初代教会
(原始キリスト教会)
羊飼い/
1.スウェーデンボルグ・・・この真理(主の神的人間性)については古代教会はそれを承認し、また原始基督教会もそれを承認した
2.マリア・ワルトルタ・・・初代教会のキリスト者たちに倣いなさい
3.ヴァッスーラ・・・皆に自分たちのいのちよりも私のほうを大切にした初代キリスト教徒たちを思い出させなさい、初代教会に似せて、唯一であり 一致し、愛と謙遜という基礎の上に築く、我が子の初代教会を心の中に再び築いて下さるようにお願いします
4.聖母から司祭へ・・・それは、もとの貧しく謙遜で単純なつつしみ深いものとなるためです
5.アグレダのマリア・・・これらが福音の教会の幸せな始まりであり、黄金時代です
1.スウェーデンボルグ・・・この真理(主の神的人間性)については古代教会はそれを承認し、また原始基督教会もそれを承認した
天界の秘義393
私たちは今取扱っている言葉の内意の解明に取り掛かる前に、信仰の実情を知ることが必要である。最古代教会は愛から発した信仰以外には如何ような信仰をも認めない性格を持っており、それで彼らは信仰を口にすることさえも欲しなかった、なぜなら主から発した愛を通して彼らは信仰に属した凡てのものを認めたからである。それがまた私たちが前に述べた天的な天使である。しかし人類はそうした性格を持つことが出来ないで、主に対する愛から信仰を分離し、信仰を独立した教義としてしまうことが予見されたため、それらが実際分離されるように、しかし以下のように分離されるように配慮されたのである、即ち、信仰を通して、即ち、信仰の諸々の知識を通して、人間が主から仁慈を受け、かくして知識が、または聞くことが最初に来て、次に知識または聞くことを通して仁慈が、即ち、隣人に対する愛と慈悲とが主によって与えられ、この仁慈は信仰と不可分離であるのみでなく、信仰の第一義的なものとなるように配慮されたのである。次に最古代教会の中で持たれていた認識に代わって、良心が続いたが、それは仁慈に結合した信仰を通して得られるものであって、それは真の物を口授したのではなくて、それが真であると口授したのであるが、それも主が聖言の中にそのように言われているためであったのである。洪水以後の教会は大半こうした性格を持っており、また主の降臨以後の原始教会、または最初の教会も同様の性格を持っていたが、このことにより霊的な天使は天的な天使から区別されているのである。
天界の秘義2417[3]
それが主が来られた後の原始教会の、または異邦人の教会であったのである。それはその始まりでは愛と仁慈との教義以外にはいかような教義も持っていなかったのである、なぜならそのことを主御自身が教えられたからである(2371番の終りを参照)。しかし主のとき以後、次々と、愛と仁慈とが冷ややかになり始めるにつれ、信仰の教義が起り、それとともに分離、異端が起って、それは人間がこの教義を強調するにつれて増大したのである。
天界の秘義4738[2]
さらにこの真理については古代教会はそれを承認し、また原始基督教会もそれを承認したことを知らなくてはならない、しかしイザヤ書にバビロンの王について、『おまえは心の中で、わたしは天に昇り、わたしの王座を天の星の上にも上げ、集会の山に坐り、雲の高い所の上にも昇り、至高者のようにもなろうと言った』と言われているように、法皇権が全人類の霊魂を治める主権にさえ至るまでも昂進して、それ自身を高めてしまった後では、主の人間的なものからは神的なものは取り去られてしまったのであり、すなわち、主の神的なものと主の人間的なものとが区別されたのである。
天界の秘義4772
「彼らはそれをその父に持って来た」。これは古代教会と原始教会の諸善と諸真理に比較することを意味していることは以下から明白である、すなわち、ここの『父』であるヤコブの表象は古代教会であり(4680、4700番)、また原始教会であり、すなわち初期の基督教会であり、この基督教会については後に述べよう。この教会にこのような肌着を持って来ることはその内意では純粋な教会の諸善と諸真理に誤謬化された諸善と諸真理を比較することである。ヤコブによりここに古代教会のみでなく、また原始教会が、すなわち、初期の基督教会が表象されていることは、この二つは内なるものの方面では全く同一のものであるが、ただ外なるものにおいてのみ相違しているからである。