モーセ
1.聖言
2.律法の神的なもの
3.かれはエホバと顔と顔を合わせて見たと言われ(出エジプト記33・11)
4.たれがあなたを私たちを治める人、君、裁判官としましたか
5.主から直接に発出している神的真理の方面の主
6.主から発出している聖いものは取り憑いて悩ます誤謬を消散させる
7.「私がパロのもとへ行く」。主の人間的なものから発出している聖いものは誤謬と悪とを取り除く
8.霊的な教会の者たちを主として悩ますものは誤った記憶知
9.「モーセは神に言った」。主の卑下の状態
10.主から直接発生している神的な真理そのものは戦いはしない、それは穏やかなもの
11.彼らがその指導者となり、頭となっていたその民族の宗教性が表象されている・・・モーセがカナンの地に入れなかった理由
12.彼はまたその国民の礼拝を表象
出エジプト記4・10
それでもなお、モーセは主に言った。「ああ、主よ。わたしはもともと弁が立つ方ではありません。あなたが僕にお言葉をかけてくださった今でもやはりそうです。全くわたしは口が重く、舌の重い者なのです。」
民数記12・3
モーセという人はこの地上のだれにもまさって謙遜であった。
民数記12・6−8
主はこう言われた。
「聞け、わたしの言葉を。あなたたちの間に預言者がいれば 主なるわたしは幻によって自らを示し 夢によって彼に語る。わたしの僕モーセはそうではない。彼はわたしの家の者すべてに信頼されている。口から口へ、わたしは彼と語り合う あらわに、謎によらずに。主の姿を彼は仰ぎ見る。あなたたちは何故、畏れもせず わたしの僕モーセを非難するのか。」
使徒言行録7・23
ステファノ:「四十歳になったとき、モーセは兄弟であるイスラエルの子らを助けようと思い立ちました。」
使徒言行録7・25
ステファノ:「モーセは、自分の手を通して神が兄弟たちを救おうとしておられることを、彼らが理解してくれると思いました。しかし、理解してくれませんでした。」
1.聖言
天界の秘義6723
律法の神的なもの、または聖言、特に歴史的な聖言の方面の主を表象。
『箱』は神的な律法の方面の主の人間的なものを表象したため、モーセは神的な律法を表象したため、彼が幼児の時小さな箱舟に置かれたのである。
天界の秘義6752[9]
モーセにより歴史的な聖言の方面の主が表象され、エリアにより予言的な方面の主が表象されたため、それで主が御形を変えられたとき、モーセとエリアとが主と話しているのが見られ(マタイ17・3)、主の神的なものが世に現れたときは、聖言を表象した者たち以外には何人も主と話すことも出来なかったのである、なぜなら主と話すことは聖言を通して為されるからである。
天界の秘義10290
「エホバはモーセに言われた」(出エジプト30・34)。
これは聖言を通して主により明るくされ、認識することを意味していることは以下から明白である、即ち、『言うこと』の意義は、それがエホバから言われている時は、明るくされて、認識することであり(それが明るくすることを意味していることについては、7019、10215、10234番を、それが認識することを意味していることについては、1791、1815、1819、1822、1898、1919、2080、2862、3509、5877番を参照されたい)、モーセの表象は聖言である(6752、7014、7089番)。聖言の『エホバ』が主を意味していることについては、9373番に引用されたところを参照されたい。ここから『エホバがモーセに言われた』により主により聖言を通して明るくされ、認識することが意味されていることが明らかである。
天界の秘義10290[2]
このことが意味されていることは主は教会の人間とは聖言以外のいかような方法によっても話されはしないためである、なぜなら主はそのとき人間を、彼が真理を認識するように明るくされ、また彼に、それがそうであることを認める認識を与えられるからであるが、しかしそれはその人間における真理を求める願望の質に応じて行われており、人間における真理を求める願望はその真理を求める彼の愛に従っているのである。真理のために真理を愛する者たちは明るくされるのであり、善のために真理を求める者たちは認識するのである(認識の何であるかについては、483、495、521、536、597、607、784、1121、1387、1919、2144、2145、2171、2515、2831、5228、5920、7680、7977、8780番を参照)。
天界の秘義10290[3]
