういちど慎んでおん足下にひざまづきます。」

P163)

 

『貧者の宿』

中世思想原典集成17/平凡社

「イエスとマリアをお前のすべての道の見張りにしなさい。この方々を

武具として身に着けなさい、剣や棒としてしっかりともちなさい。」

(P327)

「謙虚ですみやかな服従をもってするなら、

小さなわずかな奉仕でも、すこぶる神を喜ばす。」

P329)

「処女と寡(やもめ)と妻の武具は、貞潔、慎み、寡黙、謙虚、

控えめ、誠実、それに酒や不届きな楽しみや装飾を控えること、

家にとどまり繁華な通りを避けること、そしていつでもどこでも、

あらゆる行いにおいて口と心をしっかり見張ることである。」

P342)

 

トマス・ア・ケンピスはどこを取っても味わいがあります。

もう少し引用してみましょう。

「キリストにならいて」第2巻第3章より

善良で柔和な人について

 

[].まずあなたの心を平和に保て。

そうすればあなたは他人をも平和にすることができよう。

柔和な人は大学者よりもためになる。

癇癪持ちはあらゆる善を悪に変え、また悪を信じやすい。

善良でおとなしい人はすべてのことを善に変える。

心の平和な人はだれも悪く思わない。しかし不満家で気のイライラしている人は、

いろいろな疑いに悩まされ、自分でも心が安まらないし、他人の心も安らかにしない。

そういう人は他人のなすべきことばかり気に病んで、

自分のなすべきことはお留守にする。

だからあなたはまず自分のことを熱心にせよ。そうして始めて隣人の

ためにあなたの熱心をおよぼしても、言いわけが立つというものである。

 

[].あなたは自分のしたことを弁解したり飾ったりすることは知っている。

しかし他人の弁解は聞き入れようとしない。

自分を責めて、兄弟を弁護してやるのこそ正しい道であろう。

他人に許してもらいたいならば、他人をも許すがよい。

見よ、あなたはほんとうの愛と謙遜とから、どんなに遠くはなれていることだろう!

なんとなればこの徳は、自分以外にはだれにも腹を立てたり不機嫌になったり

することがないはずだからである。

善良でおとなしい人といっしょにくらすのは、少しもむずかしいことではない。

それはだれでも自然に楽しく思うところで、人はみな平和を喜び、

自分と同じ考えの者をいっそう愛するからである。

しかし人触りが悪いなみはずれた者や、だらしのない者や、

自分に逆らう者などと、平和にくらすのはこれこそ大きい恩恵であって、

称賛すべき雄々しいことである。

 

 

 

 

主は父御自身

 

4・1・4

ごらん下さい、義人ノエは少数の人々と救われるために、百年も骨を折って

箱舟を造りました。それに私は、どうして一時間のうちに、世界の創造主(つくりぬし)

をうやうやしくお迎えする準備ができましょうか?

主の偉大なしもべで、かつ主の特別な友人であったモーセは、腐らない材(き)で

聖櫃を造り、これに純金を被(き)せ、その中に律法の石板(いしいた)を蔵める

ようにいたしました。それに腐り果てるべき被造物の私が、どうしてその

律法の制定者(さだめて)、生命の賦与者(あたえぬし)を、

それほどたやすくお迎えすることができましょうか?

 

 

 

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