主
1.主イエス・キリストの名
2.なぜ主は人間性を取られたか
4.主は復活されて一番初めに聖母に現れた
5.弥陀の本願・主は私達を愛してくださる
6.主はアブラハム以前におられた
7.主についての証
8.主のお顔・聖骸布のご絵
9.主は罪を負われた
13.主と呼んだ理由
14.主は宇宙を支配したもう
16.主が来られる前の天
17.唯一の神、唯一の主
18.主は真の「人間」
19.神は知ることはできないか? 神を求めよ
22.主は礼儀正しい
23.主は神
24.主の老い、疲れ
25.主の死
26.主は微笑むが笑わない
27.主の眼差し
28.主は感謝される
29.エホバ
30.何人も主によらなくては主またはその名の『イエス』を口にすることすら出来ない
ヨハネ13・13−15
あなたがたは、私を『先生』とか『主』とか呼ぶ。そう言うのは正しい。私はそうである。それで、主であり、師である私があなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合うべきである。私があなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのだ。
1.主イエス・キリストの名
真のキリスト教682
聖言では、主イエス・キリストの名は彼を認め、彼の誡命に従う生活を意味する。「汝神の名を妄に口にあぐべからず」との第二の誡命の説明を参照されよ(297番以下)。また以下の記事を参照されよ。イエスは語り給うた、「汝らは我が名のために凡ての人に憎まれん」(マタイ10・22、24・9,10)、「ニ三人我が名によりて集まる所には、我もその中に在るなり」(マタイ18・20)、「彼を受けし者、すなわちその名を信ぜし者には、神の子となる権を与え給えり」(ヨハネ1・12)「多くの人々彼の名を信じたり」(ヨハネ2・23)、「信ぜぬ者は既に審かれたり、神の独子の名を信ぜざりし故なり」(ヨハネ3・18)。「信じて御名により生命を得ん」(ヨハネ20・31)。「而して汝は我が名の為に労し心ひるまざりき」(黙示録2・3)その他。
これらの記事の主の名は、主を贖罪者、救い主として認め、彼に服従し、最後に彼を信ずることである。
2.なぜ主は人間性を取られたか
参照:ご託身の理由
4.主は復活されて一番初めに聖母に現れた
聖母から司祭へ87.8.21
ご復活の後で、栄光にみちたおん体、輝かしさとその神性の光に包まれて、いちばん始めに、わたしにお現れになったとき、わたしは、イエズスのうちに神を拝んでいたのです。
聖母から司祭へ/1983.4.3
イエズスが、わたしのいた小さな部屋にお入りになって、光栄あるそのおん体の神的輝きに包まれて、母であるわたしの顔にせっぷんしようとして、身をかがめられたときに、わたしの心が感じた喜びを、きょう、あなたと、あなたの兄弟である司祭、また、わたしの愛する子らみなに伝えます。あのとき、わたしは、深くイエズスを礼拝して、輝くそのおん傷のあとに喜びの涙を注いでいました。
5.弥陀の本願・主は私達を愛してくださる
天界の秘義2253
主は全人類を永遠に救おうとはげしく望まれたのである。
天界の秘義6495
主は全人類を愛され、その各々の者を永遠に救おうと願われているからである。
詩篇103・13
父がその子を憐れむように
主は主を畏れる人を憐れんでくださる。
詩篇119・151
主よ、あなたは近くにいてくださいます。
イザヤ30・19
主はあなたの呼ぶ声に答えて
必ず恵みを与えられる。
主がそれを聞いて、直ちに答えてくださる。
イザヤ41・13
わたしは主、あなたの神。
あなたの右の手を固く取って言う
恐れるな、わたしはあなたを助ける、と。
イザヤ45・14,21
神はたしかにあなたのうちにいます。ほかにはおられない。他の神々はむなしい。
わたしをおいて神はない。正しい神、救いを与える神はわたしのほかにはない。
地の果てのすべての人々よ
わたしを仰いで、救いを得よ。わたしは神、ほかにはいない。
イザヤ45・18、わたしが主、ほかにはいない。
わたしは隠れた所で、地の闇の所で語ったことはない。ヤコブの子孫に向かって混沌の中にわたしを求めよ、と言ったことはない。
箴言1・7,22
主を畏れることは知恵の初め。
いつまで浅はかな者は浅はかであることに愛着をもち
不遜な者は不遜であることを好み
愚か者は知ることをいとうのか。
箴言2・4−5
銀を求めるようにそれを尋ね
宝物を求めるようにそれを捜すなら
あなたは主を畏れることを悟り
神を知ることに到達するであろう。
イザヤ65・2
反逆の民、思いのままに良くない道を歩く民に絶えることなく手を差し伸べてきた。
イザヤ46・3−4
あなたたちは生まれた時から負われ
胎を出た時から担われてきた。
同じように、わたしはあなたたちの老いる日まで
白髪になるまで、背負って行こう。
わたしはあなたたちを造った。
わたしが担い、背負い、救い出す。
イザヤ49・15−16
女が自分の乳飲み子を忘れるであろうか。
母親が自分の産んだ子を憐れまないであろうか。
たとえ、女たちが忘れようとも
わたしがあなたを忘れることは決してない。
見よ、わたしはあなたをわたしの手のひらに刻みつける。
詩篇37・24−26
人は倒れても、打ち捨てられるのではない。
主がその手をとらえていてくださる。
若いときにも老いた今も、わたしは見ていない
主に従う人が捨てられ
子孫がパンを乞うのを。
生涯、憐れんで貸し与えた人には
祝福がその子孫に及ぶ。