古代教会の外なるものはすべて主を、また主の王国の天的なものと霊的なものとを、すなわち、愛と仁慈とそこから派生した信仰を表象し、従って基督教会のものであるようなものを表象したのである。かくて古代教会の、またユダヤ教会の外なるものが明らかにされ、謂わば覆いを解かれると、基督教会が明らかに示されるのである。このことがまた神殿の帳が引き裂かれたことにより意味されたのである(マタイ27・51、マルコ15・38、ルカ23・45)。父ヤコブにより古代教会のみでなく、原始基督教会も表象されているのはこうした理由からである。
真の基督教338
使徒たちの信仰は主イエス・キリストに対する信仰であったことは、彼らの書簡の多くの記事によって明白である。
真の基督教636
ニカヤ会議以前に存在した教会は使徒的教会と呼ばれている。それは広く拡がっていた。何故なら、それは、基督教徒であって宗教に熱心なコンスタンチン大帝の領土と拡がりを等しくし、その帝国は欧州、アジア、アフリカの多くの王国を包含していたからである。それ故、上述したように彼はその帝国からアリウスの忌むべき教義を除き去るために、ニカヤの宮殿にアジア、アフリカ、ヨーロッパの監督たちを呼び集めた。これは主の神性が否定されるならば基督教会は死滅し、葬られる故、主の神的摂理によって行なわれたのであった。使徒的教会の著名な著者達は教父と呼ばれ、真の基督教徒は互いに兄弟と呼び合った。この教会は、三人の神的な人格を、あるいは永遠から存在する神の子を認めず、ただ単に時間の中に生まれた神の子を認めたのである。是は使徒信条によって明らかである。
真の基督教637
凡ゆる基督教徒は、その原始時代には、主イエス・キリストは神であり、主御自らの明白な言葉に従い(マタイ28・18、ヨハネ17・2)、主には天と地とまた凡ゆる人間とを支配する一切の権能が与えられていることを認め、而して主が父なる神によって語り給うた命令に従って(ヨハネ3・15、16、36、6・40、11・25、26)、主を信じたのである。
真の基督教638
使徒的教会は主イエス・キリストとその中にいます父なる神とを礼拝した。それ故、それは神の園に、アリウスは地獄から遣わされた蛇に、ニカヤ会議は夫に果実を差し出し、夫を説きつけてこれを食わせた妻に譬えることが出来よう。彼らはこれを食った後、己が裸かを見、これを無花果の葉で蔽った、その裸かは彼らの以前の無垢を意味し、無花果の葉は、徐々に虚偽化された自然的な人の諸々の真理を意味する。原始教会はまた暁に、早朝に譬えることが出来よう。しかし、十時に厚い雲が起こり、全地を暗くし、遂に夜が来た。その時月が昇り、その光は或る者に聖言に関する部分的な理解を与えたが、他の者は絶えず深まって行く暗黒に昏(くら)み、遂に「イエス・キリストの中には神性の完全性は尽く身体をなして宿れり」(コロサイ2・9)とのパウロの宣言と「世に遣わされ給ひし神の子は真の神にして永遠の生命なり」(ヨハネ第一書5・20、21)とのヨハネの宣言にも拘らず、主の人間性の中に、神性を何ら認めることは出来なくなったのである。使徒的教会は、心に三人の神を礼拝し唇を以って一人の神を拝し、仁慈を信仰から切り離し、罪の赦しを悔い改めと新しい生活の追求から切り離し、霊的な事柄に於ける全的な無力を主張する教会を些かも予見することは出来なかった。彼らはアリウスのような者が起こり、死んだ時すらも、秘かにその感化を揮い続けるであろうことを、些かも予見しなかったのである。
静思社/スエデンボルグ/神学論文集P79
それで私は使徒教会に密着しているのです。
聖書24
