熱心者のシモン

 

主の愛

 

 

マリア・ワルトルタ/聖母マリアの詩下P67

 

熱心者のシモン:「もちろんです。これからも深く考えていきたい。私は自分がいかに愚かであるかを強く自覚して卑下しています。神は私たちを子供と見なすために、ご自分に似た者となるように望まれている。神がいかに偉大か、少しは分かったつもりです。私の心に注がれるあなたのすべての光によって、神の完璧な多彩さが次第に浮き彫りにされてきます。私は知らない土地を一歩一歩進んでいく人のように、私たちを“子”と呼びたい偉大なかの完全さの認識を深めていって、空翔ける鷲のようにまた深海を泳ぐ魚のように自由にかけめぐったのに、その境に触れることがありません。神とは、何なのでしょうか」

 

主:「神とは、決して届かない完全、完璧な美、限りない力、理解を超えるもの!神とは、決して超えられない善、壊せないあわれみ、はかり知れない上智。神は神となった愛、神は愛、愛そのもの。神の完全を知れば知るほど曇りない空を翔け上り、限りない深淵に身を投じたようと言うが・・・。神となった愛とは何かを知れば、おまえは空や海でなく、炎の渦巻に巻き込まれ、死と命とからなる幸福に吸い寄せられます。神を全く所有するとは、自分の意志で理解するに値する恵みを与えられるということです。その時に、神の完全さで全き一致をすることができます」

 

「主よ!」

 

シモンは完全に圧倒されて沈黙が続く。

 

 

 

イエズスの受難P186

 

 熱心もののシモンもサンダルを脱いで、一言も言わずに洗われている。ところが、イエズスがバルトロメオの方へ移ろうとするとき、シモンはひざまずいてその足に接吻する。

「いつか私の体の癩病を清められたと同じように、私を罪の癩病から清めてください。私の救い主よ! 裁きの時に私が辱められないように!」

 

「シモン、恐れるな。おまえは天の国に山の雪のように白くなって来ることでしょう」

 

 

 

イエズスの受難P224

 

「(前略)おお、私たちは何をすればよいのですか」

 

「ラザロのところへ行き、そこにできるだけ多くの人を集めなさい。使徒たちだけでなく、田舎道をさまよっている弟子たちも。また羊飼いたちにも会って、この私の命令を伝えなさい。ベタニアの家は、いまこそ客人を丁寧にもてなす家なのです。イスラエルの人民の憎しみに耐える勇気のない人たちは、そこに避難して待てばよろしい」

 

「そうおっしゃるが、われわれはあなたから離れない」

「そう、お互いに離れないように・・・ばらばらになればおまえたちは無能となり、団結していればまだ何らかの力になります。

シモン(熱心)、いまから話すことを守ると約束しなさい。おまえは落ち着きのある誠実な人で、おまえのことばだったらペトロも聞いてくれるはずです。私に対して“大きな”負い目がありますね。こんなことを言うのは、いまが初めてですが、私の言うことを実行させたいから。ごらん、いま私たちはケドロン川に来ています。いつだったか、おまえは癩病者で、ここから私のところまでのぼり、清められてそこから新たに再出発しました。おまえに与えた見返りを私にください。私が人間に与えたことを、この“人間”に返しなさい。いまは私が癩病者です・・・」

 

「いや! そんなことはおっしゃらないで!」と二人の弟子が嘆く。

 

「そうは言うが、シモン、そのとおりです。私の兄弟たちが、一番がっくりしてしまうと思います。正直なペトロは自分のことを犯罪者かのように感じ、落ち着けないに違いない。私の従兄弟たちは・・・自分たちの、また私の母を見る勇気さえもないに違いない・・・この人たちを特別におまえにゆだねます・・・」

 

「主よ、私はだれのものとなるのですか。私のことは考えてくださらないのですか」とヨハネがすがる。

 

