ガド

 

 

 

創世記49・19

 

ガドは略奪者に襲われる。しかし彼は、彼らのかかとを襲う。

 

 

 

天界の秘義3929

 

9−11節「レアは自分が生まなくなったことを見た、で、彼女は下婢のジルパを取り、彼女を女としてヤコブに与えた。レアの下婢ジルパはヤコブに息子を生んだ。レアは言った、軍勢が来ます、彼女はその名をガドと呼んだ」。『レアは自分が生まなくなったことを見た』は、他の外なる諸真理が何ら承認されなかったことを意味し、『で、彼女はその下婢ジルパを取った』は肯定的な連結の手段を意味し、『彼女をヤコブに女として与えた』は、それが連結を生んだことを意味し、『レアの下婢ジルパはヤコブに息子を生んだ』は承認を意味し、『レアは言った、軍勢が来る』は、その最高の意義では全能と全知を、その内意では信仰の善を、その外なる意義[外意]では業を意味し、『その名をガドと呼んだ』はその性質を意味している。

 

 

 

天界の秘義3934[2]

 

『軍勢』がその外なる意義では業を意味しているのは、業は信仰の善に相応しているためである、なぜなら丁度善を考え、善を意志することが善を行うことなしには在りえないように、信仰の善は業なしには在りえないため、信仰の善が業を生むからである。前のものは内なるものであり、後のものはそれに相応した外なるものである。さらに、業については、それが信仰の善に相応しないかぎり、それは仁慈の業でもなく、また信仰の業でもないのである、なぜならそれはその内なるものから発していないで、死んだ業であり、その中には善も真理も存在しないが、しかしそれが相応すると、そのときはそれは仁慈か信仰か、その何れかの業であるからである。仁慈の業は仁慈からそれをその霊魂として流れ出てくるものであるが、しかし信仰の業は信仰から流れ出るものである。仁慈の業は再生した人間のもとに存在しており、信仰の業は未だ再生していないが再生しつつある者のもとに存在しており、それは善の情愛と真理の情愛の場合と同一である、なぜなら再生した人間は善を善の情愛[善に対する情愛]から行い、かくて善を意志することから行うが、しかし再生することおできる人間は真理の情愛[真理に対する情愛]から善を行い、かくて善を知ることから行うからである。その相違の性質はすでに繰り返したところである。このことから業の何であるかが明らかである。

 

 

 

天界の秘義3935

 

「彼女はその名をガドと呼んだ」。性質そのものが『ガド』により意味されている、すなわち、信仰と善の業の『性質』が意味されている。

 

 

 

天界の秘義6404

 

「ガド」は、真理からは発してはいるが、未だ善からは発していない業を意味していることは、ガドの表象から明白であって、それは業であり(3934、3935番を参照)、ここでは、記事の内意から明白なように、真理から発してはいるが、未だ善からは発していない業である。これもまた秩序をもって続いているのである、なぜならすぐ前のダンにより真理の中にはいるが、未だ善の中にはいない者たちが表象され(6396番)、今ここではガドにより真理から発してはいるが、未だ善からは発していない業の中にいる者たちが表象されているからである。これらの業の性質は今示そう。

 

 

 

 

天界の秘義6405

「一団の者が彼を掠奪するであろう」(創世記49・19)。これは判断を伴わない業は真理から駆逐するであろうということを意味していることは、『一団の者』の意義から明白であって、それは業であり(3934番を参照)、ここでは判断を伴わない業である、なぜなら真理から業を行いはするが、未だ善から業を行いはしない者たちは明確でない理解を持っているに反し、善から業を行う者たちは、善に明るくされているため、理解を明るくされているからである、なぜなら主から発している真理の光は善を通して知的なものの中へ流れ入っており、かくて真理の中へ流れ入ってはいるが、真理へは直接には流れ入らないからである。この間の実情は太陽の光のそれに似ており、太陽の光は植物界の主体である木や植物や花へ熱を通して流れ入って、それらを成長させ、また花を咲かせはするが、しかし直接には流れ入らないのである、なぜなら冬の光のように、光が熱なしに流れ入る時は、何ものも成長はしないし、花も咲かないからである。更に『彼を掠奪すること』は真理から駆逐することである。

 

 

 

天界の秘義6405[2]

 

しかしここに『ガド』により意味されている者のたれであるかを告げよう。彼らは真理については幻想に陥りはするものの、それでもその幻想から業を行い、かくて真理に属していない、まして善には属していない業を為す者である。こうした業により彼らは真理から駆逐されるのである。なぜなら真理の中にはいるが、未だ善の中にはいない人間はその宗教から何事かを行為に移すや否や、後にはそれをそれが真理そのものであるかのように弁護して、その中に止まってしまい、善の中へ入らない限り、それを改められることを容認もしないからである。なぜなら彼はそれを行うことによって彼自身にそれを浸透させてしまい、またそれを愛しもするからである。かくて業は彼を真理から駆逐してしまうのである。更に彼は真理でないものを真理であると信じるのである、なぜならこれらの人物もまた、『ダン』により意味されている者のように、感覚的なものから判断し、かくて正しい判断なしに判断するからである。このことを例をもって説明しよう。凡ゆる者を平等に己が隣人と考え、かくて悪い者にも善い者と同じく益を与え、かくて悪い者に益を与えることによって他の者に危害を加えている者が、そうした行為を繰返している時は、後にはそれを弁護して、凡ゆる者が自分の隣人であり、その者の性質がどのようなものであるかは、自分の知ったことではない、ただその者に益を与えることのみが大切なことであると言い、かくて彼は正しい判断も無しに、また真理そのものにも反して行動するのである、なぜなら真理そのものは凡ての者は隣人ではあるが、その度は異なっており、善の中にいる者たちは他の者以上に隣人であるということであるからである(2417、3419、3820、5025番を参照)。

 

 

 

天界の秘義6405[3]

 

『ガド』によりまた、主が譬えの中で語っておられるパリサイ人のように、救いを全く業のみから成立させている者らが意味されている―

 

 パリサイ人はただ一人立って、このように祈った神よ、私は他の人間のようなものでないことを、強奪者、不正な者、姦淫を犯す者でもなく、この取税人のようなものでさえないことをあなたに感謝します。私は週に二回断食し、私の持っている凡てのものの十分の一を捧げています(ルカ18・11、12)。

 

彼はこのように外なる事柄を真理そのものとして考えていたのである。このような者もまた主の王国の中にはいるが、しかしその入口の辺りにいるのであり、それで主は『わたしはあなたらに言います、その取税人はパリサイ人よりも義とされてその家へ降って行ったのです』(14節)、かくて、そのパリサイ人もまた命令に対する服従から業を行ったために、義とされて降って行ったと言われているのである。約言すると、ガドにより、真理でないものを真理と呼んで、この真理でないものから業は行為における意志と理解以外の何ものでもないからである。これらの人間を救うものは善いことを為そうとする意図であり、その無知

の中に在る無垢である。