聖言の霊的意義を与える相応の知識がその時代以後の時代に明らかにされなかった理由は、原始教会の基督教徒は非常に単純で、彼らにはそれは明らかにされることは出来なかったということである、なぜならそれは彼らには役に立たなかったであろうし、また理解もされなかったからである。彼らの時代の後で、法皇の主権の結果、暗黒が全キリスト教界を覆い、その主権に属して、その誤謬を確認した者らは、霊的な物を何ら把握しようとも欲しないし、従って聖言における自然的な物と霊的な物との相応の何であるかを把握も出来ないし、また把握しようとも欲しないのである。なぜならそのことによって彼らは『ペテロ』によってペテロが意味されてはいないで、岩としての主が意味されることを悟らされるからであり、また聖言はその最内部までも神的なものであって、それに比較すると法皇の法令など取るに足らぬものであることも悟らせられるからである。一方、宗教改革以後、人々は信仰と仁慈とを区別して、三人格の一人の神を拝し始め、かくて三人の神の一人の神を拝して、三人の神が、一人の神であると考え始めたため、天界の諸真理は彼らから隠されてしまったのであり、もしそれらが明らかにされたにしても、彼らはそれらを誤謬化して、信仰のみに応用し、その一つも仁慈と愛とに応用はしなかったであろう。かくて彼らは彼ら自身に天界を閉じてしまったであろう。
2.マリア・ワルトルタ・・・初代教会のキリスト者たちに倣いなさい
マリア・ワルトルタ/イエズス―たそがれの日々/P230
私にとって、また私が作ろうとする団体にとって、ますます困難な時が近づいています。(中略)あなたたちが分かれて、口争いやけんかをしたりして、隙を見せるなら、彼らはそれを拾い上げて好きなように混ぜ合わせ、それを泥のように、私と今生まれつつある団体に投げつける。
マリア・ワルトルタ/イエズス―たそがれの日々/P231
私の親戚のザカリアのヨハネのことばを繰り返そう。『彼は大きくなり、私は小さくならねばならぬ』と。あのことばは正しい。私は天から、いとも聖なる御父から来る者であるために、偉大であり、モーゼやエリアさえも太陽が現れれば、その光でかすんでしまうのと同じです。その私は代々に続くであろう団体の創立者であり頭であるが、肢体はその頭と一つであるように、私もこう言わねばならない。『その団体は照らされ、私はかすむべきである』と。
マリア・ヴァルトルタ「手記」抜粋/天使館/P145
26 わたしの教会が勝利する日(イザヤ書2・2−4)
‘43年11月11日。
イエズスは言われる。
サタンと俗世間と肉の偶像崇拝者たちから離れなさい。軽蔑はせずに、彼らから離れなさい。軽蔑はなんの役にもたたない。役に立たぬどころか破壊する。無益である。ただし、彼らに汚染されないように、彼らから離れなさい。贖い主の愛で彼らを愛し、彼らとあなたたちの間にキリストへのあなたたちの信仰を城壁として据えなさい。あなたたちは彼らの間に混じって危険なしに生きることが出来るほど強くはない。何世紀にもわたる精神的な退廃が、あなたたちをますます弱くしているからだ。初代教会のキリスト者たちに倣いなさい。俗世間のなかで生きるすべは学ぶべきだが、神へのあなたたちの愛の力によって、俗世間から身を引き離して生きるように心がけなさい。
天使館/天使のたより/2005.10/第10号/P26/マリア・ヴァルトルタ/「手記」より
「福音書をどう生きるか
1944年3月28日
「あなたたちの生き方に福音書を適合させようとするその願望は、あなたたちに告げるわたしに対する信仰があなたたちにあるなら、初代キリスト信者たちがしていたように、福音書を完全に生きるように努力するだろう。また、『そう言われても、現代の生活はわたしたちがこれらの教えに完全についていけないようなものになっている。わたしたちはその教えに感嘆するけれども、その教えについて行くにはわたしたちはあまりにも異なる者です』と言ってはならない。」
ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/1巻P261
‘87・6・30 ダッカ
私の頭に突き刺さった棘を取り除きなさい、ヴァッスーラ 私のためにそうしてくれるか、私は いつもあなたの前にいる、我がからだを癒し、痛みを和らげてくれるように、五つの傷が大きく開いている、見たであろう? 私を愛し、美しく飾り、皆に 自分たちのいのちよりも私のほうを大切にした初代キリスト教徒たちを思い出させなさい ♡♡
主よ、あなたのメッセージをコピーし、配ることしか、私にはできません!
♡ あなたはそれよりずっと多くのことをするであろう、導いているのが誰であるかを 決して忘れないように ♡
ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/1巻P262
‘87・7・3
ヴァッスーラ、私のために、我が教会を一致させてくれるか?
