持っている人は更に与えられて豊かになるが、

持っていない人は持っているものまでも取り上げられる

マタイ13・12

 

 

 

1.聖書

2.スウェーデンボルグ

 

 

 

1.聖書

 

 

マタイ13・12

 

持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。

 

 

 

マタイ25・29

 

だれでも持っている人は与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。

 

 

 

マルコ4・24−25

 

あなたがたは自分の量る秤で量り与えられ、更にたくさん与えられる。持っている人は更に与えられ、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。

 

 

 

ルカ8・18

 

持っている人は更に与えられ、持っていない人は持っていると思うものまでも取り上げられる。

 

 

 

ルカ19・26

 

主人は言った。『言っておくが、だれでも持っている人は、更に与えられるが、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられる。

 

 

 

 

2.スウェーデンボルグ

 

 

天界の秘義2449[2]

 

他生に入ってくる者はことごとくその者らが身体の中で送っていた生活に類似した生活へ再び入れられ、かくて善良な者にあっては、その者たちが善と真理とにより主により天界へ挙げられるために、悪と誤謬とは分離されてしまうが、しかし悪い者にあっては、その者が悪と誤謬により地獄へ連れ去られて行くために、善と真理とが分離されてしまうのであり(2119番参照)、そのことはマタイ伝における主の御言葉に正確に従っているのである―

 

 たれでも持っている者はさらに豊かに持つために、与えられるが、しかし持たないものはその持っているものさえもその者から取り去られるであろう(13・12)。

 

同書には他の所に―

 

 持っている者は、豊かに持つために、与えられるであろう、しかし持っていない者からは、その持っているものすらも取り去られるであろう(25・29、ルカ8・18、19・24−26、マルコ4・24,25)。

 

同じ事がマタイ伝の以下の言葉によりまた意味されている―

 

 二つとも収穫までともに生やしておきなさい、収穫の時わたしは刈る者に言いましょう、先ず毒麦を集め、それをつかねてたばにし、焼いてしまいなさい、しかし小麦は集めて、納屋に入れなさい、と。収穫は代の終りである、それで毒麦が集められて、火に焼かれるように、代の終りにもそのようになるでしょう(13・30,39,40)。

 

これと同じことがまた、網が海に投げられて、種々の魚がとられたが、善いものは集められて器の中へ入れられ、悪いものは棄て去られたことについて、代の終りにもそのようになることについて言われていることにより意味されている(47−50節)。

 

 『終り[終結、完結]』とは何であるか、それは教会にかかわるこれらのことに類した事柄を意味していることは、前の1857、2243番に見ることができよう)。

 

 悪と誤謬とが善良な者たちから分離されてしまう理由は、善良な者たちが悪と善との間に垂れ下がらないで、善により天界へ挙げられるためであり、善と真理とが悪い者から分離してしまう理由は、悪い者がその者に属している何らかの善により正しい者をたぶらかさないためであり、またその悪によりその者らが地獄にいる悪い者の間へ去ってしまうためである。なぜなら思考のあらゆる観念とあらゆる情愛とは他生では、善が善良な者の間に、悪が悪い者の間に伝達されるように伝達され(1388−1390)、かくて善[善良な者]と悪[悪い者]が分離されない限り、その結果無数の害悪が生まれてきて、さらに共に交わることはことごとく不可能となってしまうからであるが、事実は、あらゆるものは諸天界では主に対する愛と相互愛のあらゆる相違に応じ、またそこから派生してくる信仰のあらゆる相違に応じて(685、1394番)地獄ではいくたの欲念のあらゆる相違に応じて、そこから派生してくる幻想のあらゆる相違に応じて、極めて精妙に交わっているのである(695、1322番)。しかしながら分離は完全な除去ではないのである、なぜなら何人からもその者の得たものはことごとくは取り去られはしないからである。

 

 

 

天界と地獄349

 

 世で理知と知恵を得た者は凡て、各々その理知と知恵の質と度とに従って、天界に迎えられて、天使となる。なぜなら人間が世で受ける理知は何であれ、死後も存続して、彼と共に、携えられて行き、更に増大して完全なものとなるからであるが、しかしそれは真理とその善に対する彼の情愛と願望の度の内で行われ、その度を越えては行われない。情愛と願望を僅かしか持たない者は僅かしか受けないが、しかもその度の中で受け得るだけのものは受けるのである。それで情愛と願望を多く持つ者は多く受ける、即ち、情愛と願望の度そのものは一杯になるまで中を満たされる升のようなものであり、それで大きな升を持っている者は多くのものを受け、升の小さな者は少ししか受けない。それがそうであるのは、情愛と願望とを持っている人間の愛は、その愛にそのものに和合したものを凡て受け、従って人間はその愛に応じただけのものを受けるためである。これが主の以下の御言葉により意味されている、「持っている者は与えられ、更に豊かに得るであろう」(マタイ13・12、25・29)。「彼の胸の中へ升目を充分にし、押さえつけ、揺すぶり、こぼれるほどにして与えられるであろう」(ルカ6・38)。