転嫁

 

刑罰代償説

 

 

 

1.キリストの功績と義の転嫁は不可能

2.転嫁の意味

 

 

 

1.キリストの功績と義の転嫁は不可能

 

 

真の基督教641

 

基督の功績と義とは純粋に神的なものであって、純粋に神的な物が人間に注ぎ込まれるならば、彼は立ち所に死ぬであろう。何故なら、彼は太陽に投げ込まれた丸太のように燃え尽くされ、かくしてその灰すらも殆ど残らないからである。それ故主は天使と人間の能力に応じて和らげられ調節される光と熱とによって、その神性の中に在し給いつつ彼らと交わり給うのである。(中略)

 

主の功績と義とは、純粋に神的なものである故、到底それは転嫁によって如何なる天使にも人間にも移譲されることは出来ない。神的な火花の閃光でも、彼等に触れるならば、立ち所に彼らは死の苦悶の中に死ぬであろう。ここから、何人も神を見て生きることは出来ないというイスラエル教会の宣言が生まれている。

 

 

 

2.転嫁の意味

 

 

真の基督教643

 

<転嫁は存在する。しかしそれは善と悪との転嫁であり、同時に信仰の転嫁である>

 

聖言に転嫁が記されている箇所では、善と悪との転嫁が意味されている。これはその中の無数の言によって明白である、そのある言は既に引用した。各人に納得させるために、以下の付加的な記事を引用しよう。

 

「人の子は来たらん、その時おのおのの行為に随いて報ゆべし」(マタイ16・27)

「善をなしし者は生命に甦り悪を行いし者は審判に甦るべし」(ヨハネ5・29)

「生命の書なる書展かれたり、各々その行為に随いて審かれたり」(黙示録20・12、13)

「見よ、われ報いをもて速やかに到らん、各人の行為に随いてこれを与えん」(黙示録22・12)

「我は彼の道に従いて罰し、彼にその業を報ゆべし」(ホゼア4・9。ゼカリヤ1・6。エレミア25・14,32・19)

「その審判の顕るる怒りの日に神は各々の所作に随いて報ゆべし」(ロマ2・5,6)

「我らはみな必ずキリストの審判の座の前にあらわれ、善にもあれ、悪にもあれ各々その身になしたる事に随いて、報いを受くべければなり」(コリント後5・10)。

 

 教会の初期には、これ以外の転嫁の法則はなかったし、終りにもこれ以外のものは無い。教会の初期については、アダムとその妻とは善悪を知るの木の実を食らったために罪に定められた(創世記2及び3)。教会の終わりについて、主は語り給う、「人の子はその栄光をもて来る時、その栄光の座位に座し、右におる羊に言わん、我が父に祝せられたる者よ来たりて世の創より汝らの為に備えられたる国を継げ、そは我が飢えしとき、汝らは食わせ、渇きしときに来りたればなり。」(マタイ25・31、33、34、35,36)然し、彼の左手の山羊に対しては、彼らは如何なる善をも為さなかったために、「汝ら呪われし者どもよ、我を離れて、悪魔とその使いのために備えられし永遠の火に入れ」(マタイ25・41)と語り給うている。これらの記事は明らかに善と悪との転嫁のあることを示している。

信仰の転嫁もまた存在する、それは善に関わる仁慈および真理に関わる信仰は良き業の中に結合されており、両者がそのように結合されない限り、業は善ではないからである(373−377番)。それ故、ヤコブは語っている。「我らの父アブラハムはその子イサクを祭壇に捧げし時、行為によりて義とせられたるに非ずや。なんじ見るべし、その信仰、行為と共にはたらき、行為によりて全うせられたるを。またアブラハム神を信じ、その信仰は義として彼に転嫁されたりと言える聖書は成就されたり。」(ヤコブ2・21−23)。