私はあなたの前にいる そして指図を与えているのは私、ただついてきなさい ♡ 私は全教会に一致してほしい ♡ 司祭たちには私の今までになし遂げたわざと 使徒たちの持っていた素朴さとを思い出してほしい。 初代教会のキリスト教徒の身につけていた謙遜と忠実の心を ♡ 来なさい、心の最も内奥の望みを打ち明ける、あなたのうちにそれを刻印させてほしい 小さな者よ ♡
ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/4巻Pviii
(ジャック・ネランク/あなたは預言を無視しますか・現代の預言者ヴァッスーラに聞く/天使館/P187にもあり)
ヴァッスーラ:そうですね、マリア様からの強い一致の呼びかけがあります。そのメッセージをお読みする前に、一般的な「一致」の解釈には同意できないと申し上げたいのです。ギリシャ正教では時々、兄弟のローマ・カトリックが、ギリシャ正教になるなら一致が実現すると言います。そしてカトリックでは時々、皆がローマ・カトリックになるのを期待しています。これが人間の考え方です。天国ではこうした考え方ではありません。天国では一致を、一人ひとりの心のうちに築くものと見ています。私は今でもギリシャ正教です。ギリシャ正教徒のままです。ギリシャ正教を実践していますが、カトリックの兄弟のもとに行っても壁をつくりません。この方がたの教会に行きます。イエスはどこへでも私をお遣わしになるのです。ギリシャ正教のもとだけでなく。心のうちに、心をもって一致すべきです。
今は廃墟となっている教会の上に、イエスが建てると仰っている教会について、それは、いわば分派のように、全く新しい教会を造るのではなく、「初代教会に似せて、唯一であり 一致し、愛と謙遜という基礎の上に築く」と言っておられます。 ― 互いを受け入れ、イエスに向かって一緒に、祈りを捧げるのです。
ではマリア様が話しかけられておられる箇所を読みます:
「反逆は兄弟の間で一致を妨げます。心の不誠実は神の杯をさらに満たしていくことになります。彼らは我が子のからだをねじ曲げ、分裂させ、手足を切り落し、麻痺させてしまいました。思い出させましょう あなた方は皆 主を通して、唯一の霊のうちに、御父のみもとにいたる自分の道があるのです、ですのに我が子の名のもとに 別れたままでいます。一致と平和をあなた方は口にしますが、それを実践する人びとに対しては罠を仕掛けます。神は欺かれません、あなた方の理屈に納得もされていません。
神の国は口にのぼる言葉だけにとどまりません。神の国は 心のうちにある愛、平和、一致と信仰、それは心の中で一つに一致している主の教会なのです。一致の鍵は愛と謙遜です。イエスはあなた方の分裂をお勧めになったことはなく、ご自分の教会の分裂は イエスのお望みではありませんでした。心と声をもって一致し 我が子の初代教会を心の中に再び築いて下さるようにお願いします。我が子の初代教会と申しているのは、その教会が愛、素朴、謙遜と、信仰に基いていたからです。改めて新しい組織を造り上げるのではなく、心の中の組織を造り直すようにと申しています。心の中にある古い煉瓦、不一致、不寛容、不実、赦しの拒み、愛の欠如という煉瓦を壊して、我が子の教会を 和解によって造り直すのです。非常に大きな霊の貧しさと 溢れるほど豊かな寛容が 要求されます、そして屈まなければならないと理解するまでは、一致できないでしょう。」(ノート54、‘91・9・23)
ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/4巻P58
‘89・12・4
(イエスが呼んでおられるのを感じ、大急ぎで飛んで来ました。)
娘よ、あなたは眼に入れても痛くない者、それ以外の考えを持たせようとする 誰からも騙されないように。 あなたの弱さはたえず私を夢中にさせる、あなたの無力は 私の師としての力に、絶え間なく、頼らなければならなかった最初の弟子たちを 思い出させる、娘よ 私を礼拝し すがっていなさい、私はいのちだからです ♡
我がヴァッスーラ、人にたいする従順より あなたの神、私にたいする従順が優先する。 この言葉を黙想しなさい ♡
ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/4巻P185
‘90・7・8
♡ 皆には古来の衣装(*)をまとわせ、古い礎の上に我が教会を建て直す。
*初代教会
ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/5巻P207
‘91・9・23