しかし主は、聖言が布告され、各々の、また凡てのものに内意が存在するために、モーセと予言者とは生きた声により話されたのである。従ってまた『エホバはモーセに言われた』というこの言葉においては、内意にいる天使たちは『モーセ』の何であるかを知らないのである、なぜなら人物の名は天界に入りはしないで(10282番)、『モーセ』に代ってかれらは聖言を認識し、『言われた』の表現は彼らのもとではその内意に一致したものに変化し、かくてここでは明るくされて、認識することに変化しているのである。更に天使たちの観念の中では、『言うこと』と『話すこと』は、それが主が聖言を通して話されることについて言われている時は、それ以外の何ものでもないのである。
2.律法の神的なもの
天界の秘義6752
律法の神的なもの
律法の神的なものとは広い意味では聖言全体を意味し、それほど広くはない意味ではモーセを通して書かれたものを、最も狭い意味ではモーセを通して書かれたものを、最も狭い意味ではシナイ山で石板のうえに書かれた十戒を意味しているのである。
モーセはそれほど広くない意味におけるまた狭い意味における同じく最も狭い意味における律法を表象しているのである。
3.彼はエホバと顔と顔を合わせて見たと言われ(出エジプト記33・11)
天界の秘義4299[5]
モーセについて、彼はエホバと顔と顔を合わせて見たと言われ(出エジプト記33・11)、エホバは彼を顔と顔を合わせて知られたと言われている時は(申命記34・10)、その意味はエホバは彼に受け入れられるにふさわしい形で彼に現れられたということであり、その形は外なるものであり、即ち、ひげを生やした老人として、彼のそばに座られて、現われられたということである―このことは私は天使たちから教えられたのである。またこのことからユダヤ人はエホバを、他の神々よりは更に大きな奇蹟を行なうことが出来る、長い雪のようなひげを生やした、非常な老人としか考えなかったのである。彼らはかれを最も聖い者として考えたのではないのである、なぜなら聖いものとは何であるかを彼らは知らなかったからであり、まして彼らはかれから発出する聖いものをいかような手段によっても見ることは出来なかったのである、なぜなら彼らは何ら内なる聖いものを持たない身体的な地的な愛の中にいたからである(4289,4293番)。
4.たれがあなたを私たちを治める人、君、裁判官としましたか
天界の秘義6766
「彼は言った、たれがあなたを私たちを治める人、君、裁判官としましたか」。 これは、彼が未だ教会の中の紛争を解決するほどに信仰の諸真理において進んでいないことを認めたことを意味していることは以下から明白である、即ち、『彼は言った』は認識であり(このことについては前に再三述べた)、『人、君』の意義は主要な諸真理の中にいる者であり、かくて真理の教義において著しく明るくされている者である。こうした者が表象的な教会では『君』により意味されたのであり、従って『たれがあなたを人に、君にしたか』という言葉により、彼は教会の諸真理において未だそれ程進んではいなかったことが意味されているのである(『君』は主要な真理の中にいる者であることについては、5044番を参照)。そして『裁判官』の意義は論争、または紛争を解決する者であり、ここでは教会内の紛争を解決する者である、なぜならそれは教会に属している者たちを意味している二人のヘブル人の間の紛争であるからである。
天界の秘義6766〔2〕
最高の意義では取扱われている主題は主の人間的なものにおける律法の神的なものの初めのものであったのであるが、今や取扱われている主題はこの律法の進展である、しかし内意では今取扱われている主題は再生しつつある人間における神的な真理の進展である。この進展はその人間が初めて誤謬と真理とを識別することが出来るといったものである、なぜなら彼は彼がその中にいるところの真理から誤謬を、それが対立したものであるため、認めることが出来るが、しかしこの最初の時には教会内の信仰の諸真理の間の紛争を解決することは出来ないのであり、そのことを為すことが出来るためには、彼は更に進歩しなければならないからである、なぜなら人間は継続して明るくされるからである。このことは青年や若い人たちから非常に明白である、彼らはその教会の教義的なものが真理そのものであると信じ、そこから誤謬について判断を下しはするが、未だ教会内の信仰の色々な問題の間の紛争〔相違〕を解決することは出来ないのであり、この才能は徐々に生れてくるのである、それでそのことが出来る人間は更に年齢も進んで、その理解の内部が明るくされていなければならないのである。
天界の秘義6998
