主が仁慈を通して良心を作られる
ハム/
天界の秘義1076
『ハム』は腐敗した教会を意味していることはハムについて前に言われたことから明白である。教会はそれが聖言を承認して、真の教会の礼拝のようなある礼拝を持ってはいるものの、それでも信仰を仁慈から分離し、かくて信仰をその本質的なものから、その生命から分離し、かくて信仰が一種の死んだものとなってしまう時―その結果は必然的にその教会が腐敗してしまうということではあるが―腐敗してしまうと言われている。その時その教会の人間らはいかようなものになるかは、その者らが良心を持つことが出来ないということを考察することにより明白となるのである。なぜなら真に良心である良心は仁慈によらなくては決して存在することは出来ないからである。仁慈が良心を作るものである。即ち、主が仁慈を通して良心を作られるのである。良心とはたれにも決して悪を行わないということ、即ち、凡ての者に凡ゆる方法をもって善を行うということ以外の何であろうか。かくて良心は仁慈に属し、決して仁慈から分離した信仰には属していないのである。もしこのような人物が何らかの良心を持っているならば、それは誤った良心であり、それについては前に述べたことを参照されたい、彼らは良心を持っていないため、外なる束縛が緩められる限り、凡ゆる邪悪に突入するのである。彼らは仁慈とは何であるかを、それは何かを意味している言葉であるということ以外には、知ってさえもいない。彼らは、質問されると、それは一種の考えであるとしか答えることが出来ず、ある者はそれは信頼であると答え、他はそれは信仰の知識であると答え、少数の者はそれはこの知識に応じた生活であると答えるが、殆どたれ一人もそれは仁慈の生活であり、または相互愛の生活であるとは答えはしないのである。そしてもしそのことが彼らに言われて、そのことについて反省する機会が彼らに与えられるにしても、彼らはただ、愛は凡て自己から始まり、自分自身と自分自身の家族を顧みない者は異教徒より悪い者であるとしか答えないのである。それで彼らは彼ら自身と世を除いては何事も学びはしない。ここから彼らは彼ら自身のものの中に住むようになるのである。その彼ら自身のものの性質については前に述べておいた。これらがハムと呼ばれる者である。