あなた方は皆 イエスを通して 唯一の霊のうちに 御父に至るそれぞれの道があることを 忘れないで下さい、けれどあなた方は我が息子の名のもとに 分裂したままです。 一致と平和を語りながら それを実践する者には罠を仕掛けます。 神は欺かれず あなた方の議論に納得もなさいません。 神の国は口先だけの言葉ではありません、神の国は 心のうちなる愛、平安、一致と信仰:それは心の中で一つに結ばれた主の教会なのです。一致の鍵とは・・愛と謙虚さ。 イエスが分裂をあなた方に勧めたことはありません、ご自分の教会の分裂を望まれてはいませんでした ♡ 私の子どもたちが心と声を一つにして 我が息子の初代教会を心の中で再び築くようにと懇願します。初代教会と申しましたが、その教会は 愛、質素、謙遜と、信仰の上に築かれていたからです。新しい建物につくり直すようにとは申していません、心の中の建物をつくり直すようにと言っているのです、心の中にある古いレンガ、不一致のレンガ、不寛容、不忠実、許しの拒み、愛の欠如を打ち壊し、和解によって我が息子の教会を建て直して下さい。 それには熱烈な心の貧しさと 溢れるほど豊かな寛大さがいります、そしてかがむ必要を理解するまでは、一致できないでしょう
ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/6巻P137
‘92・9・14
―私がよそ者だった時 あなたは迎え入れてはくれなかった、戸口に立って扉をたたいても それが耳に入らなかった。 私は真理を語っていたが、あなたは私を裁き 非難し、その舌で絶えず私について 不正な偽りを述べていた。 私はセンスのよさを教え 我が知識、指導力と奉仕を 思い出させに来た、しかしあなたは私を嘲り ひやかした。 あなた方皆を 我が心のうちに一致させ 初代教会の決まりをはじめから教え直そうと熱望し 愛といたわりをもって訪れたが、あなたの霊は 自分でつくった決まりに囚われるのを許し 私をその心から締め出した。 あなたは尋ねよう:「いつ、私はそんなことをしましたか 主よ? あなたに言っておく、私はすでに そうした仕打ちを受けている。 あなたは未熟な判断を下し唇で私を非難した、我が特使たちにしたことは 私にしたころ。 あなたは私を喜ばせると考え、彼らの名を汚した、しかし実際に汚していたのは私の名。 私のことばを受け取らず 兄弟と和解しないまま:「みことばは わが主よ、私の足の灯火、歩む道の光」と どうしていまだに言えるのか?
ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/7巻P196
94.11.9
「まだ私の腕の中に抱かれて 幼い初めのころ(*)にさずけた一致を保とうと あなた方はあらゆる手を尽くした」:と私どもには言えない。
今日のあなた方はこう言う:「私はもう幼くないのだから ひとりで歩ける」と、そして以来 私の抱擁から足を踏み出し 自分勝手な歩みに足取りを慣らせてしまった・・・ああ 御父の子どもよ! ひとり子の実よ! 私の町 花嫁(**)よ!
*初代教会
**聖霊は教会に語りかけておられます。
4.聖母から司祭へ・・・それは、もとの貧しく謙遜で単純なつつしみ深いものとなるためです
聖母から司祭へ1982.5.30
また教会は、現世的な財産をはぎ取られて、多くの権力の集団から清められるでしょう。それは、もとの貧しく謙遜で単純なつつしみ深いものとなるためです。
5.アグレダのマリア・・・これらが福音の教会の幸せな始まりであり、黄金時代です
アグレダのマリア/神の都市/P271
これらが福音の教会の幸せな始まりであり、黄金時代です。教会は神の都市とも呼ばれ、新しい楽園でもあります。この楽園の真ん中にある生命の木が聖母です。当時、信仰は生き生きとしており、希望は堅く、愛は熱く、誠実は純粋で、謙遜は真で、正義はもっとも公正であります。信者たちは貪欲も虚栄もなく、所有欲、誇り、野心もありません。
初代教会に於ける聖母の偉大な業績は少しばかりお知らせしましょう。全教会とある教会員たちに恩恵を与えることで、一時も休まれませんでした。御子への嘆願に没頭し、決して断られませんでした。祈りの他に人々に勧告、説明、相談したり、恩寵の管理者と分配者にもなりました。聖母の御在世の当時、地獄に堕落した者の数は大変多く、救われた者の数は、その後の時代よりももっと多数です。当時の人々は聖母に会い、お話しを聞けるという幸福を享受しましたが、聖母は天から頂いた知識と愛により、あらゆる時代の人々を全員ご存知です。聖母は、初代教会の人々のために祈り、取り次いで下さったように、現代の我々にもして下さいます。いつも同じ御母として天に於ても同様に取り次いで下さいます。しかし、悲しいかな! 私たちの信仰、熱心と献身が全く実行されなくなってしまいました。私たちが聖母に対する熱心さを取り戻せば、教会は初代教会と同様に聖母の御加護を体験するに違いありません。
アグレダのマリア/神の都市/P289
元后の御言葉
私の娘よ、本章のレッスンは、信心深い初代教会と現代の汚れた教会を比較し、悲しみ、嘆き、ため息をつき、できれば血の汗を流すことです。現代に於て教会の聖性の純金は隠され、昔の使徒時代の美しさは失われています。神の善の川の流れを止めるのは人間の自由意志です。人が神の愛を自由意志によって妨げないならば、人間の霊魂は神の本質と属性により充満されます。