詩篇55・23
あなたの重荷を主にゆだねよ
主はあなたを支えてくださる。
主は従う者を支え
とこしえに動揺しないように計らってくださる。
6.主はアブラハム以前におられた
アタナシウス信条についてP39
単純な者は人間を考えるように神を考えるのである。最古代の人々はそのように考えたのであり、さらに、アダムからアブラハムに、モーセに、予言者たちに至るその教会に属した者たちは神を人間として見て、その方をエホバと呼んだのであり、かれらが見たその方は、ヨハネ伝(8・58)に明白であるように、主であられたのであり、そこには主はアブラハム以前におられた、と言われているのである。賢明な異教徒はその方を同様に考えたのであり、そこからかれらの偶像が発したのであり、現今ではアフリカ人は、またとくに凡ゆるいくたの地球に住んでいる者たちもまたそのことを行なっており、諸天界にいる凡ゆる天使たちもまた、天界の形そのものから、それ以外な考えを持ってはいないのである。そうした考えはそこから、流入により発しており、かくてそれは、いわば、植えつけられているが、しかしそれはキリスト教界の中では学のある者らの間では失われているのである。(「黙示録講解」808番を参照。)
アタナシウス信条についてP47
神的な人間的なものが永遠から存在したことは、主が以下のように言われていることから明らかである、すなわち、アブラハムはその方を見たのであり、見られたもうた方はその方であって、父ではなかったのであり、話されたのはその方であり、その方は『イスラエルの聖者』であられ、その方が見られたもうたのであり、さらに聖言に他の多くの事柄が記されているのである。(
真の基督教109
主は実に古の人々によって見られた。(中略)
然し主はその時単に表象され給うたに過ぎなかった故―その表象は天使達によって行なわれた―
真の基督教188
彼は同じく古代人に自らを人間の形によって見ゆるもの、近づき得るものと為し給うたのである。
7.主についての証
天界の秘義9818[26]
「主について証すること」はその霊的な意義では主について教えることを意味している。
8.主のお顔・聖骸布のご絵
ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/1巻P327
主: 私の顔のこの部分はすべて傷めつけられた、
(聖骸布の写真を見ていたところでした)
ヴァッスーラ:私の見ているところすべてですか、主よ?
主:そうです、すべて、彼らは私のひげをどこも抜き取って、右目も傷つけた。
ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/1巻P334
主:来なさい 小さな者よ 私を愛撫してほしい。
ヴァッスーラ:はい、主よ。(これによってイエスは、私の持っている聖骸布の、イエスの大きな像をそっと撫でるようにとおっしゃっています。しばしば黙想していたり、主と話をしているときに、手を伸ばして主の聖骸布の写しをそっと撫でる癖があるのです。それは滴る御血を拭き取って、主の痛みを和らげたいという思いがあるからのようです。私はこれを考えないでしています。なぜなら、黙想に没頭していますから。)
ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/1巻P353
私は、イエス、このことが知られるように、私、または御母の似姿はどのようなものでも尊ぶべきです、それは私を十字架が現しているように 私たちを表わしているからです。 私の聖骸布が確かに本物だと知るように、それは私を覆った布そのもの、そして私が祝福している、ヴァッスーラ、我が心の中に入りなさい、あなたをそこに隠させてもらいたい。 休みなさい、さあ、あなたの父親のもとに来なさい。
ヴァッスーラ:神様が私を包んで下さっているように感じました、主に包まれて幸せでした。
9.主は罪を負われた
主について主は人類のために「罪を負われた」と言われていることが教会に知られているが、それでも「不法(咎)と罪を負うこと」により意味されていることは知られてはいないのである。それは以下のことを意味しているとある者から信じられている、すなわち、主は主御自身に人類の罪を取り、十字架の死にまでさえも御自分が罪に定められるのに甘んじられた、罪に対する非難がかれの上に投げられたため、それで人間は堕地獄から自由にされた、また堕地獄は主が律法を成就することを通してとり去られた、なぜなら律法は律法を成就しない者をことごとく罪に定めるからである、と。
天界の秘義9937[2]
しかしこうした事柄は「不法を負うこと」によっては意味されてはいないのである。なぜなら人間各々の行為は死後もその者のもとにとどまっており、その行為の性質に応じて人間は、生命か、死か、その何れかに審判されるからである。その行為の性質は人間の愛と信仰から発しているのである。なぜなら愛と信仰とが行為の生命を作っているからであり、それでそれらは(誤謬と悪とは)それらを負う他の者に移されることにより、とり去られることはできないからである。ここから「不法を負うこと」により他の何かが意味されていることが明白であるが、しかし意味されていることは主が不法または罪を負われることそのことから認めることができよう。なぜなら主は地獄に反抗して人間のために戦われるとき、不法を負われるからである。なぜなら人間は人間自身からではこの地獄に反抗して戦うことはできず、主のみがそのことを行なわれ、実に絶えず人間各々のためにそのことを行われておられるからである。が、しかしそれにはその人間が神的な善と神的な真理とを受け入れるに応じて変化が伴っているのである。