「おお私の子供よ! おまえは、私の愛にゆだねられています。その愛がどれほど強いか、母親のようにおまえを導きます。おまえには命令も案内人も要らない。おまえを愛の水の上に残します。その水は、おまえの中で静かな深い川のように流れ、おまえの明日について私に何の疑いも抱かせない。シモン、聞こえましたか。私と約束しなさい。約束してください!」

 

 イエズスが、こんなに憂慮しておられるのを見るのは苦しい。イエズスは続ける。

 

「他の人々が来る前に! おお、ありがとう! あなたが祝福されますように!」

 

後から来た一団と一緒になる。

 

「では、ここで分かれましょう。私は祈りのために上の方に登ります。ペトロ、ヨハネ、ヤコボは私と一緒に来てほしい。それ以外の者はここに残りなさい。襲われたらすぐに呼びなさい。恐れることはない。おまえたちの髪の毛一本さえも損なわれることはない。皆、私のために祈りなさい。憎しみと恐れとを捨てなさい。それは一瞬のことに過ぎず、その後であふれる喜びが来ます。ほほえみなさい、皆。私の心におまえたちのほほえみを焼きつけるように、そしてまた、すべてのことにありがとう、友だちよ。さようなら。主は、おまえたちを守ってくださいますように」

 

イエズスは使徒たちから離れて先へと進み、ペトロが松明―これでシモンが脂のある小枝の薪(たきぎ)に火をつけたーを受け取る。

 

(中略)

 

立っているのは、ユダとイエズスと使徒たちだけである。使徒たちは、連中が倒れたのを見て元気を取り戻し、イエズスのそばに寄る。ユダに対する使徒たちの脅威的な態度は底知れぬほど激しい。ユダはとっさに跳んで、辛うじてシモンの手練の一撃を避けたほどだし、刀を持たない他の使徒たちのつぶてに追われて、命からがらケドロン川の向こうに逃げ、暗い小道に消えていく。

(中略)

 話しているうちに、ペトロが、イエズスを縛るための縄を取り出した男に近づき、下手な刀を振り下ろす。もし先で突いたならば、牡羊のように屠られただろうが、相手の耳を危うく切り落とすところでとどまり、おびただしい血を流しながらぶらぶらしている。

「殺られた」と男が叫ぶ。

 先を争う人々と、ぎらりと光る剣と短刀とを見ておじけづいた人々との間に悶着が起る。

「その剣をさやに納めなさい! 命令です。私が望みさえすれば、父は、私を守るために今すぐ十二軍にもあまる天使たちを送られる。そして、おまえは治りなさい、まず心、できれば・・・」こう言って、縄で縛られる前に、切られた耳に手を触れてもとどおりに治す。

 

使徒たちは恐れ、混乱の叫びを発する。言いにくいことだが、それは次のとおりである。

 

一人はこう言い、もう一人は、ああ叫ぶ。

「われらを裏切った!」と叫ぶ者もあり、

「気違いだ!」とわめく者もあり、

「だれが、あなたを信じられようか」と言う者もいる。

叫ばない人は一目散に逃げる。・・・イエズスは、そこに一人残る! イエズスとならず者たちだけが・・・。そして、歩き出す。

 

 

 

マリア・ワルトルタ/イエズスの受難/P411

聖母がアルフェオのマリア(使徒ヤコブと使徒ユダの母親)に:

 

「ラザロと熱心もののシモンとは、使徒たちをベタニアに集めるという命令をすでに与えられていたのです。分かりますね。イエズスはすべてを知っていたのです」

 

 

 

イエズスに出会った人々1・P84

 

家族は大きな勢力があって

 

 

 

イエズスに出会った人々1・P85

 

知識人です。

 

 

 

イエズスに出会った人々1・P86

 

世界には父を待ちこがれる大勢の子がいます。あなたを待っています。

 

 

 

 アルフェオのマリア(使徒ヤコブと使徒ユダの母)と聖母との会話

マリア・ワルトルタ/イエズスの受難P411


「マリア、あなたから私の子供たちにそれを教えてください。このあわれな義姉に何が言えるものですか!? それなのに!・・・二人が最初の瞬間に逃げたのは、 まあ分からなくもない! でも、その後で!」