「かれは言われた、あなたの兄弟であるレビ人アロンはいませんか」。これは善と真理との教義を意味していることは、アロンの表象から明白であり、それは神的善または祭司職の方面の主であるが、しかしここでは、アロンが祭司職に就任しなかった以前であって、善と真理との教義である、それでまた『彼はモーセの口となり、モーセは彼の神とならねばならない』と言われているのである、なぜならモーセにより主から直接に発出している神的真理の方面の主が表象されており、従ってアロンにより、主から間接に発出して、善と真理との教義であるところの神的真理が表象されているからである。ここのモーセが表象している真理は人間によっては聞かれも認められることも出来ない真理であるが(6982番)、しかしアロンが表象している真理は人間から聞かれもし、認められもすることの出来る真理であり、ここからアロンは『口』と呼ばれ、モーセは彼の『神』と呼ばれており、またここからアロンは『レビ人』と呼ばれているのである、なぜなら『レビ人』により祭司職に仕え、また役立つところの、教会の善と真理との教義が意味されているからである。
6.主から発出している聖いものは取り憑いて悩ます誤謬を消散させる
「今、行きなさい、わたしはあなたをパロに遣わしましょう」(出エジプト記3・10)。これは主の人間的なものから発出している聖いものを―それにより、取り憑いて悩ます幾多の誤謬が消散してしまうのであるが、その聖いものを―意味していることは以下から明白である、即ち、行かねばならず、また遣わされもしたモーセの表象は律法の神的なものの方面の主であり(6723、6752、6771、6827番を参照)、かくて人間的なものの方面の主である、なぜなら主は世におられた時、主は先ずその人間的なものを、律法の神的なものと同一である神的な真理とされ、その後その人間的なものを完全に栄化されて、それを神的な善とされたからである(神的な真理と神的な善との間には、太陽から発している光と太陽の中の火との間に在るような相違が在るのである)、『遣わされること』の意義は発出することであり(2397、4710、6831番)、ここでは聖い真理であり(聖いは真理について述べられることについては、6788番を参照)、パロの表象は誤謬である(6651、6679、6683、6692番)。取り憑かれて悩ます誤謬が消散させられる、即ち、主の人間的なものから発出している聖いものにより消散させられると附言されているのは、以下の記事で取扱われている主題は、イスラエルの子孫が、即ち、主の霊的な教会に属した者たちが誤謬から解放されることであり、彼らは誤謬からは主から発出している聖いものによらなくては決して解放されることは出来ないためである。なぜなら主から発出している聖いものは取り憑いて悩ます誤謬を消散させるのみでなく、凡ゆる物を、即ち、諸天界に在る物も、地獄に在る物も神的秩序に復帰させ、諸天界を諸善とそこから派生している諸真理に従って極めて明確に区別させ、また諸々の地獄も諸々の悪とそこから派生している諸々の誤謬に従って明確に区別させ、同様に諸悪を諸善に対立させ、諸々の誤謬を諸々の真理に対立させ、かくて霊的な均衡が生れて、凡ゆる物が自由な状態に置かれるからである。
天界の秘義6870
『遣わされること』の意義は発出することであり(2379、4710、6831番)、かくて『神から遣わされること』は神的なものから発出することを意味し、また神的なものが神的なもの自身から発出することを意味している、なぜなら神的なものから発出している者は神的なものを受けて、それを更に進展させるからである。
7.「私がパロのもとへ行く」。主の人間的なものから発出している聖いものは誤謬と悪とを取り除く
天界の秘義6867
「私がパロのもとへ行くとは私は何者でしょう」。これは、取り憑いて悩ます幾多の誤謬のもとへ行ってそれらを取り除くことが出来るように自分自身に思われるような状態の中には未だいないことを意味していることは以下から明白である、『私は何者でしょう』の意義は、かれは未だそうした状態の中にいなかったことであり『パロのもとへ行くこと』の意義は、取り憑いて悩ます誤謬のもとへ行くことである、なぜなら『パロ』により取り憑いて悩ます誤謬が意味されるからである(6651、6679、6683番を参照)。それはまた取り除くことを意味していることは、主の人間的なものから発出している聖いものは(そのことについては前の6864番を参照)誤謬と悪とを取り除くためである、なぜならこれらの誤謬と悪とはその聖いものの臨在[現存]に堪えることが出来ないためである。これらの事柄が卑下から言われたため、かれにはそのことを行うことが出来るようには未だ自分自身には考えられなかったと言われているのである。
