二人の人が祈るために神殿に上った

ルカ18・10

 

ガド

 

 

 

1.聖書

2.スウェーデンボルグ

 

 

 

 

 

 

1.聖書

 

 

ルカ18・9−14

 

自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」

 

 

 

 

2.スウェーデンボルグ

 

 

天界の秘義6405[3]

 

『ガド』によりまた、主が譬えの中で語っておられるパリサイ人のように、救いを全く業のみから成立させている者らが意味されている―

 

 パリサイ人はただ一人立って、このように祈った神よ、私は他の人間のようなものでないことを、強奪者、不正な者、姦淫を犯す者でもなく、この取税人のようなものでさえないことをあなたに感謝します。私は週に二回断食し、私の持っている凡てのものの十分の一を捧げています(ルカ18・11、12)。

 

彼はこのように外なる事柄を真理そのものとして考えていたのである。このような者もまた主の王国の中にはいるが、しかしその入口の辺りにいるのであり、それで主は『わたしはあなたらに言います、その取税人はパリサイ人よりも義とされてその家へ降って行ったのです』(14節)、かくて、そのパリサイ人もまた命令に対する服従から業を行ったために、義とされて降って行ったと言われているのである。約言すると、ガドにより、真理でないものを真理と呼んで、この真理でないものから業は行為における意志と理解以外の何ものでもないからである。これらの人間を救うものは善いことを為そうとする意図であり、その無知

の中に在る無垢である。