ロトの妻は後ろを振り向いたので
塩の柱になった
(創世記19・26)
そのとき、ユダヤにいる人々は山に逃げなさい(マタイ24・16)/
彼らがロトたちを町外れへ連れ出したとき、主は言われた。「命がけで逃れよ。後ろを振り返ってはいけない。低地のどこにもとどまるな。山へ逃げなさい。さもないと、滅びることになる。」
創世記19・26
ロトの妻は後ろを振り向いたので、塩の柱になった
天界の秘義2417
「あなたの後を見返ってはならない」。これは彼が教義的なものに目を向けてはならないことを意味していることは、都が彼の後ろにあり、山が彼の前にあったとき、『自分の後ろを見返ること』の意義から明白である。なぜなら『都』により教義的なものが意味され(402、2268、2392番)、『山』により愛と仁慈とが意味されているからである(795、1430番)。これがその意義であることは26節における解説から明白になるであろう、そこには彼の妻が『彼の後を見返って』塩の柱になったと言われているのである。たれでも、この『彼の後を見返ること』という表現の中には何かの神的なアルカナがあり、それは見られるには余りに深いものであることを知ることが出来よう。なぜなら彼の後を見返ることには何ら犯罪的なものがあるようには見えないものの、それでもそれは、彼は生命がけで逃げなくてはならないと言われているほどにも非常に重要な事柄であるからである。しかし教義的なものを見つめることは何であるかは以下に見られるであろう、ここでは私たちは単にこれらの教義的なものはいかようなものであるかを述べておこう。
天界の秘義2417[2]
教義は二重性のものとなっている、即ち、愛と仁慈の教義と信仰の教義になっている。最初、主の教会はことごとく、いれが未だ小さな娘、処女である間は、仁慈の教義以外にはいかような教義も持たず、またそれ以外のいかような教義も愛しはしないのである、なぜならこれは生命[生活]に属しているからである。しかし次々とその教会はこの教義から離反し去り、遂にはそれを安価なものに考えはじめて、しまいには棄て去ってしまい、信仰の教義と呼ばれているもの以外にはいかような教義も承認しなくなり、そしてそれが信仰を仁慈から分離してしまうと、この教義は悪の生命[生活]と結びついてしまうのである。
天界の秘義2417[3]
それが主が来られた後の原始教会の、または異邦人の教会であったのである。それはその初まりでは愛と仁慈との教義以外にはいかような教義も持っていなかったのである、なぜならそのことを主御自身が教えられたからである(2371番の終りを参照)。しかし主のとき以後、次々と、愛と仁慈とが冷ややかになり始めるにつれ、信仰の教義が起り、それとともに分離、異端が起って、それは人間がこの教義を強調するにつれて増大したのである。
天界の秘義2417[4]
洪水以後に存在して多くの王国にひろがっていた古代教会の場合もそうであった(2385番)。この教会もまたその初まりでは仁慈の教義以外の教義を何ら知らなかったのである、なぜならこの教会は生命[生活]を目指し、それを求めまたそのようにすることによって彼らの永遠の福祉を顧慮したからである。それでもしばらくして幾人かの者のもとで信仰の教義がまたつちかわれて、遂には仁慈から分離され始めたのである、しかしそうしたことを行った者らは『ハム』と呼ばれたが、それはその者らは悪の生命[生活]の中にいたからである(1062、1063、1076番)。
天界の秘義2417[5]
洪水以前に存在して、他のすべての教会にまさって『人間』と呼ばれた最古代教会は、主に対する愛と隣人に対する愛を認める認識そのものの中におり、かくてそれはそれ自身の上に愛と仁慈との教理を刻みつけられていたのである。しかしそのときですら信仰をつちかった者らがいて、その者らが信仰を仁慈から分離したとき、『カイン』と呼ばれたのである、なぜなら『カイン』によりこのような信仰が意味され、カインに殺された『アベル』により仁慈が意味されたからである、(第四章の解説参照)。
天界の秘義2417[6]
