主よ、主よ、わたしたちは御名によって預言し
マタイ7・22
1.聖書
マタイ7・21−23
「わたしに向って、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。かの日には、大勢の者がわたしに、『主よ、主よ、わたしたちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか』と言うであろう。そのとき、わたしはきっぱりとこう言おう。『あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ。』」
ルカ13・26−27
そのとき、あなたがたは、『御一緒に食べたり飲んだりしましたし、また、わたしたちの広場でお教えを受けたのです』と言い出すだろう。しかし主人は、『お前たちがどこの者か知らない。不義を行う者ども、皆わたしから立ち去れ』と言うだろう。
天界の秘義34
愛と信仰とは同一のものを構成しているため、分離を許さない、それで先ず光体について言われる時、それらは一つのものとして認められ、『諸天の広がりの中に光体が存在せよ(sit)』と言われている。この事について以下の驚くべき事を述べることが私に許されている。天的な天使たちは、主からその中にいる天的な愛により、その愛から信仰の凡ゆる知識の中におり、殆ど表現を絶するような理知の生命と光の中にいるのである。しかし他方愛が無くて信仰の教義的なものの知識の中にいる霊は諸天界の宮廷の最初の閾(しきい)にさえも近づくことが出来ず、再び逃げ帰ってしまうといった冷ややかな生命と明確でない光の中にいるのである。その中には主の教えに従って生活しないながらも、自分達は主を信じたと告げる者がいるが、主がマタイ伝に以下のように語られたのは、こうした者について言われたのである―
わたしに向って、主よ、主よ、と言う者が、ことごとく天国に入るのではない。わたしの意志を行う者がそこに入るのである。かの日多くの者はわたしに向って、主よ、主よ、私らはあなたの御名を通して予言したではありませんか、と言うであろう(7・21、22から終わりまで)。
天界の秘義2009[12]
名それ自身は何事も遂行はしないが、あらゆることがその名に包含されているものにより、すなわち、仁慈と信仰とのあらゆるものにより遂行されることはマタイ伝の以下の言葉から明白である―
わたしらはあなたの御名によって予言し、あなたの御名によって魔鬼を追い出し、あなたの御名の中にあって、多くの力ある業を行ったではありませんか。しかしそのときわたしは彼らに告白しよう、わたしは決してあなたらを知らなかった、不法を行う者よ、わたしから離れて去りなさい(7・22、23)。
このことから以下のことが明白である、すなわちユダヤ人がエホバの御名の中に礼拝をおいたように、またキリスト教徒が主の御名の中に礼拝を置いているように、名の中に礼拝を置いている者らはそうしたことをしているという理由からそれだけ価値があるのではない、なぜなら名には何の益もないからである。しかし実際益を与えるものは彼らが主の命じられたような性格のものになるということである。なぜならそれが『主の御名を信じる』ことであるからである。更に、主の御名以外の名に救いは全く無いと言われていることは、それ以外のいかような教義の中にも、即ち、信仰の真の教義であるところの相互愛以外のものの中には、引いては主以外の者の中には救いは全くないということを意味しているのである、なぜなら愛のすべてとそこから派生してくる信仰とは主のみから発しているからである。
天界の秘義2027
『あなたの後のあなたの裔に』は、主は主を信じるに違いない者たちにこれらのすべてのものを与えられるであろうということを意味していることは、『裔[種]』の意義から明白であり、それは信仰であり(1025、1447、1610番参照)、事実仁慈の信仰である(379、389、654、724、809、916、1017、1162、1176、1258番参照)。自分の生活の行為に功績をおいている者らは仁慈の信仰を持っておらず、それでここに意味されている裔ではない、なぜならかれらはそのことにより、主の義によらないで、自分自身のものによって救われようと欲しているからである。かれらの中には仁慈の信仰は、すなわち、仁慈が何ら存在していないことは以下の事実から明白である、すなわち、かれらはかれら自身を他の者の前に置き、かくてかれら自身を顧慮して、他の者を、その者がかれらに役立たない限り顧慮しないし、かれらに進んで仕えようとしない者を軽蔑するか、または憎むかするのである。かくて自己への愛によりかれらは分離して、決してともにはならず、かくして天界的なものを、すなわち、天界にその恒久性を与えている相互愛を破壊してしまうのである、なぜなら天界そのものはその相互愛の中にあり、その連合と一致とはことごとくその中に存続し、またそこから成っているからである、なぜなら他生では何であれ一致をこぼつものはことごとく天界の秩序そのものに反しており、かくて全体を破壊するようになるからである。こうしたものが己が生活の活動に功績を置いて、自分自身のために義を要求する者らである。他生にはこうした者が多いのである。
[2]彼らはときとしてその顔は小さなたいまつのように輝くが、しかしそれは自己義認から発している幻想[妄想]の火から発しており、事実はかれらは冷ややかである。かれらは時折走りまわって、聖言の文字の意義から自己の功績を確認しているのを見られる、なぜならかれらは内意にぞくしている真理を憎悪しているからである(1877番)。かれらのスフィアは自己顧慮のスフィア[霊気]であり、かくて自己を一種の神性者として認めない観念をことごとく破壊するのである。こうした種類の多くの者のスフィアはともになると、そこには敵意と憎悪以外には何ものも存在しないほどにも互に反発し合うのである、なぜならたれもが同一のことを、すなわち、仕えられようと欲するときは、かれは他の者を心の中で殺してしまうからである。
