ヤコブ(使徒)

 

アグレダのマリア 神の都市.3

 

 

 

 

マルコ3・17

 

ゼベダイの子ヤコブとヤコブの兄弟ヨハネ、この二人にはボアネルゲス、すなわち、「雷の子ら」という名を付けられた。

 

 

 

 

ルカ9・52−55

 

そして、先に使いの者を出された。彼らは行って、イエスのために準備しようと、サマリア人の村に入った。しかし、村人はイエスを歓迎しなかった。イエスがエルサレムを目指して進んでおられたからである。弟子のヤコブとヨハネはそれを見て、「主よ、お望みなら、天から火を降らせて、彼らを焼き滅ぼしましょうか」と言った。イエスは振り向いて二人を戒められた。

 

 

 

使徒言行録12・1−3

 

そのころ、ヘロデ王は教会のある人々に迫害の手を伸ばし、ヨハネの兄弟ヤコブを剣で殺した。そして、それがユダヤ人に喜ばれるのを見て、更にペトロをも捕らえようとした。それは、除酵祭の時期であった。

 

 

 

ヤコブ1・27

 

みなしごや、やもめが困っているときに世話をし、世の汚れに染まらないように自分を守ること、これこそ父である神の御前に清く汚れのない信心です。

 

 

 

ヤコブ2・14−26

 

わたしの兄弟たち、自分は信仰を持っていると言う者がいても、行いが伴わなければ、何の役に立つでしょうか。そのような信仰が、彼を救うことができるでしょうか。もし、兄弟あるいは姉妹が、着る物もなく、その日の食べ物にも事欠いているとき、あなたがたのだれかが、彼らに、「安心して行きなさい。温まりなさい。満腹するまで食べなさい」と言うだけで、体に必要なものを何一つ与えないなら、何の役に立つでしょう。信仰もこれと同じです。行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです。  

 

しかし、「あなたには信仰があり、わたしには行いがある」と言う人がいるかもしれません。行いの伴わないあなたの信仰を見せなさい。そうすれば、わたしは行いによって、自分の信仰を見せましょう。あなたは「神は唯一だ」と信じている。結構なことだ。悪霊どももそう信じて、おののいています。 ああ、愚かな者よ、行いの伴わない信仰が役に立たない、ということを知りたいのか。神がわたしたちの父アブラハムを義とされたのは、息子のイサクを祭壇の上に献げるという行いによってではなかったですか。アブラハムの信仰がその行いと共に働き、信仰が行いによって完成されたことが、これで分かるでしょう。「アブラハムは神を信じた。それが彼の義と認められた」という聖書の言葉が実現し、彼は神の友と呼ばれたのです。これであなたがたも分かるように、人は行いによって義とされるのであって、信仰だけによるのではありません。同様に、娼婦ラハブも、あの使いの者たちを家に迎え入れ、別の道から送り出してやるという行いによって、義とされたではありませんか。魂のない肉体が死んだものであるように、行いを伴わない信仰は死んだものです。

 

 

 

アグレダのマリア/神の都市/P299

 

 聖パウロの脱出について知らされた後、聖母は聖ヤコボの命乞いをされます。聖ヤコボは聖母の従兄弟にあたり、とても親しくされました。サラゴサにいた聖ヤコボは、派遣されてきた天使たちによって、聖母がエフェゾにおられることを知りました。スペインのサラゴサの教会がだいたい建設されてから、司牧を弟子たちに任せ、サラゴサを発ち、諸地方を巡回説教しながらカタロニアに着き、イタリアを通ってアジアに向かい、エフェゾに来ます。聖母の足許に平伏し、涙を流し、主の大いなる御恵みを感謝します。聖母は彼を床から起こし、申されます、「私の主よ、御身は主により聖別された方で、主の牧者であること、私は卑しい塵であることを思い出して下さい。」すぐに跪き、聖ヤコボの祝福を願います。聖ヤコボは自分の兄弟である聖ヨハネにも会い、三人で高潔な会話をします。