天界の秘義6865〔2〕
霊的な教会の者たちを主として悩ますものは誤った記憶知である、なぜなら彼らは善から真理を認めることは出来ないで、ただ教義から真理の記憶知を得ているに過ぎず、このような者は記憶知に取り憑かれて非常に悩まされるからである。なぜなら記憶知は最も全般的な容器であって、真理がその中へ入れられてそれを透明なものとなし、かくてそれを気づかれないものにする迄は、時には真理に反しているように見えるからである。更に記憶知は感覚の迷妄〔妄想〕に満ちていて、その迷妄は、教義から単なる知識の中にはいるが、善から真理を認識していない者らによっては消散されることが出来ないのであり、そのことは主として、世の光が彼らを支配しているためであり、その光は天界の光がその中へ流れ入らない限り、澄明に見えるが、天界の光が流れ入るや否や、光に代って不明確なものになるのである。ここからこれらの人物は世の事柄には明るくされて、利口でもあるが、天界の事柄では暗く、また鈍いのである。
天界の秘義6865〔3〕
これらの者は教会の教義的な事柄を自分自身の中に確認している時は、自分自身が明るくされていると信じるが、しかしそれは世の光から発した感覚的な光であって、それがその時彼らを欺くのである、なぜなら凡ゆる種類の教義的な物は確認されることが出来るからであり、例えばユダヤ人の教義的な事柄はユダヤ人により、狂信的な事柄は狂信者により、ソツニウス的な事柄はソツニウス主義者により、異端は凡ゆる異端者により確信されることが出来るのであり、それらは確認されると、彼らには真理そのものとして感覚的な光の中に現れるのである。しかし天界の光の中にいる者たちは主から明るくされており、確認する以前に、下方に在って、そこに秩序をもって配列されている記憶知を覗き込むことにより、それが確認されてよい真理であるか、否かを識別するのである。ここからこの後の者は、記憶知の上方に在って、明確なものである内的な観察を持ってはいるが、これに反し前の者は、記憶知の中に在って、かくしてもつれたものである低い観察を持っていることが明白である。
天界の秘義6866
「モーセは神に言った」。これは神的なものから発した認識と卑下とを意味していることは以下から明白である、即ち、『言うこと』の意義は認識であり(そのことについては前に再三述べた)、モーセの表象は律法の神的なものの方面の主である(6723、6752、6771、6827番を参照)。神的なものは『神』により意味されている。これらの言葉はまた卑下を意味していることは以下の記事から明白である、なぜならモーセは『私がパロのもとへ行って、イスラエルの子孫を連れ出すとは、私は何ものでしょう』、と言っているからである。モーセにより主が表象され、またここに卑下のことが言われているため、主が世におられた時の、その主の卑下の状態について若干話さなくてはならない。
主はエホバと他の者と語られるように語られた(主の卑下の状態)/
10.主から直接発生している神的な真理そのものは戦いはしない、それは穏やかなもの
天界の秘義8595
「モーセはヨシュアに言った」(出エジプト記17・9)。これは戦う真理へ注ぐ神的な流入[戦う真理へ神的なものが流入すること]を意味していることは以下から明白である、即ち、『言うこと』の意義はここではヨシュアにより表象されている戦う真理の中へ言うことであるため、流入であり―それが神的なものの流入であることは、モーセにより神的な真理が表象され、即ち、主から直接に発生している真理が表象されるためであり、この真理は純粋に神的なものであるため、凡ゆる種類の信仰の諸真理の中へ流れ入って、それらを真理としているのである―ヨシュアの表象は戦う真理である。ヨシュアが戦う真理を意味していることは、彼がアマレク、即ち、内的な悪から発した誤謬と戦うように命じられたという事実から明白である。この戦いは神的な真理が流入することによって戦うものとされた真理により行われねばならないのである。主から直接発生している神的な真理そのものは戦いはしない、それは穏やかなものである、なぜならそれは主に神的愛の神的善から発出しているため、平安そのものである。しかしそれが戦う真理となるためには、それは真理と善とを熱烈に求めている天使たちに流れ入り、彼らはその熱意に動かされて戦うのである。そこからヨシュアにより表象されている戦う真理が発生するのである。
11.彼らがその指導者となり、頭となっていたその民族の宗教性が表象されている・・・モーセがカナンの地に入れなかった理由