[3]彼らのある者は、自分たちは主のぶどう園に働いたとは言っているが、事実は働きつつも絶えず利得のみでなく自分自身の優越性を、光栄を、名誉を心に抱いており、自分らは天界において最大の者となって、天使たちからも侍かれるであろうと言いさえもし、他の者を自分自身に比較して心で軽蔑し、かくて天界を構成している相互愛に浸透しないで、自己愛に浸透し、その自己愛に天界を置いている者らの仲間となっている、なぜならかれらは天界とは何であるかを知らないからである。(このような者については、前の450‐52、1594、1769番を参照されたい)。これらの者は最初のものとなろうとして、最後のものになる者にぞくしており(マタイ19・30、20・16、マルコ1−10・31)、主の御名により予言し、多くの驚くべき事柄を行いはしたものの『わたしはおまえたちを知らない』と言われている者にぞくしている(マタイ7・22,23)。
天界の秘義3895[2]
人間が悪い生命の中にいるときに真理を確信することは、その者が自分自身に、真理は真理であると説得はするが、それは善を目的としているためではなくて、悪を目的としており、即ち、その者がそのことによって名誉、名声、富を得ることができるためであるといった性質を持っているのである。凡ての者の中で最悪の者自身でさえもこのような確信の中にいることが出来、また真理の中にいない者たちをことごとく、たとえその者たちはいかほど善の中にいようとも、地獄までも弾劾するほどにも外面的な熱意の中にいることが出来るのである(この確信については、2869、3865番を参照)。このような人物は最初他生へ入って来ると、自分自身が天使であると信じはするが、しかし彼らはいかような天使の社会にも近づくことは出来ないで、そこへ近づくや否や彼ら自身の確信のためにいわば窒息してしまうのである。これらの者が主からマタイ伝に以下のように言われている者たちである―
かの日多くの者は、わたしに向って言うであろう、主よ、主よ、私たちはあなたの御名において予言したではありませんか、あなたの御名において悪鬼を追い出したではありませんか、あなたの御名において多くの驚くべき業を行ったではありませんか、と。しかしそのときわたしは彼らに明らかに告げよう、わたしは決してあなたたちを知らなかった、不法を行う者よ、わたしから離れて去りなさい(マタイ7・22、23)。
『知ること』は連結を意味し、人間は主と連結している限り、主から『知られている』と言われている。主はまた連結していない者らを知られ、否、そうした各々の人間の中の極微な事柄そのものさえも知られているが(ヨハネ2・24,25)、しかしこれらの人間は悪の中にいるため、一種異なった種類の臨在に接しており、それはいわば主はその場におられはしないといったものであり、主はその場におられはしないことはないけれど、悪の中にいるその人間と霊とがその場にいないのであり、その時主は彼らを『知らない』と言われるのである。こうした事情に似たことが天使たちや霊たちの間に現れている、即ち、生命の状態の方面で似ている者たちは互いに他の近くに現れ、かくて相互に他を知り合ってはいるが、しかし生命の状態の方面で似ていない者たちは遠く離れているように互いに相手に見え、同じく相互に他を知りもしていないのである。約言すると、他生では状態が類似していないことによってその場にいないように見え、また知られもしないのである。
「食べ、また飲んだ。」これは礼拝の善と真理とについて教えられることを意味していることは以下から明白である、即ち、『食べること』の意義は善の連結と所有〔善により連結し、善を己がものとすること〕であり(2187,2343、3168、3513、3596、3832、4745、5643番を参照)、『飲むこと』の意義が真理の連結と所有〔真理により連結し、真理を己がものとすること〕である(3089、3168、4017、4018、5709、8562番を参照)。それはまた教えられることを意味していることは、即ち、『食べること』は善について教えられることを、『飲むこと』は真理について教えられることを意味していることは、霊的な食物は智恵が発生する源泉である凡ゆる信仰の善であり、霊的な飲物は理知が発生する源泉である凡ゆる信仰の真理であるためである(56−58、681、1480、3069、3114、3168、3772、4792、5147、5293、5349、5342、5410、5426、5487、5576、5579、5582、5588、5655、5915、8562、9003番を参照)。ここから古代人の間には宴会、祝宴、饗宴、晩餐が設けられたが、それは彼らが知恵と理知の事柄を手段として共に交わるためであったのである(3596、3832、5161、7836、7996、7997番を参照)。
天界の秘義9412〔3〕
『食べることと飲むこと』が信仰の善と真理とについて教えられることを意味していることは以下の記事から明白である―
その時あなたらは言い始めるであろう、私らはあなたの御前で食べ、また飲み、あなたは私の街路で教えられました、と。しかしかれは言うであろう、わたしはあなたらに告げる、わたしはあなたらが何処から来ているかを知らない、不法を働く凡ての者よ、わたしから離れて去りなさい(ルカ13・26、27)。
『主の御前で食べ、飲むこと』は信仰の諸善と諸真理とについて聖言から教えられることを意味し、『街路で教えること』は主の聖言から真理を説き教えることを意味している、なぜなら『街路』は教会の教義の諸真理を意味しているため、説き教えることは以前には街路で行われたからである(2336番)。
P261
しかし、直ちに近くの場所から一つの声が聞こえてきた。「諸君は罪については些かも知らない。何故なら諸君は自らを一度たりとも点検したことが無いからである。それ故、諸君は如何なる悪をも神に対する罪としてこれを決して避けなかった。しかし罪を避けない者は罪の中に止まり、罪は悪魔である。それ故諸君は主が「その時汝らは我らは御前にて飲み食いし、汝は我らの大路にて教えたまえりと言い出でんに、彼答えて、われ汝らが何処より来たりし者なるかを知らず、我を離れて去れ、汝ら不法を働く凡ての者よ」(ルカ13・26、27、マタイ7・22、23)と語り給うた者である。それ故、諸君は己が場所へ去られよ。諸君には洞窟への入口が見える。入られよ。然すれば仕事が与えられ、後食物が諸君の業に応じて与えらえるであろう。もし入ることを拒絶するならば、飢えの苦痛が速やかに諸君を駆り立てるであろう。」