聖書の訳について

 

 

 

1.創世記

2.出エジプト記

3.サムエル記後

4.エレミヤ記

5.エゼキエル書

6.マタイ

7.ルカ

 

 

 

 

 

1.創世記

 

 

新共同訳聖書/創世記29・16−17

 

ところで、ラバンには二人の娘があり、姉の方はレア、妹の方はラケルといった。レアは優しい目をしていたが、ラケルは顔も美しく、容姿も優れていた。

 

 

 

文語訳聖書/創世記29・16−17

 

ラバン二人の女子(むすめ)を有(もて)り姉の名はレアといひ妹の名はラケルといふ レアは目弱かりしがラケルは美しくて妹(かほよ)し。

 

 

 

天界の秘義3820

 

「レアの目は弱かった」(創世記29・17)。

 

これは外なる真理の情愛はその理解についてはそのようなものであることを意味していることは以下から明白である、即ち、レアの表象は外なる真理の情愛であり(3793番を参照)、『目』の表象は理解であり(2701番)、『弱い』の意義は相対的にはそのようなものである。外なる真理の情愛は理解についてはそのようなものであることは、またはそれと同一のことではあるが、その情愛の中にいる者たちはそのようなものであることは、未だ単一的なもの[単一のもの]により明らかにされていない外なる観念から、即ち、全般的な観念から認めることが出来よう、即ち、その観念は薄弱で、不安定であり、いわば風がそよぐままに吹き流され、または言葉を換えて言うなら、いかような意見にも引き寄せられるのに甘んじているに反し、それが単一のものにより解明されると、確乎とした不動のものになるのである、なぜならそれはその単一的なものから『ラケルの美しい形と美しい目つき』により意味されているところの本質的な、また形の整ったものを得るからであり、ラケルによっては内的な真理の情愛が表象されているのである。

 

 

 

 

2.出エジプト記

 

 

新共同訳聖書

出エジプト記1・9−10

 

国民に警告した。「イスラエル人という民は、今や、我々にとってあまりに数多く、強力になりすぎた。抜かりなく取り扱い、これ以上の増加を食い止めよう。一度戦争が起これば、敵側に付いて我々と戦い、この国を取るかもしれない。」

 

 

 

文語訳聖書

出エジプト記1・9−10

 

彼その民にいひけるは視よこの民イスラエルの子孫われらよりも多くかつ強し。来たれわれら機巧(かしこ)く彼らに事をなさん恐らくは彼ら多くならん又戦争(いくさ)の起ることある時は彼ら敵にくみして我らと戦ひ遂に国よりいでさらんと

 

 

 

天界の秘義17巻P6

 

出エジプト記1・9

かれはその民に言った、

見よ、イスラエルの息子たちの民は多く、私たちよりも多数である。

 

 

出エジプト記1・10

さあ、私たちはそれを慎重に扱おう。恐らくそれは数が増し、戦争がたまたま起ると、それはまた私たちの敵に加わって、私たちと戦い、この地から上って行くであろう。

 

 

 

天界の秘義6658

 

「この地から上って行く」(出エジプト記1・10)。これは、かくして教会が新しく建てられるであろう、を意味していることは以下から明白である、即ち、『上ること』の意義は高揚されることであり、即ち、教会の更に内的なものに向って高揚されることであり(3084、4539、4969、5406、5817、6007番を参照)、『地』、ここではゴシェンの地の意義は教会である(そのことについては前の6649番を参照)。更に内的なものへ高揚されることは―そのことは『その地から上ってカナンの地へ入ること』により意味されているが、そのことは―教会が新しく設立されるであろうということを意味しているのである。人間が情愛から善を為す時、教会は実際彼のもとに新しく設立されたのではあるが、しかしそれでもそれは、彼が悪と誤謬との対して戦わない中は、かくて彼が試練に堪えない中は、充分に新しく設立されてはいないのである、即ち、彼は試練に堪えた後で、真に教会となり、その時天界へ入れられるのであり、そのことはイスラエルの息子たちがカナンの地へ入れられたことにより表象されているのである。

 

 

 

 

3.サムエル記後

 

 

サムエル記後12・31(新共同訳聖書)

 

そこにいた人々を引き出し、のこぎり、鉄のつるはし、鉄の斧を持たせて働かせ、れんが作りをさせた。また、アンモン人のほかの町々もすべてこのようにした。それからダビデと兵士は皆、エルサレムに凱旋した。

 

 

 

サムエル記後12・31(文語訳聖書)

 

かくてダビデ其中の民を将(ひき)いだしてこれを鋸と鉄の千歯と鉄の斧にて斬りまた瓦陶(かわらやきがま)の中を通行(とおら)しめたり、彼かくのごとくアンモンの子孫の凡ての町になせり。

 

 

 

天界の秘義4903[]

 