しかし内なる歴史的な意味では―この意義では取扱われている主題はイスラエル民族における宗教の状態であるが―その民族のエホバに対する性質が意味されており、即ち、彼らは進んでエホバの助けを乞い求めようとはしないで、抗弁したことが記されているのである。その理由は、彼らは奇蹟を見たときも、心ではエホバを最高の神としては承認しないで、単に口先でのみ承認したということであった。心では彼らがエホバを承認しなかったことは、彼らがエジプトの子牛を己がために作って、これを拝し、これが彼らの神であると言ったということから、また彼らが再三教えに背いたということからも極めて明白である。(そのことについては8301番を参照)。このことがここの内なる歴史的な意味において記されていることであるが、しかし内なる霊的な意義では解放される以前に試練の最後のものに連れて来られる者たちの試練の性質が記されているのである。
天界の秘義8588[3]
イスラエル民族とその宗教性[宗教]の性質がマッサとメリバにおけるモーセとの口論により記されていることもまた以下の記事では明白である―
荒野でマッサの日にあなたらの父祖がわたしを試みたように、心を頑なにしてはならない。彼らはわたしを試み、わたしの業を見た、わたしは四十年その代の者に嫌悪を感じて言った、それは心の誤った民であり、わたしの道を知らなかった、わたしは怒りのあまり、彼らはわたしの休みに入ってはならないと彼らに誓った(詩篇95・8−11)。
あなたらはマッサであなたらの神エホバを試みたように、かれを試みてはならない(申命記6・16、9・22、24)。
レビについてかれは言った、あなたのタンミムとウリムとはその聖い人のもとにある、あなたはかれをマッサで試み、メリバの水のほとりでかれと争った(申命記33・8)。
ここの『聖い人』は彼らが試み、モーセとアロンも聖めはしなかった主を意味しているのである。
天界の秘義8588[4]
(内なる歴史的な意義では―この意義では取扱われている主題はイスラエル民族の宗教性であるが―モーセとアロンとによっては真理の神的なものは表象されてはいないで、彼らがその指導者となり、頭となっていたその民族の宗教性が表象されているのである(7041番)。この宗教性は前に述べた底のものであったため、民数記に記されているように、彼らはその民をカナンの地に連れて入ってはならないと言われたのである―
エホバはモーセとアロンとに言われた、あなたらはわたしを信じないし、イスラエルの子孫の目の前でわたしを清めもしなかったため、あなたらはこの会衆をわたしが彼らに与えた地に連れて入ってはならない、これらはメリバの水である、イスラエルの子孫に与えた地へ入りはしない、あなたらがメリバの水のほとりでわたしの口に向って叛いたためである(民数記20・24)。
同じことがモーセにも言われている(申命記32・50、51)。
天界の秘義7041
「途中宿屋で・・・起るに至った」(出エジプト記4・24)。これはヤコブの子孫が内なるもののない外なるものの中にいたことを意味していることはここのモーセの表象から明白である。前の記事と後の記事の内意に取扱われている主題は霊的な教会であり、それが『イスラエルの息子たち』により意味されているが、しかしこの三つの節では、主題はこの教会がヤコブの子孫の間に設立されねばならなかったのに、彼らは内なるもののない外なるものの中にのみいたため、彼らの間には設立されることが出来なかったということである。そうした理由からここのモーセは律法または聖言を表象しないで、彼に導かれねばならなかったところのヤコブから出たかの国民または子孫を表象しており、かくて彼はまたその国民の礼拝を表象しているのである、なぜなら聖言のいたる所では指導者または裁判官(士師)、また王はその者を指導者、裁判官、または王としているその国民と民族を表象しているからであるが、それは彼がその頭首であるからである(4789番を参照)。このことが、モーセはここにその名を記されてはいないものの、途中、宿屋でそうしたことが起るに至ったことにより彼のことが意味されており、エホバは彼にエジプトに行き、帰るように前には極めて明白に命じられたにも拘らず、そのとき[途中宿屋で]彼に会われて、彼を殺そうとなされた理由である。
その他
聖書103[2]
その聖言の予言的な部分からはモーセは以下のものを引用したのである―
(中略)
これらの書物の他に、ヤシャルの書、または正しい者の書と呼ばれている古代の聖言の予言的な書物もダビデにより、またヨシュアにより記されている。