天界の秘義9937[3]
主は世におられたとき、凡ゆる地獄と戦われ、完全にそれらを征服されたのである。そこから主はまた義となられたのである。かくて主は主から神的な善と真理とを受け入れる者たちを堕地獄から救い出されたのである。このことが主により行なわれなかったなら、たれ一人救われることができなかったのである。なぜなら主が地獄を遠ざけられないがぎり、地獄は絶えず人間のもとに在って、かれを支配しており、主はその人間が悪から遠ざかるに比例して悪を遠ざけられるからである。ひとたび地獄を征服する者はそれを永遠に征服するのであり、このことが主により行なわれるために、主はその人間的なものを神的なものとされたのである。それでただ独り人間のために諸々の地獄に反抗して戦う方が(または、それと同じことではあるが諸々の悪と誤謬とに反抗して戦う方が―なぜなら悪と誤謬とは地獄から発しているからである―)「罪を負う」と言われているのである。なぜなら主のみがこの重荷を支えられるからである。「罪を負うこと」によりまた善にいる者たちから悪と誤謬を遠ざけることが意味されていることは、そのことがその結果であるためである。なぜなら地獄が人間から遠ざけられるに比例して、悪と誤謬も、その二つとも、前に言ったように、地獄から発しているため、遠ざけられるからである。悪と誤謬は「罪」と「不法」である。そのかんの実情は前に示したところから認めることができよう(9715,9809)。そこには主の功績と義をまた主による地獄の征服をとり扱ったからである。
天界の秘義9937[4]
アロンについて、かれは「不法を負わなくてはならない」(出エジプト記28・38)と言われている理由は、かれが主を表象し、その祭司職は主の救いの業をことごとく表象したためであり(9806、9809)、救いの主要な業は人間を地獄から贖い、解放し、かくして悪と誤謬とを遠ざけることである。悪と誤謬とを遠ざけると言ったのは、罪からの解放は(即ち、罪を許されることは)罪を遠ざけること以外の何ものでもないためである。なぜなら罪はその人間のもとに留まっているが、しかし愛の善と信仰の真理が植えつけられるに比例して、悪と誤謬は遠ざけられるからである。このかんの実情は天界と地獄のそれに似ている。天界は地獄を廃棄しないで、天界自身から地獄にいる者らを遠ざけるのである。なぜなら天界を作るものは主から発している善と真理であり、この善と真理がこのように遠ざけるものであるからである。
人間の場合も類似しており、人間は人間自身では地獄であるが、しかし再生しつつあるときは、天界となり、天界となるに正比例して、地獄は遠ざけられるのである。悪、すなわち罪はこのようにして遠ざけられはしない、絶対的に分離されるのであると一般に考えられている。しかしこうした人物は以下のことを知らないのである。すなわち、人間全体は人間自身からでは悪以外の何ものでもなく、人間が主により善の中に保たれるに応じて、かれに属している悪が恰も根こそぎにされたかのように見えるのである。なぜなら人間は善の中に保たれるとき、悪から遠ざけられているからである。にも拘らずたれ一人主から信仰のまた仁慈の善の中にいないかぎり悪から遠ざけられ、善の中に留めおかれることはできないのである。すなわちかれ自身が主により再生することに耐えるに応じてのみ(悪から遠ざけられ、善の中にとどめおかれるのである)。なぜなら前に言ったように、天界は人間の中に再生により植えつけられ、そのことによって人間の内部に在る地獄は遠ざけられるからである。
天界の秘義9937[5]
この凡てから以下のことを再び認めることができよう。即ち、「不法を負うこと」は、それが主について言われている時は、人間のために地獄に反抗して絶えず戦い、かくして絶えず地獄を遠ざけることを意味しているのである。なぜなら人間が世に生きている間のみでなく、他生でも永遠に不断に(主は)地獄を遠ざけておられるからである。いかような人間にとっても悪をこのように遠ざけることは不可能である。なぜなら人間は人間自身からでは悪の最小のものさえも遠ざけることはできず、ましてや諸々の地獄は遠ざけることはできず、実に些かも永遠にそれらを遠ざけることはできないからである。
13.主と呼んだ理由
天界の秘義14
以下の著作では主という名により世の救い主、イエス・キリストその方のみが意味されており、その方は諸天界と地上の至高の権能を凡てもたれているため、他の名を附加しないで『主』と呼ばれる。全天界に遍く主として認められ、崇められたもうものはその方である。かれはその弟子たちに御自分をそのように呼ぶように命じられ、『あなたたちはわたしを主と呼んでいるが、そのように呼ぶのは正しい、わたしは存在するからである』と語られた(ヨハネ13・13)。そしてその復活後その弟子たちはかれを主と呼んだのである。
ヨハネ20・28
トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。
天界の秘義2921[6]
かれらがエホバを「主」と呼んだ隠れた理由の中には以下のようなものがあった。
もし当時、主が旧約聖書でしばしば言われているそのエホバであられると言われたなら(1736番参照)、人々はそれを受け入れはしなかったであろう。なぜならかれらはそれを信じなかったであろうし、さらに主はその神的な本質をその人間的な本質に、その人間的な本質にその人間的なものをその神的なものに完全に結合されなかったうちはその人間的なものの方面でもまたエホバとはなられなかったからである。