このことは二つの教義が存在していることを示している、即ち、一は仁慈の教義であり、他は信仰の教義である二つのものが存在していることを示しているが、しかしその二つのものはそれ自身では一つのものなのである、なぜなら仁慈の教義は信仰の凡ゆるものを含んでいるからである。しかし教義が、信仰に属したもののみから存在するようになると、信仰は仁慈から分離してしまうため、教義はそのとき二重性を持っていると言われるのである。これらの教義は現今分離してしまっていることは仁慈とは何であるか、隣人とは何であるかが全く知られていないという事実から認めることが出来よう。専ら信仰の教義の中にいる者たちは凡ゆる者を区別もなしに隣人と呼んでいるため、隣人に対する仁慈とは自分自身のものを他の者に与え、憐れみを必要としているように見える者にはたれにでも憐れみを施すことに在るのではなくて、それを越えたものの中に在ることを知ってはいないが、それでも仁慈は何であれ人間の中にある善の一切であり、即ち、彼の情愛の中に、彼の熱意の中にあり、そこから彼の生命の中にある善の一切であり、隣人とは人間を感動させるところの他の者における善の一切であり、従って善の中にいる者たちであり、しかもそれには可能な限り区別が見られるのである。
例えば悪い者を罰し、善良な者に報酬を与えることによって公正と公義[審判]とを行っているその人間は仁慈と慈悲の中にいるのである。悪い者を罰することの中に仁慈が存在している、なぜなら悪い者を矯正しようとする熱意から、また同時に善良な者が悪い者の手から危害を受けないように、善良な者を守ろうとする熱意からそのことに[悪い者を罰することに]駆り立てられるからである。このようにして人間は悪の中にいる者の、またはその人間の敵の福祉を考慮しており、他の者と公共の安寧そのものに対してのみでなく、その悪の中にいる者に対しても、善い感情を表しているのであって、これは隣人に対する仁慈から発しているのである。生命[生活]の他の凡ゆる善の場合も同一である、なぜなら生命の善は、隣人に対する仁慈から発していない限り決してあり得ないからである。
天界の秘義2417[8]
それで仁慈と隣人との真の性質はかくも甚だしく漠然としてしか知られていないからには、仁慈の教義が(信仰の教義が第一位を占めてしまって)失われたものの一つとなっていることは明白であるが、それでも古代教会に培われたものはただこの仁慈の教義のみであったのであり、しかもそれは彼らが隣人に対する仁慈に属している善をすべて、即ち、善の中にいる者たちをすべて部類分けにし、またしかもそれは彼らが隣人に対する仁慈に属している善をすべて、即ち、善の中にいる者たちをすべて部類分けにし、またしかもそれを多くに区分けして、それにもまた名前をつけて、牢獄につながれた者、他国人、みなし児、やもめと呼び、また或る者を足なえ、目しい、耳しい、おし、不具者[かたわ]と呼び、その他多くの名で呼ぶほどにすら至ったのである。旧約聖書の聖言には主はこの教義に従って話されておられ、そうした理由からそのような言葉が頻繁にそこに用いられているが、主御自身も更にその同じ教義に従って話されたのである、たとえばマタイ25・35、36、38、39、40、42−45、ルカ14・13、21、その他多くの所(でそのように話されたのである)。ここから内意ではこれらの名には全く異なった意義が含まれているのである。それで仁慈の教義が回復されるために、これらの名により意味されている者は誰であるか、仁慈とは何であるか、隣人とは何であるかを、全体的にもまた個別的にも以下の頁に主の神的慈悲の下に述べてみよう。
天界の秘義2453
26節「彼の妻は彼の後を振り返って見た、それで彼女は塩の柱になった」。『彼の妻は彼の後を振り返って見た』は、真理が善から離れ去って、教義的なものを注視したことを意味し、『彼女は塩の柱となった』は真理の善はことごとく剥奪されてしまったことを意味している。
「彼の妻は彼の後を振り返って見た」。これは真理が善から離れ去って、教義的なものを注視したことを意味していることは、『彼の後を振り返って見ること』の意義から、また『妻』の意義から明白である。『彼の後を振り返って見ること』は、真理のものである教義的なものを注視して、善のものであるところの、教義的なものに従った生活を注視しないことであることは、すでに言われたところである(2417番)、なぜなら後在的なものであるものは、彼の『後に』あると言われ、先在的なものであるものは、彼の『前に』あると言われるからである。
天界の秘義2454[2](当方注:[2]がないので[1]の途中から仮に[2]とした)
真理は後在的なものであり、善は先在的なものであるということはしばしば示されたところである、なぜなら善は真理の本質であり、また生命であるため、真理は善のものであるからであり、それで『彼の後を振り返って見る』ことは、教義のものである真理を注視することであって、教義に従った生活のものである善を注視しないことである。これがその意義であることは、ルカ伝の主の御言葉から極めて明白である(そこにもまた主は教会の最後の時について、または代の終りについて語っておられるのである)―
