ルイザ・ピッカレータ

(1865〜1947)

『被造界の中の神の王国』

ルイザ・ピッカレータの手記/1〜4巻

石澤(森口)芙美子訳

天使館

「私のイエス・・・私の愛よ・・・私の命・・・私の全てよ、死なないで

ください。いつもあなたを愛します・・・決してあなたを離れません。

どんな犠牲を払っても。けれどもますますあなたを愛することが

できますように、なるべく早く、全てあなたのものである私自身を、

あなたへの愛のために消耗し尽くすことができますように、

あなたの愛の炎を下さい。いと高く永遠なる私の善よ」

(第1P230より)

 

・・・・

 

ルイザ・ピッカレータはイタリアの小さな村コラートの人。

幼い頃からイエスの内なる声を聞き、イエスの心の小さな修道女となります。

16才の時から食物をとることが出来なくなり、以後、ご聖体だけが彼女の

唯一の食べ物となります。23歳から死までの59年間、彼女はベッドから

起き上がることはありませんでした。彼女は聴罪司祭から命じられ、

イエスが彼女の中で行われていることを書き記した36冊の手記

(1899年2月28日〜1938年12月28日)を残しました。

 

・・・・

 

<イエズスのために母親の役を続ける。従順という名の貴婦人。>

1899年8月16日

(第2巻P112より抜粋)

 

イエズスは私が、ご自分の母親役をするようにと望み続けた。愛らしい幼児の

姿をして泣くので、なだめるために、主を腕に抱いて歌いはじめた。

歌っている間は泣きやむけれど歌うのをやめると、また泣きだす。

どんな歌を歌ったかは黙っています。なぜなら自分自身の外に出ていたので、

すべてを覚えている訳ではないのです。それとあまりつまらないことは

言いたくないから。でも従順という名のご婦人は情け容赦ない方で、

許してくれそうにない。彼女が望むようにさえすれば、支離滅裂でも

満足してくれる。人は、この「従順婦人」は盲目だというけれど、

なぜか私には反対に全部が目のような気がする。ごく小さなことにも気づくし、

もし言うとおりにしないと、平和を与えてくれないから。

でも、この美しい貴婦人と平和にやっていこう。事実、言うとおりにすると、

とても良い方で、望みがすべてかないます。それでは私の子守り歌を、

覚えているとおり記してみよう。

 

小さい、強い子、

お前はみんなの慰め。

可愛い、きれいな子、

お星さままでお前に見とれる。

坊や、私の心を盗んでおくれ、

お前の愛でそれを満たすために。

優しい子よ、

私も幼児になりたい。

坊や、お前は天国、

ああ、永遠(とこしえ)の微笑のうちで私を遊ばせておくれ。

 

・・・・

 

<従順について。>

1899年8月17日

(第2巻P113)

 

私は、ご聖体拝領のあとイエズスに言った。

「いったいどうして従順という徳は、これほど情け容赦なく、

時としては気まぐれなほど強いものなの。」

主は答えてくれた。

 

「この従順という婦人は、なぜそうなのか知っていますか?それは他のすべての

悪癖に死を与えるからです。他のものに死を受容させるためには、

それはどうしても強く勇敢でなくてはならない。またもしそれだけで足りなければ

容赦なく、気まぐれとさえ思うときもあります。とてもか弱い身体を殺すためにも

力と勇気がいるのだから、悪癖や情熱に死の一撃を与えるためには、

もっとそれが必要になる。でもそれはとてもむつかしいのです。

時には死んだと思っても、再び生き返ることがあるから。

この勤勉な婦人は常に動いて様子をうかがっているので、もし人が命令を実行

するのにちょっとでもためらっていると、その心にもう一度悪癖が甦ってくる

恐れがあるので、その人が彼女の足元にひれ伏し、沈黙のうちに、

彼女の望みを礼拝するまで、魂に戦いをいどみ、平和を与えないのです。

 

さあ、これがあなたの言う、彼女がなぜこれほど情け容赦なく気まぐれかという

理由です。ああ、そうなのです。従順なしには、真の平和はない。

もしも従順なしに平和を味わっているように感じるなら、それは偽の平和です。

それは自分の情熱には合致するが、決して徳と一致はしない。魂は自滅します。

なぜなら、従順から離れるのは、この気高い徳の王である私から離れることだから。

 