ラザロと熱心もののシモンとは、使徒たちをベタニアに集めるという命令をすでに与えられていたのです。分かりますね、イエズスはすべてを知っていたのです」

「それはそうでしょうが・・・二人に会ったら”厳しく”とがめるつもりです。 使徒たちは卑怯者でした。皆が皆そうだったにしても、あの人たち、私の子たちは絶対にゆるせない・・・」

「ゆるしなさい、ゆるしなさい・・・それは一瞬の迷いだったのです。イエズスが、そう言っていたにもかかわらず、やはり捕らわれるなんてとても信じられなかったのですよ」

「だからこそ、あの人たちをゆるせないのです。知っていたら、準備していたはずです。あることが知らされ、そう言っている人を信じたなら、どんなことがあってもびっくりすべきではないわ!」

 

 (続き)
「マリア、あなたたちにも『私はよみがえるだろう』と言われたけれど、あなたたちの心と頭を割って白日のもとにさらせば『そんなことがあろうか』と書かれているはずです」

「まあ、そう、信じることは難しい・・・でも、少なくとも私たちはカルワリオに残った・・・」

「それは神の無償の恵みでした。そうでなかったら私たちも逃げたと思います。ロンジーノ(百卒長)のことばを聞きましたね。”あの恐ろしいこと”と軍人のあの人でさえも口にしました。私たち女が、たった一人の少年と一緒に、そこに残れたのは神の直接の助けがあったからです。私たちの手柄ではありません。だから、あまり誇りにしてはいけない」

 

 

 

マリア・ワルトルタ/復活/P89

 

 イエズスの顔からはもう微笑が消えている。怖れから抜け出て、やっと各自の考えを言い出せた使徒たち・・・

最後に語ったペトロに向かって、イエズスは言う。

 

「・・・私には十二人の使徒がいた。私は自ら使徒を選び出し、そして心を込めて愛してきた。母親のように世話をして、私の生活を理解し、成長するようにと努めてきた。何一つ隠しだてはせず、すべてを話し、すべてを説明し、そしてすべてをゆるしてきた。彼らの俗っぽさ、軽率さ、頑固さも含めて・・・。

 また私には、それ以外の弟子たちがいた。暗い過去のある者、弱い者、病気がちな女たちもいた。だが、一番愛していたのは使徒たちだった・・・ところが、私の”時”が来た時、一人は私を裏切って殺人者共の手にわたし、また他の三人は、私が血の汗を流して祈っている時に、その場で眠りこんでいた・・・。

また最後の時には、二人を除いて、残らず卑怯にも逃げ出した。この二人のうち一人は、もう一人の若くて忠実な模範があったのに、その模範を見ようとせず、ただ怖れのために私を否んだ・・・。

 

 更に甚だしいことには、十二人の中の一人は、絶望のうちに自殺し、もう一人は私のゆるしを疑いつづけ、もう一人は、母の忠告で辛うじて神のあわれみに踏み止まった。私の一番身近にいた使徒たちがこの有り様である。愛ゆえに忠実であったヨハネと従順を守ったシモンを別にすれば、私が人間の目で断を下したとすれば、私にはもう使徒はいないと言うべきであろう。

 

 神殿の中で、総督館で、十字架上で、道で、苦しみ悩んでいた私が、そう断じ たとしても不思議はなかろう。
 さっきヨハネが言ったが、ばらばらになってしまった使徒を、愛の炎で一つ に結び付けようとしていたのは、かつて一番罪深い女と言われたマグダラのマ リアであった。
 あなたは私を否み、私から逃げたが、彼女は私の傍に踏み止まり、侮辱され、十字架につけられ、平手打ちされ、血の肌をさらしている私のそばにいて、同 じ苦しみを味わっていた。死後も皆のからかいをものともせず、同じ信仰をもって、私の復活を信じた。彼女は今朝、苦悩に打ちひしがれそうになる自分を鞭打って、こう言った。”・・・私は持っている物、すべてを捨てます。その
代わり私の主を返してください”と。それでもまだ、あなたたちは、”なぜ彼女に・・・”と言えるのか。

