それを人々の目の前で人糞で焼きなさい

エゼキエル4・12

 

 

聖書の訳について

 

 

 

 

1.聖書

2.スウェーデンボルグ

 

1.聖書

 

エゼキエル4・9−17

 

 あなたは小麦、大麦、そら豆、ひら豆、きび、裸麦を取って、一つの器に入れ、パンを作りなさい。あなたが脇を下にして横たわっている日数、つまり三百九十日間、それを食べなさい。あなたの食べる食物の分量は一日につき二十シェケルで、それを一定の間隔をおいて食べなければならない。あなたの飲む水の分量は六分の一ヒンで、それを一定の間隔をおいて飲まなければならない。大麦のパン菓子のようにそれを食べなければならない。それを人々の目の前で人糞で焼きなさい。

 更に主は言われた。「このようにイスラエルの人々はわたしが追いやる先の国々で、汚れたパンを食べる。」そこで、わたしは言った。「ああ、主なる神よ、わたしはわが身を汚したことがありません。若いころから今に至るまで、死んだ動物や、野獣が引き裂いた動物の肉を食べたことはなく、定められた日数を過ぎたいけにえの肉を口に入れたこともありません。」

 主はわたしに言われた。「あなたが人糞の代わりに牛糞を用いることをわたしは許す。あなたはその上でパンを焼くがよい。」また、主はわたしに言われた。「人の子よ、わたしはエルサレムのパンをつるして蓄える棒を折る。彼らはおびえながらパンの目方を量って食べ、硬直した様で水を升で量って飲むようになる。彼らは罪のゆえにパンにも水にも事欠き、やせ衰えて、互いに恐れに取りつかれる。」

 

 

列王記4・38−41

 

 エリシャはギルガルに帰った。その地は飢饉に見舞われていた。預言者の仲間たちが彼の前に座っていたときのこと、彼は従者に、「大きな鍋を火にかけ、預言者の仲間たちのために煮物を作りなさい」と命じた。彼らの一人が野に草を摘みに出て行き、野生のつる草を見つけ、そこから野生のうりを上着いっぱいに集めて帰って来た。彼らはそれが何であるかを知らなかったので、刻んで煮物の鍋に入れ、人々に食べさせようとよそった。だか、その煮物を口にしたとき、人々は叫んで、「神の人よ、鍋には死の毒が入っています」と言った。彼らはそれを食べることができなかった。エリシャは、「麦粉を持って来るように」と命じ、それを鍋に投げ入れてから、「よそって人々に食べさせなさい」と言うと、鍋には有害なものはなくなっていた。

 

 

 

 

2.スウェーデンボルグ

 

真の基督教296

 

人間の形を取り給うたエホバなる神御自身にて在す主なる救い主、イエス・キリスト以外に神を認め、これを礼拝する者は凡てこの第一の誡命に対して罪を犯し、永遠より存在する三人の神的な人格の存在を確信する者らもまた同様な罪を犯すのである。彼らはこの誤りに対する信仰を確認するに応じて、益々自然的に、物質的になり、遂に内的に如何なる神的真理をも理解し得なくなり、もしこれを聞き、受け入れるにしても、これを汚し、誤りに巻き込むのである。彼らは家の最低階すなわち地階に住んでいる者に譬えることが出来よう。この人々は二階あるいは三階に語られていることを何一つ聞かない。それは天井のために音が彼らに達することが出来ないからである。何故なら、人間の心は三階の家に似、最低の階には永遠より存在する三人の神を信ずる信念を確認した者たちが居り、二階と三階には主なる神なる救い主にて在す目に見ゆる人間の形を取り給うた一人の神を認め、これを信ずる者たちが居るからである。感覚的な、物質的な人間は、単に自然的であって、実に動物以外の何ものでもなく、獣とは単に話しかつ論ずることが出来るという点に於いてのみ異なっているに過ぎないのである。それ故、彼は凡ゆる種類の獣の居る野獣園に住まっている者に似ており、そこには彼は獅子、熊、虎、豹、あるいは狼のように振る舞い、否、また羊のように振る舞ってみせることも出来るが、その時は心の中で嘲笑しているのである。たんに自然的な人間は神的な真理をこの世的な物によってのみ考え、かくして感覚の迷妄によって考え、その上に己が心を引き挙げることが出来ない。その信ずる教義は彼が美食として食べる籾殻で出来たソップに譬えることが出来よう、あるいはエゼキエルがイスラエルの人々の間に於ける教会の状態を表象するために、人間あるいは牡牛の糞を混ぜて、小麦、大麦、豆、あじ豆、粟から造るように命ぜられたパンと菓子に譬えることが出来よう(4・9)。