完全な合一は十字架の試練であるその最後の試練により成就されたのであり、そうした理由から復活の後で、弟子たちはかれを主と呼び、トマスは「我が主よ、我が神よ」と言ったのである(ヨハネ20・28)。主は旧約聖書で再三記されているエホバであられたため、それで主はまた弟子たちに言われたのである―
あなたたちはわたしを師または主と呼んでいるが、その言葉は正しい、わたしは(その者で)在るからである(ヨハネ13・13,14,16)。
これらの言葉はかれは神エホバであられたことを意味している、なぜならかれはここでは善の方面では『主』と呼ばれ、真理の方面では『師』と呼ばれたもうからである。主はエホバであられたこともまた天使たちが羊飼いたちに言った言葉によっても意味されている―
あなたがたに今日救い主が生まれたもうた、かれは主、キリストであられる(ルカ2・11)。
主はメシヤ、油注がれた王として『キリスト』、善の方面では『主』と呼ばれたもうているのである。聖言を入念に研究しない者はこのことを知ることができないであろう、なぜならかれは、われらの主は、他の者のように、普通の尊称から主と呼ばれたもうたのであると考えるからであるが、まことは主はエホバであられたため、そのように呼ばれたのである。
真の基督教297
神エホバの名はそれ自身において聖いものであるため、ユダヤ人は、その名が用いられた最初の時から、敢えて「エホバ」とは決して言わなかった。そして彼らのために福音記者達も、使徒達もこれを記していない。彼らはエホバの代わりに新約聖書中に引用されている旧約聖書の種々の記事に見られ得るように(マタイ22・37、ルカ10・27、申命記6・5等と比較せよ)「主」と語ったのである。
マタイ22・37
イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』」
ルカ10・27
彼は答えた。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」
申命記6・4−5
聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。
天界の秘義1733
「天と地とを持たれる方」(創世記14・19)。これは内なる人またはエホバが内的な人と外的な人と連結していることを意味しており、そのことは『天と地』の意義から明らかである。人間における内的なものは『天』と呼ばれ、外的なものは『地』と呼ばれている。『天』が人間における内的なものを意味している理由は、人間はその内部の方面では天界の映像であり、かくて一種の小さな天界であるということである。主は天界の凡てのものにおける凡てであられ、かくて天界そのものであられるため、第一義的には主の内的な人が天界である。外的な人が地と呼ばれているのはこのことから生まれている。
また同じ理由から、予言者の書と黙示録とに語られている『新しい天』と『新しい地』とにより、主の王国以外には、また主の王国であるところの、または主の王国がその内に宿っているところの者以外には何ごとも意味されてはいないのである。『天と地』がこれらの事柄を意味していることは、すなわち、『天』については82,911番に、『地』については82,620,639、913番に見ることができよう。
[2]ここに『天と地を持たれる方、いとも高い神』は主の中に内なる人が内的な人と外的な人と連結していることを意味していることは以下の事実から認めることができよう、すなわち、主はその内なる人の方面ではエホバ御自身であられたのであり、内なる人またはエホバは、父がその子を導き、教えるように、外なる人を導き、教えられてため、それで主は、エホバに関連しては、その外なる人の方面では『神の子』と呼ばれたもうたが、しかし母に関連しては、『人の子』と呼ばれたもうたのである。
エホバ御自身であられる主の内なる人はここに『いとも高い神』と呼ばれるものであり、完全な連結または結合が行われる以前は、『天と地を持たれる者』すなわち内的な人と外的な人の中にある凡ゆるものを持たれるものと呼ばれている、なぜならこうしたものが、前に言ったように、『天と地』によりここに意味されているからである。
天界の秘義1735
「いとも高い神が祝福されますように[ほめたたえられますように]」(創世記14・20)。これは主の内なる人を意味していることは内なる人についてすぐ前に言われたことから明白である。古代教会では、『高いもの』は内なるものを表象し、それでそのことを意味し、かくて『いとも高い者』は最も内なるものを意味したという理由からエホバは『いとも高い』神と呼ばれたもうたのである。そこから古代教会の礼拝は高いところに、山に、岡に行われたのである。最も内なるものもまた外的なものと最も外なるものに対しては、最高のものが低いものと最低のものとに持っている同じ関係を持っているのである。
もっとも高いものは、または最も内なるものは愛の天的なものであり、または愛そのものである。エホバは、または主の内なる人は、愛の天的なものそのものであり、すなわち、愛そのものであったのであり、この愛には純粋な愛の属性いがいには、かくて全人類に対する純粋な慈悲の属性以外にはいかような属性も適合していないのであり、それは凡ゆる者を救って、かれらを永遠に幸福にし、かれらにその持っている凡ゆるものを与えようと欲するといったものであり、かくて純粋な慈悲から、進んで従って来ようとする者をことごとく天界に、すなわち、それ自身に、愛の強い力により引きよせようと欲するといったものである。この愛そのものがエホバである。
