『ミモサ』

 

「よいことです。おお、主よ、あなたがなさることはみな、よいことです。」

 

いのちのことば社/エミー・カーマイケル著/一柳高明訳

 

この本はインドで、少女のときに宣教師である著者から、

ほんの一度だけ、神がおられて、その神は私たちを愛してくださる

という話を聞き、その言葉を支えにカースト制度の中で半生を

生き抜いた聡明な女性・ミモサの物語。

実は、その時、彼女は時間が無くてイエス・キリストの名前さえ教わる

ことができませんでした。なぜなら、ミモサはもっと話を聞きたかったのですが、

父親が彼女を連れ帰ってしまったからです。しかし、彼女は

世界を造った神様が自分を愛してくださっていることを知りました。

 

額に灰を塗ることはシバ神への忠誠を誓う印ですが、

彼女はそれを拒否、家中の者からも近所中の者からも

迫害を受けます。嫁いでからも生活は苦労の連続で、

夫は満足に働かず、ミモサは一人で家族の生活を支えます。

子どもに十分食べ物も与えることが出来ず、

ある時遂に息子の一人が死にます。

しかし、彼女は、父なる神のなさることはみなよいことです、

と考え、悲しみに耐えます。

 

「よいことです。おお、主よ、あなたがなさることはみな、よいことです。」

 

「私の子どもは、神さまがお与えくださいました。そして、

神さまが連れて行かれたのです。それでよいのです。」

 

「神さまは自分のようないたらない母親がこんなかわいらしい子供を

よく育てることができないことをご存知で、『もっとかわいがって

くださるためにみもとに召されたのだ』と思いました。」

(ミモサ/P80)

 

子どもたちの病気、夫の病気、貧しさ、周りからの蔑視、

実の兄弟からの屈辱という数々の試練の中で、彼女は人も恨まず、

父なる神だけを頼りにして生きます。

食べる物が無いときは天の父なる神にサリーを手に拡げて祈ります。

彼女自身は教育を受けさせてもらえず、字も読めないのですが、

子どもたちは世間の悪に染まらないよう躾けます。

 

・・・・

 

ところで、ミモサは子どもが死んだ時、周りの人間はミモサが魔神にささげもの

をしなかったからだ、と非難しました。(同P81)

 

ミモサが結婚したときも周囲の人間は、ミモサが自分たちの神々を

拝まないことを非難し、「見ていてごらん、きっと災いが来るに違いない」

と言いました。(P33

 

ミモサがそれらを否定すると周囲は怒ります。

あるいは、彼女は皆が神聖なものとしていた草を

焚き木のかわりに干して、燃やしたときも、周りは大騒ぎになりました。

 

ミモサは村人たちに言いました。

「でも、この神さまたちは、私の神さまと違います。世界には、

偉大な神さまお一人しかいません。ですから、どうして、それより劣る神々が、

私にたたることができるでしょう。私が拝んでいるのは、ツラシ(草の名)

をお造りになったお方ですもの。」

 

お金、名誉、等々、この世の良いものはたくさんあります。

「偶像崇拝」とは、彫像を礼拝することではなく、それらの価値観を

崇めることを言います。それらはつまり「魔神」です。

たしかにそういうものを崇め、従わないと、それらに恵まれないという「不幸」、

「災い」が来て、「ほれ、ごらん。だから言ったとおりだ。」

となるでしょう。全くその通り、その通りです。

 

しかし、彼らはそれらのこの世のよいものが他生でどれほど

無価値なものに変わるか知らないのです。

 

・・・・

 