ユダヤ民族は内なるもののない外なるものの中にいて、それで真理を誤謬であり、誤謬を真理であると信じたことは、彼らが敵を憎むことは許されていると教えたことから明白であり、また彼らは彼らの宗教を奉じなかった者たちを凡て憎んだというその生活からも明白である。また彼らは異邦人を残虐にまた残酷に扱って、彼らを殺した後ではその死体を晒し物にして鳥や野獣に食わせ、彼らを生身のまま鋸で二つ切りにし、鉄のまぐわや斧で切り刻み、焼き釜の中を通らせつつも自分からはエホバを喜ばせ、エホバに仕えているとさえ信じもしたのである(サムエル記後12・31)。更に何らかの理由で敵であると宣言された同胞をも殆ど同じように扱うことも彼らの教えには適っていたのである。かくて彼らの宗教[宗教性]の中には何ら内なるものがなかったことが明白である。もしたれかがそのとき彼らにこのような事柄は教会の内なるものに反していると言ったとするなら、彼らはそれは誤りであると答えたであろう。彼らは単に外なるものの中にいて、内なるものの何であるかを全く知らず、内なるものに反した生活を送ったことは、主がマタイ伝5章21節から48節に言われていることからもまた明らかである。

 

 

 

 

4.エレミヤ記

 

 

エレミヤ17・12−14

 

栄光の御座、いにしえよりの天 我らの聖所、イスラエルの希望である主よ。あなたを捨てる者は皆、辱めを受ける。あなたを離れ去る者は地下に行く者として記される。生ける水の源である主を捨てたからだ。主よ、あなたがいやしてくださるならわたしはいやされます。あなたが救ってくださるならわたしは救われます。あなたをこそ、わたしはたたえます。

 

 

 

同・文語訳聖書

 

イスラエルの望なるエホバよ凡て汝を離るる者は辱められん我を棄つる者は土に録(しる)されん此(こ)はいける水の源なるエホバを離るるによる

 

 

 

黙示録講解222ロ[]

「エレミア記には―

 ああ、エホバよ、イスラエルの希望よ、わたしを棄て去る者はことごとく恥じるでしょう、わたしから去る者たちは、生きた水の源、エホバを棄て去ったため、地に記されるでしょう。ああ、エホバよ、わたしがいやされるために、わたしをいやしたまえ(17・13、14)。

『地に書かれること』は、『地』は罪があると宣告されたものを意味している以上、生命の状態のために罪があると宣告されることである(『天界の秘義』2327、7418、8306番)」。

 

 

 

黙示録講解222ロ[]

「このことはヨハネ伝に主がその指で地に書かれたことにより意味されていることを明らかにしている―(ヨハネ8・2−11の引用あり、略)

 主が『地に書かれたこと』はエレミア記の前の記事、『わたしから去る者は地に書かれるであろう』と同じことを、即ち、彼らもまた姦淫のために罪を宣告されたことを意味しているのである、それでかれは言われたのである、『あなたらの間で罪のない者、その者に先ず石を彼女に投げさせなさい』。主が神殿の中で『地に二度書かれたこと』は、彼らが霊的な意義で姦淫のために罪を宣告されたことを意味したのである、なぜなら学者とパリサイ人とは聖言の、かくて教会の善と真理とを不善化した者ら[不義化した者ら]であり、『姦淫』は霊的意義では善を不善化し、真理を誤謬化することであるからである(前の141、161番を参照)、それでかの国民はまた主から以下のように呼ばれたのである―

 不義を犯し、[姦通を犯し]、罪に満ちた世代の者(マルコ8・38)。」

 

 

 

 

5.エゼキエル書

 

それを人々の目の前で人糞で焼きなさい(エゼキエル4・12)

 

 

 

文語訳聖書

エゼキエル4・12

 

汝大麦のパンの如くにしてこれを食(くら)へ 即ち彼等の目の前にて人の糞をもてこれを焼くべし

 

 

 

新共同訳聖書

エゼキエル4・12

 

大麦のパン菓子のようにそれを食べなければならない。それを人々の目の前で人糞で焼きなさい。

 

 

 

文語訳聖書

エゼキエル4・15

 

エホバ我に言ひ給ふ 我牛の糞をもて人の糞にかふることを汝にゆるす それをもて汝のパンを調(ととの)ふべし

 

 

 

 

 

 

6.マタイ

 

マタイ26・25

 

イエスを裏切ろうとしていたユダが口をはさんで、「先生、まさかわたしのことでは」と言うと、イエスは言われた。「それはあなたの言ったことだ。」

 

 

 

文語訳聖書

 

イエスを売るユダ答えて言ふ『ラビ、我なるか』イエス言ひ給ふ『なんぢの言へる如し』

 

 

 

 

マタイ26・63−64

 

イエスは黙り続けておられた。大祭司は言った。「生ける神に誓って我々に答えよ。お前は神の子、メシアなのか。」イエスは言われた。「それは、あなたが言ったことです。」

 

 

 

文語訳聖書

マタイ26・63−64

 

されどイエス黙し居給ひたれば、大祭司いふ『われ汝に命ず、活ける神に誓ひて我らに告げよ、汝はキリスト、神の子なるか』イエス言ひ給ふ『なんぢの言へる如し、かつ我汝らに告ぐ、今より後、汝ら人の子の、全能者の右に座し、天の雲に乗りて来るを見ん』

 

 

 

マルコ14・61−64

 