[2]愛を除いては何ものにも存在が属性づけられることはできない。凡ゆる生命の存在そのものが、すなわち生命そのものがこの愛から―それが愛の中に、または愛そのものにぞくしているため―発している。そしてエホバのみが愛であられるため、かれのみが生命の存在であられ、または生命そのものであられるため、一切のものはことごとくそこからその存在と生命とを得ているのであり、また何人もエホバのみによらなくては、すなわち主のみによらなくては、自分自身からは存在し、生きることはできないため、人間が人間自身から生きているように人間自身に思われているのは感覚の妄想[迷妄]である。
天使たちは主の愛の中に生きているため、主の生命の存在そのものの中に生きているからには、かれらは自分たちが自分たち自身から生きているのではなくて、主から生きていることを明らかに認識しているのである。しかしそれでもかれらにはかれらはかれら自身から生きているという外観が言いつくしがたい幸福とともに他の凡ての者にもまさって与えられているのである。それでこれが主の中に生きることであって、それはわたしたちが主の愛の中に、すなわち、隣人に対する仁慈の中に生きない限り、決してありえないのである。
天界の秘義1736
主はここに『いとも高い神』と呼ばれたもうているエホバであられることは聖言から明白である。イザヤ書には―
万軍のエホバはその御名であり、あなたのあがない主、イスラエルの聖者である、全地の神とかれは呼ばれたまうている(54・5)
ここにはあがなう者イスラエルの聖者は主のみであられて、『万軍のエホバ』であられ、『全地の神』であられることが明らかである。さらに―
あなたのあがない主、イスラエルの聖者はこのように言われた、わたしはあなたの神エホバである(48・17)。
さらに―
わたしはまことにあなたを助ける、とイスラエルの聖者、あなたのあがない主、エホバは言われる(41・14)。
『イスラエルの聖者』と『イスラエルの神』という表現は何度も現れている。主はイスラエルの聖者であられ、またイスラエルの神であられることは以下に明白である。―
かれらはイスラエルの神を見た、その御足の下には青玉で作ったもののようなものが、すきとおっているために天の原質のようなものがあった(出エジプト24・10)。
[2]他のいかようなものもユダヤ教会によりエホバとは承認されなかったのであり、またエホバとも呼ばれなかったのである、なぜならそれは一人の神エホバを拝したからであり、しかもそれは以下の理由から―その理由はかれらの大半には知られていなかったのではあるが―さらに充分に行われたのである、すなわち、かの教会の祭儀はことごとく主を表象したのであり、聖言の凡ゆるものは、その内意では主を意味していたのである。イザヤ書には―
かれはとこしえに死をのみこまれるであろう、主エホビはすべての顔から涙をぬぐいさりたもうであろう。そしてかの日言われるであろう、見よ、この方がわたしたちの神である、わたしたちはかれを待っていた、かれはわたしたちを救われるであろう、この方はエホバである、わたしたちはかれを待っていた、その御救いの中に歓びおどり、喜ぼう(25・8,9)。
これは主が来られることをとり扱っているのである。
[3]同書に―
見よ、主エホビは力をもって来られるであろう、その御腕はかれのために統べ治めるであろう。かれは羊飼いのようにその羊の群を養われるであろう、かれはその腕の中に子羊を集められるであろう、かれはその胸の中にかれらを抱いて連れて行かれるであろう、かれは乳のみ児を導かれるであろう(40・10,11)
ここに主エホビであられる主が明らかに語られている。かれが『力をもって来られる』ことと『その御腕がかれのために統べ治められる』ことは主は主御自身の力により地獄を征服されるであろうということを意味しており、『かれの羊の群を養い、その腕の中に子羊を集め、かれらをその胸の中に抱いて連れて行き、乳のみ児を導く』ことは主の愛または慈悲について述べられているのである。
[4]さらに―
諸天を創造られたエホバ、地を形作り、それを作られた神御自身はこのように言われた、かれはそれを確立された、かれはそれを空ろなものに創造られなかった、かれはそれを人がそこに住むように形作られたのである、わたしはエホバである、他にはたれ一人いない。わたしはエホバではないか、わたしの他には神は一人もいないではないか。(わたしは)正しい神、救い主である、わたしの他には一人もいない。地の凡ての端よ、わたしを見つめて、救われよ、わたしは神である、他にたれ一人いないからである(45・18,21,22)。
ここには主は主のみがエホバであられ、神であると明らかに語られている。『諸天を創造し、地を形作る』ことは再生させることであり、かくて天と地との創造者は再生させる方であられることは、前の16、88、472番、その他に認めることができよう、それで主はしばしば創造者、形成者[形作る者]、作成者[作る者]と呼ばれたもうている。
[5]さらに―
あなたはわたしたちの父であられる、アブラハムはわたしたちを知らないし、イスラエルはわたしたちを承認しないからであります。ああ、エホバよ、あなたはわたしたちの御父、わたしたちの贖い主であられる、あなたの御名は永遠から存在しています(63・16)。