かの日家の上にいて、その器が家の中に在る者は、それを取り出そうとして下に降ってはならない、畠にいる者も同じく自分の後を振り返ってはならない、ロトの妻を記憶しなさい(ルカ17・31、32)。
天界の秘義2454[3]
主のこれらの言葉は内意がないなら、それで家の上にいることによりいかようなことが意味されているかが、家の中の器によりいかようなことが、それらを取り出すために下に降りることによりいかようなことが、畠によりいかようなことが、最後に自分の後を振り返って見ることによりいかようなことが意味されているかが知られない限り、全く判然としないのである。内意に従うと、『家の上に』いることは善の中にいることである(『家』は善を意味していることは、前の710、2233、2234番に見ることが出来よう)。『器を持ち出すために下に降りる』ことは、私たちが認めることが出来るように、自己を善から遠ざけて、真理に向けることである、なぜなら善は先在的なものであるため、それはまた高いものであり、真理は後在的なものであるため、それはまた低いものであるからである。『畠』はそれがその中へ受け入れる種子から教会と呼ばれて、教会を意味しており、従って教義の中にいる者たちが『畠』であることは聖言の多くの記事から明白である。このことは『自分の後を振り返ること』により意味されていることを、即ち、善から自己を遠ざけて[善に身をそむけて]、教義的なものを注視することを意味しており、それでこれらのことがロトの妻により意味されているため、『ロトの妻を憶えない』と言われているのである。彼女は『彼女自身の後を振り返って見た』とは言われないで『彼の後を振り返って見た』と言われているのは、『ロト』が善を意味しているためである(2324、2351,2370、2399番参照)。ここからロトは何を行わなくてはならないかを告げられたとき(17節)、『あなたの後を振り返って見てはならないと言われた』のである。ルカ伝に『彼は彼の後を振り返ってはならない』と言われて、『彼の後にいるものを振り返って見てはならない』とは言われていない理由は、天的な者たちは教義的な性質のものは何であれ、それを口にすることすらも欲しないということである(202、337番参照)、そのことが何ら特定的なものが話されないで、単に『彼の後を』と言われている理由となっている。この同じ事柄はマタイ伝には以下のように記されている―
あなたたちは予言者ダニエルにより予言された荒らす憎むべきもの[荒れすさばせる忌まわしいもの]を見る時は、ユダヤに居る者は山に逃げなさい、家の上にいる者はその家から何かを取り出そうとして下に降りてはならない、畠に居る者はその上着を取るために帰ってはならない(マタイ24・15−17)。
天界の秘義2454[4]
ここでは『荒らす憎むべきもの[荒れすさばせる忌まわしいもの]』は愛も仁慈もない教会の状態を意味している、なぜならこれらのものが荒れすさんでしまうと、憎むべきもの[忌まわしいもの]が支配するからである。『ユダヤ』は教会を、実に天的な教会を意味していることは、旧約聖書の聖言のいたるところからその予言的なものからもまた歴史的なものからも明白である。彼らが逃げて行く『山』は主に対する愛とそこから必然的に生まれてくる隣人に対する仁慈を意味していることは、前に見ることが出来よう(795、1430、1691番)。『家の上にいる者』は愛の善を意味していることは今し方述べたところである。『家から何かを取り出すために降りる』ことは、善に自らをそむけて、真理に向うことを意味していることもまた今し方述べたところである。『畠にいる者たち』は霊的な教会の中にいる者たちを意味していることは、聖言における『畠』の意義から明白である。『自分の上着を取るためにもとへ帰ってはならない』ことは、彼が彼自身を善から遠ざけて、教義のものである真理に向ってはならないことを意味していることは、『上着』は真理を意味しているためである、なぜなら真理は善を包む衣服の働きをしているからである(1073番)。たれでも、主がそこで代の終り[代の終結]について言われたすべてのことにより、例えばユダヤにいる者は山に逃げ込まなくてはならない、家の上にいる者は家から何かを取り出そうとして降りてはならない、畠にいる者はその上着を取るために帰ってはならないということにより、同じくロトは自分自身の後を振り返って見てはならないと言われ(17節)、ここでは彼の妻は彼の後を振り返って見たと言われていることにより非常に異なった事柄が意味されていることを、またアルカナが含まれていることを認めることが出来よう。更にこのことは『妻』の意義が真理であり(915、1468番参照)、『ロト』の意義が善であることから明白であり、(2324、2351、2370、2399番参照)、そこから『彼の後を』と言われているのである。