 

 私には、他にも貧しい弟子たちが沢山いた。その中でも、何人かの羊飼いたちの忠実さを、私は見落としていない。

 また、他のヘブライ人の女と同様に、臆病な女弟子たちもいた。臆病と言ったが、彼女たちは、使徒たちが逃げ出してしまった代わりに、私を助けようとして家を出、私をののしり続けている群集をかき分けて近づこうとした。私を単に哲学者として尊敬していた異教徒の婦人たちもいた。彼女たちにとって私は哲学者にすぎなかったが、それでも上流のローマ婦人の中には、私への感謝をあらわし、友人であると知らせるために、あえてヘブライ人の習慣に従い、ヘブライ人の間に入ってきた。

 

 

 

(続き)

マリア・ワルトルタ/復活/P91

 

 私が全身血だらけになり、その血に土ぼこりがかぶさって、人間とも思えぬ姿になっていた時、その傷を洗い清めてくれたのはだれの手であったのか? あなたの手でもない、ここにいるだれの手でもない。ヨハネは母のそばにいた。ラザロとペトロ(*)は散った羊を集めようとしていたのだから、そうできなかったであろう。自分たちの先生が、何の罪もないのに群集の軽蔑にさらされていたとき、あなたたちは世間を恐れて顔を隠した。その時の私はのどが渇いていた。渇いているという生易しい渇きではなかった。体は熱にもえ、苦痛にさいなまれていた。裏切られ見捨てられ、打ちのめされ、罵倒され、人間の無限の罪と神の厳しい思し召しとによって、私の血は吸い取られ、正に死のうとしていた。すでにゲッセマニで血の汗を流しつくしていたこの私に、一口の水を与えるものはなかったのか。その水を与えてくれたのは、イスラエルのだれの手でもなく、一人の異教徒の哀れみの手であった。

 その時私の心は、卑怯と裏切りと愛の欠乏のために、致命的な傷を与えられていた。その私に一口の水を与えてくれたのは、もう一度言うが、末信者であった。イスラエル人の中には一人も私に慰めを与える者はなかった。それは、私の母や

婦人たちのように、それを行える状況になかったからか、あるいは悪意から、それをしたくなかったのであろう。ただ一人の未信者が、また知らなかったキリストへの心からの哀れみに動かされて、私の民がしようとしなかった事を、あえてしてくれた・・・

彼は天の国で必ずその一滴の報いを受けるであろう。

 

 神は私をいけにえにされたのであるから、私はどんな慰めも拒んだであろうが、この未信者の慰めは拒まなかった。それはイスラエルが私に与えた苦さの代わりに、異邦人から与えられる正に蜂蜜であると感じたからである。

 その水の一滴は、私の恐ろしい渇きを取り除きはしなかったにしても、失望の思いを取り除いてくれた。私の方に身をかがめて、水を飲ませようとした彼を、父に祝されたものとして、私は自分の方にと引き寄せた。

 

 どうした?もうかえす言葉がないのか・・・そのように私がした詳しい理由を尋ねないのか・・・

あるいは尋ねる勇気がないのか・・・では私の方から話そう。

 と言うのは、あなたたちだけが、私の跡を継いでくれる人たちだからである。卑怯者で、迷いの道に踏み込みはしたが、だが、あなたたちは私の後継者なのだ。あなたたちにしてもらいたいのは、正にこの事、世界をキリストの信仰に導くこと、その事である。

 