ここには主が明らかに意味されており、主のみが『贖い主[贖う方]』である。モーセの書には―
かれの御顔に心を留めよ、その御声をきけよ、かれを怒らせてはならない、かれはあなたらの咎を負われはしないであろう、わたしの名はかれの真中にあるからである(出エジプト23・21)。
『名』は本質を意味していることについては、前を参照されたい(144、145番)。そして『真中に』は最も内なるものを意味している(1074番)。
[6]イザヤ書には―
わたしたちに一人の子供が生まれたもうた、わたしたちは一人の御子[息子]を与えられた、政りごと[統治]はその肩の上に在るであろう。その御名は驚異、勧告者、神、英雄[ますらお]、永遠の父、平安の君ととなえられるであろう(9・6)。
これは明らかに主について言われている。エレミア記には―
見よ、日が来て、わたしはダビデに義しい芽を出させるであろう、かれは王として統べ治め、理知をもって行動し、地に審判と公正とを行うであろう、その日にユダは救われ、イスラエルは信頼して[安んじて]住むであろう、これがかれらがかれを呼びまつる御名である、すなわち、わたしたちの義、エホバ(23・5,6)。
これは明らかに主を意味している。ゼカリア書には―
エホバは全地を統べる王となられるであろう、かの日一人のエホバがおられ、その御名は一人である(14・9)。
これは明らかに主を語っている。『名』は本質を意味している。
14.主は宇宙を支配したもう
天界の秘義3704
主は神的善から神的真理により宇宙の凡ゆるものを全般的にも個別的にも支配されていることが明白である。
16.主が来られる前の天
天界の秘義6371
主が世に来られない中は、エホバまたは主から天的な王国を通して、すなわち、その王国にいる者たちを通して人間または霊たちに生命が流入していたのである、そこから当時かれらは主権を持っていたのである。
しかし主が世に来られ、それによって御自身の中の人間的なもの[人間性」を神的なものとされたとき、主は天的な王国の天使たちのもとに在ったものを正しく着けられ、かくてこの主権を着けられたのである。
天界の秘義6372
当時霊的な王国は主が来られた後の霊的な王国のようなものではなく―天的な王国からは明確に区別されたものではなくて―天的な王国とは一つのものとなっており、たんにその外なるものにすぎなかったからである。
17.唯一の神、唯一の主
申命記6・4
聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。
申命記5・6−7
わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。
あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。
イザヤ64・3
あなたを待つ者に計らってくださる方は神よ、あなたのほかにはありません。昔から、ほかに聞いた者も耳にした者も目にした者もありません。
イザヤ45・15
まことにあなたは御自分を隠される神
イザヤ45・14,21
神はたしかにあなたのうちにいます。ほかにはおられない。他の神々はむなしい。
わたしをおいて神はない。正しい神、救いを与える神はわたしのほかにはない。
地の果てのすべての人々よ
わたしを仰いで、救いを得よ。わたしは神、ほかにはいない。
イザヤ45・18、
わたしが主、ほかにはいない。
わたしは隠れた所で、地の闇の所で語ったことはない。ヤコブの子孫に向かって混沌の中にわたしを求めよ、と言ったことはない。
ヨハネ5・44
互いに相手からの誉れは受けるのに、唯一の神からの誉れは求めようとしないあなたたちには、どうして信じることができようか。
ローマ書3・29、30
それとも、神はユダヤ人だけの神でしょうか。異邦人の神でもないのですか。そうです。異邦人の神でもあります。実に、神は唯一だからです。
ローマ9・5
キリストは、万物の上におられる、永遠にほめたたえられる神、アーメン。
18.主は真の「人間」
黙示録講解1115[4]
天界の秘義49
創世記第1章26節。「神は言われた、わたしたちは人間をわたしたちの像[映像]に、わたしたちの姿に似せて作り、かれらに海の魚、天の鳥、獣、凡ての地、地を這う凡ての物を治めさせよう、と」。主は最古代教会ではその教会の人々と面と面を会わせて語られたが、その際、主は人間として現われたもうたのである。このことに就いては多くの事を語ることが出来るが、今はその時ではない。そうした理由からかれらは主御自身と主に属したものを除いては誰も『人間』と呼ばず、また彼ら自身さえも『人間』と呼ばないで、ただ彼らが主から得ていると認めたところの―愛の凡ての善と信仰の凡ての真理といった―かれら自身の中に在るもののみを『人間』と呼んだのである。そうしたものをかれらはそれが主のものであるため、『人間[人]のもの』と呼んだのである。
[2]かくて予言者の書の中には、『人間』と『人の子』により、その最高の意義では主が意味され、内なる意義では、智慧と理知が意味され、かくて再生した者各々が意味されているのである。例えば―
わたしは地を見たが、見よ、うつろで空しかった、天を見たが、光はなかった。わたしは見た、見よ、人はおらず、天の鳥は凡て飛び去っていた(4・23,25)。
イザヤ書には、『人[人間]』により、その内なる意義では再生した人物が意味され、その最高の意義では主御自身がただ一人の人間として意味されている―