 その各々が単独に神である所の永遠から存在する三人の神的な人格の概念の上に基礎づけられ、建てられている教会の教義もこれと同様である。もし、それが忠実に絵に表現されるならば、誰がこのような信仰の奇怪さを認めないであろうか。例えば、もし、その三人格が一列になって立ち、第一の人格は笏と王冠によって他から区別され、第二の人格はその右手に聖言を持ち、左手に血の点々とした黄金の十字架を持ち、第三の人格は今まさにその翼を拡げて飛び立ち、行動しようとしており、而して彼ら三人の上に「これらの三人格は三神なるも、一人の神である」との銘が刻みつけられているとするならば如何であろう。このような絵画を眺めて、賢明な者は「何と奇怪な作品であろう」と語らないであろうか。しかしもし彼がその頭の周囲に天界の光りを浴び「これは我らの神であって、創造者、贖罪者、再生者、救い主である」との銘をいただいた一人の神的な人格の絵画を眺めるならば、その語るところは異なるであろう。賢い者はこのような絵画に接吻し、これを胸に収めて家に携えて帰り、彼の妻を、子を、召使を、彼自身を喜ばせないであろうか。

 

 

アルカナ出版訳/真のキリスト教 296(3)

 

 自然的な人間に過ぎない人の場合、神の真理について考えても、世俗的な見方で、つまり感覚上の偽りからしか考えることがありませんし、精神が感覚を越えていくこともありません。だから、そのような人がもっている信仰の教義は、もみがらでつくったスープのようなもので、本人はそれをご馳走だと思って食べています。それはまた、預言者エゼキエルが命じられて作ったパン・ケーキのようです。かれは、小麦、大麦、大豆、メンズ豆、ハダカ麦に、人糞や牛糞をまぜあわせてつくりましたが、それは当時のイスラエル民族のもとにあった教会を表してます(エゼキエル4・9以降)。永遠のむかしから存在する神聖なる三位格があって、その各位格がひとりひとり神であるという教えにもとづいた教会の教義も、それと同じです。

 

 

天界の秘義10037[]

 

エゼキエル書には―

 

その予言者は人間の排泄物の糞で大麦の菓子を作るように命じられた、それはイスラエルの子孫はそのようにその不潔なパンを実に食べているためである。しかし彼は言った、ああ、主エホビよ、私の魂は汚されたことはありません、忌まわしい肉は私の口に入ったことはありません、と、すると彼は答えたもうた、私はあなたに人間の糞の代わりに雄牛の糞を与える、あなたはそれであなたのパンを作ることが出来ます。私は彼らをパンと水に乏しくさせ、人とその兄弟とは荒廃し、その不法のゆえにやつれ果てるであろう(4・9,12−17)。

 

これらの事柄によりユダ国民の教会の善と真理の性質が表象されたのであり、『人間の排泄物の糞で出来た大麦の菓子』は自己愛で汚された教会の内的な善を意味し、『雄牛の糞で出来た菓子』はこの愛に汚された教会の外なる善を意味しているのである。

 

 

 

真の基督教130

 

それをもってパンを作り、大麦の菓子を人糞で

 

 

 

 

真の基督教148

 

 このような人間の内なる心と外なる心とは、砂糖をつけた毒に譬えることが出来よう。またそれは予言者の子らが集めて、吸物の中へ投げ込み、食った時には「鍋の中に死がある」と叫んだ野生の蕃南瓜に譬えることが出来よう。(列王記下4・38−43)

 

 

アルカナ出版/真のキリスト教148

 

このような内部と外部のちがいは、毒をいれた砂糖菓子のようです。かの預言者たちに仕えた少年が、食べるため野ウリをあつめ、これをもっていったところ、口に入れる寸前、「ナベの中に死毒がはいっている」と叫んだことを思わせます(列王下4・38〜41)