主が戦われる

 

戦い

 

 

 

1.聖書

2.スウェーデンボルグ

3.トマス・ア・ケンピス

 

 

 

 

1.聖書

 

 

申命記3・21−22

 

わたしはそのとき、ヨシュアに命じた。「あなたたちの神、主が二人の王に対してなさったことをすべて、あなたは自分の目で見た。主は、あなたがこれから渡って行くすべての王国にも同じようにされるであろう。 彼らを恐れてはならない。あなたたちの神、主が自らあなたたちのために戦ってくださる。」

 

 

 

申命記8・3−4

 

 

しかし、今日、あなたの神、主は焼き尽くす火となり、あなたに先立って渡り、彼らを滅ぼしてあなたの前に屈服させられることを知り、主が言われたとおり、彼らを追い払い、速やかに滅ぼしなさい。 あなたの神、主があなたの前から彼らを追い出されるとき、あなたは、「わたしが正しいので、主はわたしを導いてこの土地を得させてくださった」と思っては ならない。この国々の民が神に逆らうから、主があなたの前から彼らを追い払われるのである。

 

 

 

申命記20・3−4

 

イスラエルよ、聞け。あなたたちは、今日、敵との戦いに臨む。心ひるむな。恐れるな。慌てるな。彼らの前にうろたえるな。 あなたたちの神、主が共に進み、敵と戦って勝利を賜るからである。

 

 

 

ヨシュア1・9

 

わたしは、強く雄々しくあれと命じたではないか。うろたえてはならない。おののいてはならない。あなたがどこに行ってもあなたの神、主は共にいる。

 

 

 

 

2.スウェーデンボルグ

 

 

新エルサレムの教義195

 

 試練では主のみが人間のために戦われる。もし人間は主のみが人間のために戦われ、また征服されることを信じないなら、彼は単に外なる試練を受けるのみで、それは彼に役立ちはしない。

 

 

 

天界の秘義653

 

 実情は以下のごとくである、人間は改良されつつある時には―それは争闘と試練とにより遂行されるのであるが―彼の知識と理性の幾多の物以外には何物をも刺激しない底の悪い霊らが彼と交わり、欲念を刺激する霊らは全く彼から遠ざけられている。なぜなら悪霊らには二種類あり、一は人間の推理[色々と推理すること]に働きかけ、他は人間の欲念に働きかけるからである。人間の推理を刺激する悪霊らはその者の凡ゆる誤謬を持ち出し、それらが真であると彼に説きつけようと努力し、真理を誤謬に変えさえもするのである。人間は試練におかれた時は是らと戦わねばならない、しかしその人間に接合している天使たちを通して、戦われるのは実に主である。誤謬がこれらの争闘によって分離され、いわば散らされるや否や、その人間は信仰の諸真理を受け入れる備えがなったのである。なぜなら誤謬が支配している限り、誤謬のために妨害されて、人間は決して信仰の諸真理を受けることが出来ないからである。信仰の諸真理を受ける備えがなると、その時始めて彼の中に仁慈の種子である天的な種子が植えつけられることが出来るのである。仁慈の種子は誤謬が支配している土地には決して植えつけられることは出来ないのであり、ただ真理の支配しているところにのみ植えつけられることが出来るのである。

 

 

 

天界の秘義1692

 

 試練は、または試練の争闘はいかようなことを遂行するかは殆どたれ一人知ることは出来ない。それは幾多の悪と誤謬とが破壊され、消散される手段であり、またそれにより悪と誤謬とに対する恐怖が生まれてくる手段であり、それにより良心が与えられるのみでなく、また強固にもされ、かくしてその人間は再生するのである、それが再生しつつある者が争闘に入れられて、試練を受ける理由であり、身体の生命の中でそれを受けない者は、もしその者が再生することが出来るならば、他生でそれを受けるのであり、そうした理由から主の教会は戦闘の教会と呼ばれている。しかし主のみが御自身の強さによりまたは御自身の力により試練の中でも最も残酷な争闘に堪えられたのである、なぜなら主は凡ゆる地獄に包囲され給うて、絶えずそれらを征服されたからである。

 

 

 

天界の秘義1692[2]

 

