イシマエル

 

野生のろば

 

天界の秘義1899

 

 主の神的な合理的な人はイサクにより表象されたが、しかし神的なものとならねばならない主の最初の合理的な人はイシマエルにより表象されたのである。これらの事柄が表象されるために、サライは、イシマエルが若者になるまでさえも長く石女であったのであり(このことは21章に話されている)、そうした理由からここに『エホバはかの女を子供を生まないように閉じられてしまった』と言われているのである。

 

 

天界の秘義1946

 

「あなたはその名をイシマエルと名づけなくてはならない」。これはその生命の状態を意味している。古代ではその両親たちがその中におかれていた状態を、とくに母親がみごもったときに、または子を宿していた間に、または出産したときに、その中にいた状態を意味している名前が息子と娘に与えられたのであり、それでその名前は表意的なものであったのである。イシマエルは何からその名を得たかがここに説明されており、すなわち、それは『エホバがその苦悶[苦しみ]を聞かれたためである』であり、それはかれの母の状態に言及しているのである。

 

 

天界の秘義1951

 

 この種類の真理そのものは他生で色々の方法で表象されているが、いつも強い力のある、頑丈なものとして表象され、そのためそれには些かも抵抗することはできないのである。霊たちはこうした真理を考えるのみで、戦慄に似たものにおそわれるのである、なぜなら譲歩しないことが、かくて後退はしないことがそのものの性質となっているからである。このことからもまたわたしたちは『そのすべての兄弟たちの顔に向って[反抗して]住むこと』によって意味されていることを認めることができよう。たれでもこの記事の中にアルカナがかくされていることを知ることができよう、しかしそれが如何ような性質のものであるかはこれまで知られてはいなかったのである。

 

 

天界の秘義2085

 

『かれの後のかれの裔にも』。これは主に対する信仰を持つにちがいない者たちを意味していることは、『裔〔種〕』の意義が信仰であることから明白である(このことは前の1025、1447、1610、2034番に説明したところである)。愛の信仰を持っている者たちが、すなわち、主に対する愛を持っている者たちが、したがって天的な者たちが、または天的な教会にぞくしている者たちがここに『裔〔種〕』により意味されている、なぜならイサクから生まれる裔がとり扱われているからである。しかし仁慈の信仰を持っている者たちは、即ち隣人に対する仁慈を持っている者たちは、したがって霊的な者たちまたは霊的教会にぞくしている者たちは―今以下に記されている節にとり扱われている『イシマエル』により意味されているのである。(天的な者と霊的な者との間の区別のいかようなものであるかは前の2069、2078番に見ることができよう、また主に対する愛を持つことと隣人に対する仁慈を持つこととの間の区別のいかようなものであるかは2033番に見ることができよう)。

 

 

天界の秘義2674

 

「かれはパンと一びんの水をとった」。これは善と真理を意味していることは、『パン』の意義が天的なもの、または善であり(276、680、2165番参照)、『水』の意義が霊的なもの、または真理であることから明白である(28、680、739番参照)。『一びんの水』と言われているのは、かれらが最初与えられるものは極めてわずかな真理であり、すなわち、かれらが受けることができるだけの真理であるためであって、それがかれが『それを彼女の肩におくこと』により意味されているのである(2676番)。たれでもこれらの歴史的な記事には秘義が含まれていることを以下の事実から認めることができよう、すなわち、アブラハムは、羊と牛を豊かに持ち、また金銀にも富んでいたのに、その下婢を―その下婢から息子を得たのであるが―またそのいたく愛していた少年イシマエルを、ただパン(と水)のみしか与えないでこのように去らせたのである。かれはまたこれらのものが尽きたなら、かれらは死んでしまうことも予見することもできたであろう。そしてそうしたことがもしかれらが天使から助けを得なかったならば起りもしたであろう。さらに、パンと一びんの水にかかわる、またそれらが彼女の肩の上に置かれたことにかかわるこうした事柄は記すに足りるほど重要なことでもないのである。しかしそれでも、それがそのように為され、語られたのは、これらの事柄が霊的なものになりつつある者たちの最初の状態を含みまた意味もしており―かれらには最初多少の善と多少の真理が、実にそれは些少のものではあるが、与えられるのであるが―その後水は尽き、そのとき主から救をかれらが受けることを含み、意味しているためである。

 

 

天界の秘義3263[3]

 

 このことから『イシマエル』の意味していることが今や認められることができよう、またそのことにより、表象的意義ではたれが『イシマエル人』であるかも認められることができよう、すなわち、(かれらは)主の霊的教会のものであり、生命[生活]の面では単純な善の中におり、それで教義の面では自然的な真理の中にいる者たちである。このような者もまたヨセフにかかわる以下の記事の『イシマエル人』により意味されているのである―

 

 見よ、旅をしている一行のイシマエル人がらくだに蝋、樹脂、没薬水を荷わせ、それをエジプトに運ぼうとして、ギレアデからやってきた(創世記37・25)。

 

 ここにはイシマエル人は気質の善良な異邦人たちが抱いている単純な善のような善の中にいる者たちを表象しており、『蝋、樹脂、没薬水を運ぶらくだ』はこのような人々の内的ないくたの善を意味している。それに似たことが同章28節と39章1節、または士師記の『イシマエル人』により意味されており、士師記にはギデオンがある要求をしたと言われている―

 

 あなたたち各々の者はその戦利品の耳環をわたしに与えなくてはならない。なぜならかれらはイシマエル人であったため、金の耳環を持っていたからである(士師記8・24)。

 

 

天界の秘義4754

 

イシマエル人・・・単純な善の中にいる者

 

「かれはわれわれの兄弟であり、肉身であるから」(出エジプト37・27)。

これは、かれらから発しているものが受け入れられるからである、を意味していることは以下から明白である、すなわち、『兄弟』の意義は善から生まれた血縁関係であり(3815番)、『肉身[肉]』の意義は両方の意義における自分自身のものであり(3813番)、かくてそれは教会のものである者らから発しているため、受け入れられ、またそれは単純な善にいる者たちにより受け入れられたため、これらの者によっても受け入れられたということである。なぜならイシマエル人は単純な善にいる者たちを表象し、ヨセフの兄弟たちは仁慈から分離した信仰の中にいる教会を表象しているからである。単純な善の中にいる者たちは、主の人間的なものは神的なものであり、また人間は救われるためには仁慈の業を為さなくてはならないことを承認するのである。分離した信仰の中にいる者たちはそのことを知っており、それでかれらはこの信仰を凡ゆる者の前に強く主張はしないのであり、単純な善の中にいる者たちの前には全く主張はしないのであるが、そのことは主としてかれらは常識に反したことを敢えて語らないためであり、またかれらはそのようなことを主張して自分自身の威厳と利得とを失ってしまうためである。なぜならもしかれらがかりにもこれらの真理を否定するなら、単純な善の中にいる者たちはかれらについてかれらは愚物であると言うからである。なぜなら単純な善の中にいる者たちは愛とは何であるか、愛の業とは何であるかを知ってはいるが、それらのものから分離した信仰の何であるかを知りはしないからである。業と対立した信仰を支持し、また主の人間的なものと神的なものとの区別について論じる議論をかれらはわけのわからぬ詭弁と呼ぶのである。それでかれらが受け入れられようとしてまたかれらから発しているものが受け入れられるため、分離した信仰の中にいる者らはすすんで譲歩するのである、なぜなら、もしこれらの真理が消滅するなら、かれらは利得も栄誉も受けはしなくなるからである(4751番)。