一粒の麦

 

種子

 

 

 

1.聖書

2.マリア・ワルトルタ

 

 

 

1.聖書

 

ヨハネ12・24−26

 

はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。 自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。 わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる。

 

 

2.マリア・ワルトルタ

 

マリア・ワルトルタ/聖母マリアの詩下P57

 

「主よ、ファリサイ人は、皆それほど残酷なのですか」とヨハネが尋ねる。

「私は、そんな人には仕えたくない! 小舟の方が好きだ」

「小舟というのはおまえの恋人のことか」と面白半分にイエズスが質問する。

「いいえ。それはあなたです! この世に、“愛”があると知らなかったころはそうでしたが・・・」

 率直にヨハネが答えたものだから、イエズスはその激しさについ笑ってしまう。

「この世に“愛”があるのを知らなかったのか。それなら、おまえの父が母を愛さなくてどうやっておまえが生まれたのですか」とイエズスが冗談めかして聞いた。

「その愛も美しいが、私は魅力を感じません。私の愛はあなただけです。あわれなヨハネには、この世の愛はあなただけです」

 イエズスは思わず片手でヨハネを抱き寄せる。

「おまえのそのことばを待っていた。愛は愛を欲しがり、人間は愛を渇望する相手にいつもわずかなしずくしか与えない。夏の暑さに、天から下る途中で蒸発してしまう露のように! 人の愛のしずくも、いろいろな炎に焼かれて次第に消えていく。引き続き心は無理にもそれをしぼるだろうが・・・さまざまな思い煩い、欲望、利害などが、愛をよってたかって焼き尽くす。それならば、何がイエズスまで昇っていくのですか。あまりにも小さな愛しか昇らない! 人のすべてのときめきの残りものか、必要に差し迫られて請い願う人間の利己心からくるものだけです。愛のためだけに私を愛するのは、わずかな人々、幾人かのヨハネたちだけです・・・。

 また生えてきたあの穂をごらん。小麦を収穫した際の落穂かもしれない。それがまた芽を出して、炎天や干ばつに抵抗して頭をもたげ、根を張り、穂を伸ばしている・・・触ってみなさい。もう実もできかかっている。やせた畑で生きているものといえばこれしかない。しばらくすると、実った粒がからを破って大地に落ちて小鳥たちのための施しとなり、初めの一粒は百倍になって再び芽を出し、冬になって鋤が固い土を耕す前に熟し、冬季には多くの鳥の飢えを満たす。

私のヨハネ、勇敢な“たった一粒の種子”にどれほどのことができるかを見なさい。愛のためにだけ私を愛するわずかの人々は、この種子と同じである。その一粒だけが多くの人々の飢えに役に立ち、その一粒だけが醜い裸の土地を美しくする。その一粒だけは、死だけしかなかったところに命を興し、そうすれば、そこに多くの飢えた人々が集まる。

 しかし、そのけなげな愛の粒を食べた後も人々は相変わらず思い煩いや利己心にとらわれて、どこかに飛んで行く。だが、この人々が自分で意識しなくても、愛の粒は人々の血と心とに命の芽を出し、やがて・・・戻る・・・イザクが言っていたように、きょうか、明日か、あさってか、心の中で愛の認識が大きくふくらんでいく。実のなくなった茎は、ただの枯れた一本のわらしべにすぎないが、その犠牲からどれだけの善いことが生まれることか! そして、その犠牲の上にどれほどの報いが!」