試練の争闘の中にいる人間の中で戦われて、征服される者もまた主のみである。人間は人間自身の力からでは悪い、または奈落の霊どもに対しては何ごとも些かも行うことは出来ない、なぜなら彼らはもし一人が征服されるならば、他の者が突入してきて、それが果てしもなく続いている程にも地獄と連なっているからである。彼らは堤防の凡ゆる部分に押し寄せている海のようなものであり、もしその堤防が裂け目またはひびのために破られでもするなら、海は絶えず流れ込んで、溢れ、遂には何一つ立ったままに残されはしなくなるのである。主のみが人間の中に試練の争闘を支えられない限り、人間もそのようにあるであろう。

 

 

 

天界の秘義2406[2]

 

この事柄については、すべての人間は例外なしに主により幾多の悪から遠ざけられ、しかもそれは人間が決して信じることも出来ない強い力により行われていることを知っている者は、もしいくらかいるにしても、僅かしかいないのである。なぜなら人間各々の努力は絶えず悪に向けられており、しかもそれがその者が持って生まれてきた遺伝的なものからも、またその者が自分自身から獲得した実際的なものからも発していて、それがもしその者が主により抑えられないなら、瞬間毎に最低の地獄にさえも真逆様に突っ込むといった程度にもなっているのである。しかし主の慈悲は、各瞬間にその最小の瞬間においてすらもその者を引き上げられ、抑えられている程にも大きいのである。このことはまた善良な者にも当てはまるが、しかしその者たちの仁慈と信仰の生命に応じた相違があるのである。このように主は、例え人間にはそのようには見えないものの人間のもとで絶えず戦われ、また人間のために地獄と戦われるのである。それがまことにそうであることを私は多くの経験から知ることが出来たのであるが、そのことは主の神的慈悲の下に他の所に述べることにしよう(929、1581番をもまた参照されたい)。

 

 

 

天界の秘義8969

 

 試練にあっては人間は自分自身から悪と誤謬とに反抗して戦うものとして戦わなくてはならないが、それでも彼は主からそのように戦っていることを信じなくてはならない。 もし試練そのものの間で彼はそのことを信じないにしても―なぜなら彼はその時はそのことを明確には知らないからではあるが―それでもそのことを試練の後では信じなくてはならない。もし試練の後でその人間が主のみが自身のために戦われて、自分のために征服してくださったことを信じないなら、彼はただ外なる試練を受けたのみであり、そうした試練は深くは浸透しないのであり、また信仰と仁慈とを何ら根づかせもしないのである。

 

 

 

生命96

 

 悪と戦う者は自分自身により戦うようにしか戦うことは出来ない、なぜなら自分自身により戦うものとして戦わない者は全く戦わないで、何一つ見もしないし、何一つ行いもしない自動人形のように立って、悪から絶えず悪に有利なことを考えて、それに反抗したことは考えないからである。しかし人間の中でその悪に反抗して戦う者は主のみであられ、その人間には自分が自分自身で戦うようにただ見えるのみであって、またそれが人間にはそのように見えるのを主は欲しておられることを充分に知らなくてはならない、なぜならこのように見えなくては争闘は何ら起らないからであり、それで改良も起らないからである。

 

 

 

 

3.トマス・ア・ケンピス

 

トマス・ア・ケンピス/キリストに倣いて/1・11・4

 

私たちがもし勇士のように、戦場に立つならば、主は必ず私たちを助けてくださるだろう。

なんとなれば私たちに勝ちを得させようとして戦う機会を与えてくださる神は、私たちがその恩恵を頼みとして戦うならば、いつでも助けを与えようと待ちかまえておいでになるからである。

 

 

トマス・ア・ケンピス/キリストに倣いて/3・6・4

 

かれが悪い汚らわしい思想(おもい)を吹きこんだならば、それをかれに投げ返して言うがよい、「退け不潔な霊よ、恥じよあさましき者! 汚らわしや、このような想像を起させるとは!

 私から離れ去れ、極悪の誘惑者、お前は私となんの関係もない、かえってイエズスこそ強い闘士のように私とともにおいでになるから、お前は必ず敗れるだろう。

 私はお前に従うよりは、むしろ死ぬことを、どんな責苦でも受けることを望む。『だまれ、静まれ!』(マルコ4・39) お前がいかに私を苦しめても、私はもはやお前の言うことを聞かない。

 『主は私の光、私の救いである。私はだれを恐れようか。』(詩篇26・1)『たとい軍勢が私に向って来ても、私の心は恐れないだろう。』(詩篇26・3)『主は私の扶助者(たすけて)、私の救い主である。』(詩篇18・15)」と。