イスラエルの聖者、それを形作られた方、エホバがこのように言われた、わたしは地を作り、その上に人間を創造った。わたしはまことにわたしの手をもって諸天をのべひろげ、その凡ての軍勢に命じた(45・11,12)。
天界の秘義288
『人[人間]』により最古代教会の人がまたは天的な人が意味されていることは前にしめしたが、同時にまた主のみが人間であられ、主から天的な人間はことごとく、主の形に似ているため、人間となっていることも示した。かくて教会の会員は、例外なしに、または区別なしに、人間と呼ばれ、ついにはこの名前は身体が人間として現れている者を凡て獣から区別するために、その者に適用されたのである。
19.神は知ることはできないか?神を求めよ
詩篇53・3
神は天から人の子らを見渡し、探される
目覚めた人、神を求める人はいないか、と。
詩篇69・33
貧しい人よ、これを見て喜び祝え。
神を求める人々には
健やかな命が与えられますように。
ホセア6・3
我々は主を知ろう。
主を知ることを追い求めよう。
主は曙の光のように必ず現れ
降り注ぐ雨のように
大地を潤す春雨のように
我々を訪れてくださる。
ホセア6・6
わたしが喜ぶのは、愛であっていけにえではなく
神を知ることであって、焼き尽くす献げ物ではない。
使徒言行録17・23
道を歩きながら、あなたがたが拝むいろいろなものを見ていると、『知られざる神に』と刻まれている祭壇さえ見つけたからです。それで、あなたがたが知らずに拝んでいるもの、それをわたしはお知らせしましょう。
使徒言行録17・27
これは、人に神を求めさせるためであり、また、彼らが探し求めさえすれば、神を見出すことができるようにということなのです。
イザヤ11・9
水が海を覆っているように
大地は主を知る知識で満たされる。
イザヤ65・1−2
わたしに尋ねようとしない者にも わたしは、尋ね出される者となり
わたしを求めようとしない者にも 見いだされる者となった。
わたしの名を呼ばない民にも わたしはここにいる、ここにいると言った。
反逆の民、思いのままに良くない道を歩く民に絶えることなく手を差し伸べてきた。
箴言2・5
あなたは主を畏れることを悟り
神を知ることに到達するであろう。
エレミヤ10・21
群れを養う者は愚かになり
主を尋ね求めることをしない。
エレミヤ31・34
彼らはすべて、小さい者も大きい者もわたしを知るからである、と主は言われる。
エレミヤ29・13
わたしを尋ね求めるならば見出し、心を尽くしてわたしを求めるなら、わたしに出会うであろう、と主は言われる。
マタイ7・7−12
求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか。魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない。だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である。
ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/8巻P23
私を探しなさい そうするなら見いだす、叩きなさい 戸は開かれる。たとえあなたが:「主の御心に踏み込むなど とうてい私にはできない」と言おうと、私は言う:「あなたは私の子ども、私のものであって私が蒔いた種子。私に属するのであって誰のものでもない。あなたは私に由来し 誰から来たのでもない。それゆえ 我が心の中にいてほしい。」―そう、まだ私を探していなかったかも知れない だが私はあなたを見いだした。これが、我が子 日本よ、あなたへのメッセージ。あなたを祝福し、額に 我が愛の溜息を残す。
知恵の書2・13−16
神に従う人は、神を知っていると公言し、自らを主の僕と呼んでいる。彼らの存在は我々の考えをとがめだてる。だから、見るだけで気が重くなる。その生き方が他の者とは異なり、その行動も変わっているからだ。我々を偽り者と見なし、汚れを避けるかのように我々の道を遠ざかる。神に従う人の最期は幸せだと言い、神が自分の父であると豪語する。
22.主は礼儀正しい
マリア・ワルトルタ/受難の前日/P11
イエズスはマントを脱ぎ、いつものようにきちんと折りたたんで、椅子に使っている木の箱の上に置く。
23.主は神
テトスへの手紙1・3
神は、定められた時に、宣教を通して御言葉を明らかにされました。わたしたちの救い主である神の命令によって、わたしはその宣教をゆだねられたのです。
テトスへの手紙2・13
また、祝福に満ちた希望、すなわち偉大なる神であり、わたしたちの救い主であるイエス・キリストの栄光の現われを待ち望むように教えています。
24・主の老い、疲れ
マリア・ワルトルタ/イエズスの受難/P35
神の子羊には時というものがなく、ただ存在するものです。この世の初めの日にそこにいたように、終わりの日も変わらない。父のようであるものは、自分の神的な本性においては老いを知らない。その人格においては、一つだけの老齢、一つだけの疲れを知っています。それは、多くの人々のために来たのは無駄だったという幻滅です。
25.主の死
マリア・ワルトルタ/イエズスの受難/P36
主が弟子たちに:
私が殺されたと知ったとき―自分たちの主が、傷まみれのらい病者に変わったと見るであろう目は、いま私のそばで涙ぐみ、そのためにこの美しい丘さえもかすんでしまっているが―こう言いなさい。“この傷のために死んだのではなく、最も愛している多くの人々に無視され、あまりにも多くの人々から拒まれたからです”