教会の人間が自分はいかような種類の生活を送っているかを最早心に留めないで、自分はいかような種類の教義を持っているかを心に留める時、真理は善からそれ自身を背けて教義的なものを注視すると言われているが、しかし教会の人間を作るものは教義に従った生活であって、生活から分離した教義ではない、なぜなら教義が生活から分離する時は、生命[生活]のものである善は荒廃してしまうため、教義のものである真理もまた荒廃してしまうのであり、即ち、塩の柱となってしまうからであって、このことは、教義のみを注視してはいるが、生命[生活]を注視していない者が、自分は教義から復活を、天界を、地獄を、実に主を、またその他教義に属したものを教えられてはいるものの、自分はそうしたものを信じてはいるか否かを考察してみる時、たれでも知ることが出来よう。
「彼女は塩の柱となった」(創世記19・26)。これは真理の善がことごとく荒廃してしまったことを意味していることは、『柱』の意義から、また『塩』の意義から明白である。原語では『柱』は静止して立っているものを意味している言葉により表現されていて、礼拝のために、または印のために、または証のために建てられた柱を意味している言葉によっては表現されていないのであり、それで『塩の柱』によりここではそれが、即ち、ロトの妻により意味されている真理が剥奪されてしまったことが意味されているのである(2454番)。真理の中に善がもはや存在しなくなったとき、真理は剥奪されてしまった、または荒廃してしまったと言われ、剥奪それ自身が『塩』により意味されているのである。
天界の秘義2455[2]
聖言では大半のものには二重の意義があり、即ち、純粋の意義とそれに対立したものとがあるように、『塩』にもまたその意義があり、純粋な意義では、それは真理の情愛を意味しているが、それに対立した意義では、真理の情愛が、即ち、真理における善が剥奪されることを意味している。『塩』が真理の情愛を意味していることは出エジプト30・35、レビ2・13、マタイ5・13、マルコ9・49、50、ルカ14・34、35に見ることが出来よう、それが真理の情愛が剥奪されることを意味していることは以下の記事から明白である。モーセの書には―
全地は硫黄と塩となり、燃えたところとなるであろう、そこには種子は蒔かれない、それは生み出しはしない、その中にはいかような草も芽生えはしない、ソドムとゴモラ、アデマとゼボイムがくつがえされたようになるであろう(申命記29・23)。
ここでは『硫黄』は善の剥奪を、『塩』は真理の剥奪を意味しており、主題が剥奪であることは各々の細々した事項から明白である。
ゼパニヤ書には―
モアブはソドムのように、アンモンの子孫はゴモラのようになり、いら草のはびこるままの所、塩の坑、永遠に荒れすさんだ所となるであろう(ゼパニヤ2・9)。
ここでは『いら草がはびこるままの所』は剥奪された善を、『塩の坑』は剥奪された真理を意味している、なぜならすでに示されたように『いら草がはびこるままの所』は悪を、塩の坑は誤謬をまたは剥奪された真理を意味しているゴモラに言及しているからである。主題が剥奪であることは明白である、なぜなら『永遠に荒れすさんだ所』と言われているからである。エレミヤ記には―
肉を自分の腕とする者は物淋しい地にある裸の灌木のようなものになり、善いものが来る時を見ないで、荒地のやけ地に、塩の地に、人が住まない地に住むであろう(エレミヤ17・5、6)。
ここでは『やけ地』は剥奪された善を、『塩地』は剥奪された真理を意味している。
天界の秘義2455[4]
ダビデの書には―
エホバは川を荒地に、水の泉を乾いた土地に、実り豊かな地を塩地に変えられる、そこに住む者の邪しま[邪悪]のためである(詩篇107・33、34)。
『塩地にされた実り豊かな地』は真理における善の剥奪を意味している。エゼキエル書には―
そこの泥地とそこの沼とは癒えないであろう、それらは塩に委ねられるであろう(エゼキエル47・11)。
『塩に委ねられる』ことは真理の方面で全く剥奪されることを意味している。『塩』は剥奪を意味し、『都』は真理の教義的なものを意味したため(このことは402、2268、2428、2451番に示したところである)、古代に都が破壊されたとき、それが再建されないように、それに塩を振り撒いたのである(士師記9・45)。それで私たちが今取り扱っている言葉はロトにより表象された教会の第四の状態を意味しており、その状態は真理はことごとく善の方面では剥奪されてしまったという状態であったのである。