 友よ、私の友よ、それは口で言うほど易しいことではなく、極めて困難な仕事である。今までもっていたような軽蔑とか、差別とか、いずれも、人々の回心に役立つものではない。あなたたちは今まで、闇にいる人々に対して慈愛も、寛容ももつことができなかった。自分はヘブライ人であり、男であり、使徒の誇りがあると考えて、真の知恵を人々に理解させようとはしなかった。むしろ、柔和と忍耐、同情と共感、あわれみをもって、そういう人たちに接するべきであったのに。あなたたちが今まで思い上がった同情心をもって、あるいは差別をもって見てきた人たちが、自分たちよりずっと信仰の行いをして来たのが分かっただろうか・・・かつての罪の女、世俗のあかにまみれていたラザロ、私の名で人をゆるし導いた人、異教徒の婦人たち、それからクザの病弱な妻、いやいや彼女は弱くはない、あなたたちをはるかに超えている・・・それから、私への信仰の最初の殉教者、またローマの兵士たち、羊飼いたち、ヘロデ派のマナエン、ラビのガマリエルさえも・・・。

 ヨハネ・・・何を驚いているのか・・・私の霊が、ずっと死の闇の中にいたとは思ってはいまい・・・私がそれを言うのは、皆が、明日から、自分の犯したあやまちを思い出して、十字架に近寄るどんな人にも、心を閉ざさないように願うからである。今こそ、神の思し召しがどこにあるかを知る時である。全世界にキリストへの信仰を広めることが、それである。

 

 私は死に勝った。だが死といえども、古いヘブライ主義ほどには頑固でないと悟れ。私はその主義にこり固まったあなたたちを矯める。

 ペトロ、気力をなくして、めそめそするのをやめなさい。私の教会の岩であるべきあなたは、今言った私の真理を、それは耳に痛くとも、よく心に刻みなさい。腐敗から心身を守る薬をつかって、自分自身を練り直しなさい。心を開き、教会の門を閉じないように。時には私を守り、あわれんでくれたのは、イスラエルだけではなかったこと、それにローマさえも、そうしてくれた人がいた事を思い出しなさい。十字架の足下に立ち続けたのは、あなたではなく、だれよりも先に復活の私を見ることのできた、あの罪の女であったことも思い出しなさい。そして神の咎めを受けることのないように、み旨に従い、心を開いてこう言いなさい。

”・・・この私、ペトロは、どんな人も軽蔑できる人間ではない。もし私が人を軽蔑すれば、そのまま神から軽蔑され、自分の犯した罪がますます大きくなることだろう。もしこの世で主に祈らなかったら、牧者になるどころか、狼になっているだろう・・・”と、こう言いなさい」

 

 イエズスは、この上もない威厳に満ちた姿で立ち上がる。

「私の子らよ、しばらくあなたたちと共にとどまる間、また話をする機会があろう。そして、あなたたちの犯した罪をゆるす。あなたたちは、卑怯で残酷な者となっていたが、その試練も必要であったと思い、みなの罪をゆるし、心に平和がくるようにと願う。

 こうして、私の忠実な友人、力強い友人に立ち戻りなさい。

 御父は私をこの世に送られたが、私はまた教えを伝えさせるために、あなたちを人々の間におくる。様々な苦難にあえぐ人たちが、あなたたちに慰めを求めに近づいてくる。皆は、私を失った時の、惨めな気持ちを思い出し、その人たちを支え、照らすように心掛けなさい。闇の中では見ることのできない清さを教えるために、自ら清くありなさい。また人に愛を教えるためには、自ら愛をもたねばならない。光であり、清めであり、愛であるものが正しい裁きを行うあなたたちを先ず正しい者とされるように願う。聖霊が、人を清めるあなたたちを清め、過去の罪をつぐなう真実の望みを持たせてくださるであろう。その望みは、あなたたちのこれからの生活を英雄的なものとするであろう。

 聖霊が降る時、これ以上のことを、また話すであろう。今は、私の平和と愛を心から信じて踏みとどまりなさい。

 現在ここにいない一人が来る時、またそれ以上のことを話そう。彼のために祈るように・・・」

 そう言って、イエズスは入って来た時のように、ヨハネとペトロの間の空席を残したまま、光と共に消える。その光の激しさに、使徒たちは思わず目を閉じる。その閉じた目を見開いた時には、苦い過去の過ちをつぐないたいという燃えるような思いと、イエズスの平和だけが残る。

 

 

*ペトロではなく、熱心者のシモンの間違いではないか?