26.主は微笑むが笑わない
マリア・ワルトルタ52・5/天使館第1巻P470
婚礼の宴は始まる。皆、食欲旺盛で、杯を干す。わずかな痕跡を残している(*)のは、イエズスとその母だけで、母は口数も少ない。イエズスは彼女よりは話す。しかしあまり話さないといっても、顰(しか)めっ面をしたり、他を蔑むのではない。問われればにこやかに答え、話しかける人には関心を示し、自分の意見を述べるが、その後は、瞑想するのが習性になっているかのように、自分自身に沈潜する。微笑むが決して笑わない。あまりに軽率な冗談を聞くと、聞かないということを示す。マリアはイエズスを凝視して糧にする。食卓の奥の方に席を占めているヨハネもまた同様で、先生の唇の動きから洩らさずに聞き入っている。
*少し食べ、少し飲む
マリア・ワルトルタ/イエズス―たそがれの日々/P45
先生は大抵、口を開かず、ただ何かを教えたり、使徒たちの間違った考えを訂正したり、気の毒な人々を慰めようとするときだけ、話をする。イエズスは「みことば」であるが、決しておしゃべりではない。だれよりも忍耐強く親切である。
27.主の眼差し
マリア・ワルトルタ/イエズス―たそがれの日々/P46
イエズスの瞑想とは何だろう?それは人間が体験する脱魂よりもずっと深いものであろう。この受け取り方は間違っていないと思う。イエズスの表情を見ただけで「神との感覚的一致がある」と言える。御父と同じく神であるから、キリストには絶えず神性が伴う。天と同じく地上においても、御父は御子におられ、御子は御父におられる。
この愛によって第三の位格、聖霊が生まれる。御父の権勢は御子を生み、生むまた生まれるという行為は「火」すなわち神の霊をつくる。どんな場合も、お互いの認識は―人間の不完全な認識でもそうだが―愛をつくるのであって、神の場合それは聖霊である。それはご自分の中で御父を眺める神なる人間の、人間として、また神として、目を上げるときの眼差しである。
ああ!だれ一人、詩人でも、画家でも、神性から出るその眼差しを表現することはできない。奇跡を行うときのその眼差しの力強さ。人間としての表情はいかにも甘美であり、苦しみの目の光は、見るだに心痛む。しかし、その表現は完全であっても、まだ人間的な眼差しである。三位一体の一致性において、眺め愛する神の御子の眼差しは、どんな形容詞も及ばないものである・・・
28.主は感謝される
マリア・ワルトルタ/聖母マリアの詩上P312
(主がマリア・ワルトルタに)
小さなヨハネ、平和に行きなさい。あなたのイエズスは、あなたに感謝し、祝福している。
天界の秘義4766[3]
しかし主御自身が以下のように言われているように、即ち、『あなた方はわたしを信じないにしても、業を信じなさい、あなた方が父はわたしの中に、わたしは父の中にいることを知り、信じるためである』(ヨハネ10・38)、『わたしを見た者は父を見たのである、ピリポよ、あなたはわたしが父の中に、父がわたしの中におられることを信じませんか、わたしは父の中に、父はわたしの中におられるというわたしを信じなさい』(ヨハネ14・9−11)、『わたしを見る者はわたしを遣わされた者を見るのである』(ヨハネ7・45)、『わたしのものは凡てあなたのものであり、あなたのものは凡てわたしのものである』(ヨハネ17・10)と言われているように、その中に完全な三一のものが在り、父の中におられ、また父がその中におられる主のみが崇拝されると、その時は基督教会が存在するのであり、同じく教会が主が以下のように言われたことの中に止まるとき基督教会が存在するのである、即ち、『すべての誡命の中で最初のものはこれである、ああイスラエルよ、聞け、われらの神、主は一人の主である、あなたはあなたの神、主を心情を尽くし、魂を尽くし、心を尽くして愛さなくてはならない、第二もそれに似ている、即ち、これである、あなたはあなた自身のようにあなたの隣人を愛さなくてはならない、これらのものより大きな誡命は他にない』(マルコ12・29−31)。『われらの神、主』は主であられることは他の所に見ることが出来よう(マタイ4・7、10、22・41−45、ルカ1・16、17、ヨハネ20・28)、同じく旧約聖書の『エホバ』は新約では『主』と呼ばれていることも見ることが出来よう(2921番を参照)。
神の愛と知恵151
『主』により永遠から存在される神、即ちエホバが意味される、主は父、創造者と呼ばれたもうのは、『新しい教会の主の教義』に示されているように、主は彼と一つのものであられるからである、従って以下の頁では―そこにもまた創造が取扱われているが―彼は主と呼ばれている。
30.何人も主によらなくては主またはその名の『イエス』を口にすることすら出来ない
ここであなたがたに言っておきたい。神の霊によって語る人は、だれも「イエスは神から見捨てられよ」とは言わないし、また、聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とは言えないのです。
神の摂理53
この理由から、主の人間または霊または天使との結合は、凡て神的なものに関わりのあるものは彼らから発しないで、主から発しているという結合である。なぜなら人の持つ善の凡てと真理の凡ては主から発していて、人間自身から発しておらず、何人も主によらなくては主またはその名の『イエス』を口にすることすら出来ないことは知られているからである。