しかし、イエスは黙り続け何もお答えにならなかった。そこで、重ねて大祭司は尋ね、「お前はほむべき方の子、メシアなのか」と言った。イエスは言われた。

「そうです。

あなたたちは、人の子が全能の神の右に座り、

天の雲に囲まれて来るのを見る。」

大祭司は、衣を引き裂きながら言った。「これでもまだ証人が必要だろうか。諸君は冒涜の言葉を聞いた。どう考えるか。」一同は、死刑にすべきだと決議した。

 

 

 

ルカ22・66−71

 

夜が明けると、民の長老会、祭司長たちや律法学者たちが集まった。そして、イエスを最高法院に連れ出して、「お前がメシアなら、そうだと言うがよい」と言った。イエスは言われた。「わたしが言っても、あなたたちは決して信じないだろう。わたしが尋ねても、決して答えないだろう。しかし、今から後、人の子は全能の神の右に座る。」そこで皆の者が、「では、お前は神の子なのか」と言うと、イエスは言われた。「わたしがそうだとは、あなたたちが言っている。」

 人々は、「これでもまだ証言が必要だろうか。我々は本人の口から聞いたのだ」と言った。

 

 

 

ヨハネ18・37−38

 

そこでピラトが、「それでは、やはり王なのか」と言うと、イエスはお答えになった。「わたしが王だとは、あなたが言っていることです。わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く。」ピラトは言った。「真理とは何か。」

 

 

 

アグレダのマリア/神の都市/P222

 

祭司たちは言います、「では、汝は神の御子だな。」主は御答えになります、「お前たちがそうだと言う。」この御答えにより、主は次のように言われているようです、「お前たちは全く正しい考えに到達した、私が神の御子であると。私の事業、私の教義、お前たち自身の聖書、並びにお前たちが今私に対してしていることは、私がキリスト、律法により約束された御者であることを証明する。」

 しかしながら、悪人たちの会議は、自分たちの結論を真理に対する同意と信仰ではなく、死に値する涜聖であると解釈したのです。主の御言葉を聞いて彼らは叫びます、「これ以上の証言が必要であろうか。自分で涜聖の言葉を吐いているではないか。」すぐに全員一致して主を死刑囚として、ローマ皇帝から任命されたユダヤ地方の総督ポンシオ・ピラトの役所に連行することにしました。

 

 

 

 

 

7.ルカ

 

 

ルカ17・20−21

 

ファリサイ派の人々が、神の国はいつ来るのかと尋ねたので、イエスは答えて言われた。「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」

 

 

 

文語訳聖書

 

視よ、神の国は汝らの中(うち)に在るなり

 

 

 

ルカ10・1−2

 

その後、主はほかに七十二人を任命し、御自分が行くつもりのすべての町や村に二人ずつ先に遣わされた。そして、彼らに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」

 

 

ルカ10・17

 

七十二人は喜んで帰って来て、こう言った。「主よ、お名前を使うと、悪霊さえもわたしたちに屈服します。」

 

 

 

文語訳聖書

 

ルカ10・1−2

 

この事ののち、主、ほかに七十人をあげて、自ら往かんとする町々処々へ、おのれに先立ち二人づつを遣わさんとして言ひ給ふ、『収穫(かりいれ)はおほく、労働人(はたらきびと)は少し。この故に収穫(かりいれ)の主に労働人(はたらきびと)をその収穫場(かりいれば)に遣わし給はんことを求めよ。』

 

 

 

ルカ10・17

 

七十人よろこび帰りて言ふ『主よ、汝の名によりて悪鬼すら我らに服す』 

 

 

 

真の基督教510

 

更に、主はその十二弟子およびその遣わし給うた七十人に悔改めを宣べ伝えることを命じ給うた。これによって、悔改めは教会の第一要件であることは明白である。

 

 

 

 

7.黙示録

 

 

黙示録12・10

 

わたしは、天で大きな声が次のように言うのを、聞いた。

「今や、我々の神の救いと力と支配が現れた。

神のメシアの権威が現れた。

我々の兄弟たちを告発する者、

昼も夜も我々の神の御前で彼らを告発する者が、

投げ落とされたからである。」

 

 

 

文語訳聖書

 

我また天に大いなる聲ありて『われらの神の救と能力(ちから)と國と神のキリストの権威とは、今すでに来れり。我らの兄弟を訴え、夜晝(よるひる)われらの神の前に訴ふるもの落とされたり。(後略)』と云ふを聞けり。

 

 

 

静思社/柳瀬芳意訳/イマヌエル・スエデンボルグ/啓示による黙示録解説P670

霊的意義

 

黙示録12・10

『私は天に一つの大いなる声が(以下のように)言うのを聞いた、今や私らの神の救いと力と王国と、そのキリストの主権が来た』は、主のみが今や天界と教会とを支配され、主を信じる者たちは救われるために、天界の天使たちが喜ぶことを意味している(553番)。 『私らの兄弟たちを責める者らは、昼も夜も私らの神の前に彼らを責めた者らは投げ落とされたからである』は、新しい教会の教義に対立した者らは最後の審判により遠ざけられたことを意味している(554番)。