<ミモサの神学>

「ミモサに与えられた真理の種は、全部集めても、幼い子供の手の一握り

にもならなかったでしょう。その種の数を数えることができます。

それほど少なかったのです。全部で九つでした。

神さまがいらっしゃること、その神さまが愛してくださること、導いて

くださること、神々の神で、全能であられること、祈る時

その祈りに耳を傾けてくださること、その神さまを『お父さま』と考えることが

できること、『木には、それを植えた者が水をやる』ということ、

天国は苦しみのない、この世よりはるかによい所であること、

かつてこの地上に住んでおられた主が、もう一度帰ってくること、

これだけでした。もう一つ、『いつか最後の時』にさばきがあり、

その時には言いわけしても役に立たないことも聞いていましたが、

この事柄は、あまりにもかけ離れたことのように思われて、ミモサの

神学の中で重要な位置を占めることができませんでした。

ミモサは、十字架につけられた救い主キリストについては、まだ

何もしりませんでした。ミモサが私たちといたごくわずかの間に、

私たちは、キリストのことを少し話しただけでした。それも、

ミモサを愛してくださっているということについて話しただけでした。

それなのにミモサは、キリストのことをよく知らないまま、

すでにキリストとお会いしていたのです。

『主とはどなたでしょうか。私がその方を信じることができますように。』

世の救い主が『あなたと話しているのがそれです』とお答えになる前に、ミモサは、

父親に連れ去られてしまいました。しかし、追い迫って来るキリストの愛の

力を何が妨げることができるでしょう。土の中にある小さな種を一つ取って

割り、未来の大樹が、みがかれた象牙のように刻まれているさまをご覧なさい。

見て、あがめ、たたえようではありませんか。

私たちは不信仰にも、小さなミモサのことを心配していました。

このような不信仰を考える時、全く謙遜にならざるを得ません。

実際インドに来てからこのかた、このことほど、私たちをへりくだらせた

ものはありません。しかしまた、このことほど、私たちを賛美と驚きと

畏敬の中に高く

引き上げたものもありませんでした。」(P65)

 

・・・・

 

「あなたは神を愛するために、喜んでいっさいを忍ばなければならぬ。

労苦(ほねおり)、悲哀(かなしみ)、誘惑(いざない)、悩み、

心配、窮乏、疾病(やまい)、不義、誹謗(そしり)、非難、

侮辱(はずかしめ)、慙愧(はじ)、懲戒(こらしめ)、

および軽蔑(あなどり)など、すなわちそれである。

これらはあなたがたが徳を積む助けとなり、

キリストの弟子を試し、天の栄冠を造る。」

 

「多くの人々がおびただしい涙を流し、大いに骨を折って、ようやく

のことで手に入れたものをあなたはすぐに得ようと思うのか?」

 

「わたしはあなたにゆたかに報いよう、そして、わたしはあらゆる

艱難不幸に際してあなたとともにいるだろう。」

(トマス・ア・ケンピス/キリストにならいて/3・35)

 

私の苦労など苦労のうちにも入らない、実に、けなげな、頭の下がる物語。

主と聖母から、もっと謙虚になるようにとのご忠告でしょう。

 

<ミモサの言葉>

「食べ物があった時に、神さまを賛美しましたね。さあ、何もない時にも、

神さまを賛美しましょうね。」

 

「庭師がたくさんの植木に水をやる時に、小さな木に水をかけ忘れる

ということはないでしょうか。子供たちと私は、あなたの植えられたものです。

あなたは、世界中のお世話をなさるので、たぶん今夜、私たちをお忘れになったのだと

思います。けれども、気になさらないでください(これは、半ば弁解めいた言葉です。

そんなことを言えるような者ではないのに)。私はあなたにつまずいたり

するでしょうか。ただめんどりが羽の下にひなを集めるように、

私たちをあなたの翼の下でいこわせてください。」(P149

 

「これもお受けしましょう。神さまのお許しがなければ、こういうことも

起こらないのですからね。」(P98)

 

「あなたは、学問によって神さまを知っています。でも私は、苦しみによって

神さまを知っています。」(P155)

 

  ・・・

「いずれにせよ、ミモサは、幾年もの間、苦しい生活に耐え抜き、

一度として絶望に身をゆだねたことはありませんでした。」(P42著者)

以上

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