従順は自己の意志を殺し、神のそれを溢れるほどに注ぐ。従順な霊魂は、

もはや自分自身の意志で生きるのではなく、神のそれで生きているとさえ言える。

神の意志そのものをもって生きること以上に美しく、聖なる人生が得られる

でしょうか。他の徳の場合、たとえそれがもっとも崇高なものだとしても、

そこには自己愛が混じることがあるけれど、従順にはけっしてそれがないのです。」

 

・・・・

 

1899年9月1日

(第2巻P127)

 

「従順は私にとっての全てでした。従順はあなたにとっても全てであって欲し

いのです。従順によって私は生まれ、従順によって私は死に、

私の身体にある全ての傷は、従順が私に刻んだしるしです。

それは傷つけるためにふさわしい武器をそなえた戦士、

とあなたが言った通りです。私のうちには一滴の血すらも残らない。

私の肉は引きちぎられ、骨はくだけ、血まみれになってあえぐ私の心臓は、

誰か私に同情する人の慰めを捜し求めていました。しかしこの冷酷な専制君主

である従順は、私が十字架上で生けにえとして自分を捧げ、愛のために息を

引き取るのを見て、やっと満足したのです。

 

なぜでしょう。この強力な戦士の任務は、霊魂を犠牲として捧げる

ことだからです。そのために霊魂が自分を完全に捧げ終わるまで激しい

戦いを起こすだけなのです。霊魂が苦しもうが、喜ぼうが、生きていようが、

死のうが、なんの注意も払わない。彼の目は、自分が勝つこと、

それのみに注がれていて、それ以外のことには無関心なのです。

 

この戦士の名前は「勝利」です。なぜなら彼は従順な霊魂には、

すべてにたいする勝利を与えるからです。霊魂が死んだかのように

思えたとき、その時こそ霊魂にとっての真の人生が始まるのです。

従順が私にくれなかったものが何かあったでしょうか。それ以上に偉大なものが

あったでしょうか。従順を通して私は死に打ち勝ち、地獄を打ち負かし、

鎖にしばられていた人間を解き放ち、天を開き、勝利の王として

私のためだけでなく、私の贖罪のわざの功徳を利用したいと思う

すべての私の子供たちのためにも私の王国を獲得しました。

そうなのです。人生は私につらく当ったが、従順という呼び名は、

私の耳に快く響いたのです。だから私は従順な魂をとても愛します。」

 

・・・・

 

<ルイザは、従順の価値について説明するイエズスの言葉を聞いて納得する。>

1899年10月3日

(第2巻P154)

 

ある時は従順の方が、次は私がというふうに、私たちは同じ意見になった。

この頑固で、ありがたい従順婦人には、とても我慢がいる。

主導権さえ握らせておけば、おとなしい子羊のままでいる。

そうしておけばすすんで労をとり、その人を主のうちに憩わせてくれるし、

目を光らせて、誰も邪魔したり、眠りを妨げないように見張ってくれる。

その人の魂が休んでいるあいだ、この女の人のしていることといったら。ああ!

その人の苦労を身に受けて、額から汗を流すの。これを知れば、どんな

賢い人でもびっくりして、心を揺すられ従順婦人を好きになってしまう。

 

こうして記述しつつも、自問した。

「従順て何。何から出来ているの。何を食べているの?」と。

 

そのときイエズスの声が耳に心よく響いた。こう言っていた。

 

「従順が何か知りたいですか。従順とは、一番純度の高い清い、完全

なるもので、もっとも苦しい犠牲から生まれるもの。神を再び生きるために、

自らをも破壊してしまうものです。従順は高貴で神聖な者で、

人間に属するものはひとつもなく、すべてが自分自身である人だ。

だから、一生懸命、霊魂の中で神の高貴さに属さないものすべて、

なかでも自己愛を破壊しようとします。そのあと、その魂に関わることで

少しくたびれてしまうけれど、最後は魂を休ませてくれる。

つまり従順とは、私なのです。」

 

聖なるイエズスがこう話すので、私は驚くと同時に、うっとりとなった。ああ、

聖なる従順様、あなたはなんて分かりにくいの。私はあなたの足元にひれ伏し、

あなたを崇める。人生の困難な歩みを教え導き、照らしてください。清い光に

導かれ、教えられ、護衛されれば、きっと安全に永遠の港に着けるでしょう。

 

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