野生のろば

 

天界の秘義1948

 

十二節「かれは野生のろばのような人になり、その手はすべての者に反抗し、すべての者の手はかれに反抗するでしょう、またかれはそのすべての兄弟たちの顔に反抗して住むでしょう」。『かれは野生のろばのような人間になるでしょう』は、記されている合理的な真理を意味し、『かれの手はすべての者に反抗する』は、それは何であれ真理ではないものと戦いを交えるであろうということを意味し、『すべての者の手はかれに反抗するでしょう』は、諸々の誤謬はこれと戦って後退するであろうということを意味し、『かれはその兄弟たちのすべての者の顔に反抗して住むでしょう』は信仰の事柄について絶えず論争はするが、それでもそれは征服者[勝利者]となるであろう、ということを意味している。

 

 

天界の秘義1949

 

「かれは野生のろば(onager)のような人になるでしょう」。これは記されている合理的な真理を意味していることは、『野生のろば[野のろば]』の意義が合理的な真理であることから明白である。聖言には馬、馬に乗る人、らば、ろばのことが再三記されているが、しかしたれもいまだにこれらのものが理知の、理性の、記憶知の事柄を意味していることを知ってはいない。(中略)合理的なものは善と真理から成っており、すなわち、仁慈にぞくしている事柄と信仰にぞくしている事柄とから成っており、『野生のろば』により意味されているものは合理的な真理である。それでこれがイシマエルにより表象されるものであり、またこの節に記されているものである。

 

[2]合理的な真理は善から分離するとこうした性格を持っていることは信じ難いことのように思われ、わたしもまた、生きた経験により教えられなかったならば、それが真実であることを知らなかったであろう。合理的な真理と言うも、こうした種類の合理的なものを持っている人間と言うも、帰するところは一つである。その者が真理の中にのみ宿っているといったような性格の合理性を持っていて―たとえそれが信仰の真理であっても―それと同時に仁慈の善の中にはいない人間は全くこうした性格を持っている。かれは気むずかしい人間であり、何ごともがまんしようとはしない、すべての者に反抗し、あらゆる者を誤謬の中にいるものとみなし、容易に叱責し、こらしめ、罰するのである、かれは憐みを持たない、自分自身を他の者に適用させたり、または適応させたり、またはその心をたわめようとつとめたりはしないのである、なぜならかれはあらゆるものを真理から眺めて、何ごとも善から眺めはしないからである。そのためイシマエルは追放されて、後には荒地に住み、かれの母はエジプトの地からかれのために妻を得たのであるが(創世記21・9−21)、そうした事柄のすべてはこうした合理的なものを与えられている者を表象しているのである。

 

 

天界の秘義1950

 

「その手はすべての者に反抗するであろう」。これはそれが何であれ真でないものと戦いを交えるであろうということを意味し、『すべての者の手はかれに反抗するであろう』は誤謬は戦って後退するであろうということを意味していることは、『イシマエル』により、前に言われたように、善から分離した合理的な真理が意味されているという事実から明白であり、この真理について『その手はすべての者に反抗し、すべての者の手はそれに反抗する』と言われているとき、そうしたものがこの言葉の意義であることが明白である。前にアブラハムにより主の内なる人が、または主の神的な合理的なものが表象され、ヤコブにより主の外的な人が、または主の神的な自然的なものが表象されていることが述べられた。わたしたちが今とり扱っている言葉は合理的なものが内なるものに、すなわち神的な天的なものと霊的なものに結合しないならば、それがそこへ陥ってしまう状態をとり扱っているのである。この合理的なものは記憶知の情愛の生命から、すなわち、サライの女中、エジプト人ハガルからその性質を得ていたため、またこの生命は外なる人に属していて、その外なる人は、主の母から受けついだ性質をもっていて、その性質には反抗して、それを斥けてしまわなくてはならなかったため、それでその合理的なものがもしそれが合理的な善を欠如するならば、陥ってしまう状態のままにここに記されているのである。しかし主はその受けつがれた性質をいくたの試練の争闘と勝利とにより卑しくされた後は、すなわち、それを苦しめて、征服され、その合理的なものそれ自身を神的な善により生かされてしまった後では、それは『イサク』となったのである、すなわち、それはイサクにより表象され、イシマエルは、その母のハガルとともに家から放逐されてしまったのである。

 

[2]純粋な合理的なものはことごとく善と真理から、すなわち、天的なものと霊的なものから成っている。善または天的なものはその合理的なものの霊魂または生命そのものであり、真理はまたは霊的なものはそこからその生命を受けているものである。天的な善から発している生命がないなら、合理的なものはここに記されているようなものとなり、すなわち、それはすべてのものに反抗して戦い、すべてのものはそれに反抗して戦うのである。合理的な善は、いかに攻撃されても、決して戦いはしない、なぜならそれは[合理的な善は]おだやかで、優しく、忍耐づよく、素直であるからである、なぜならその性格は愛と慈悲のそれであるからである。それでもそれは戦いはしないけれど、すべてのものを征服するのである、またそれは争闘については決して考えないし、また勝利のためにほこりもしない、そのことはそれが神的なものであって、それ自身により安全であるためである。なぜならいかような悪も善を襲うことができないからである、悪は善が存在しているスフィア[霊気]の中には存続することすらできない、なぜならこれが単に近づいてくるのみで、悪は悪自身によって後退して、後に倒れてしまうからである、なぜなら悪は奈落的なものであるが、善は天界的なものであるからである。天的な霊的なものの場合も、すなわち、天的な起原から発している真理の場合も、または善から発している真理の場合も非常にそれに類似しているのである、なぜならこの真理は善により、形作られている真理であって、それは善の形と呼ばれてもよいからである。

 

[3]しかしここにイシマエルにより表象されて、この節に記されているところの、善から分離した真理は、全くそれとは異なっていて、野のろばのようなものであり、すべてのものに反抗して戦い、またすべてのものもそれに反抗して戦うのであって、事実それは争闘以外にはほとんど何ごとも考えはしないし、またそれ以外には何ごとも呼吸しないのである、その全般的な喜びは、またはそれを支配している情愛は征服することであり、それは征服すると、勝利をほこり、そのためにそれは『Onager』または荒地のらば、すなわち、他のものとはともにいることのできない野生のろばとして記されているのである。こうした生命は善の無い真理の生命であり、実に、仁慈の無い信仰の生命であり、それで人間が再生しつつあるときは、それは実に信仰の真理により遂行されはするが、しかしそれと同時に仁慈の生命によっても遂行されるのであって、この仁慈の生命を主は信仰の真理が増大するに応じて密かに注ぎこまれるのである。

 

 

天界の秘義1964

 

「ハガルがアブラムにイシマエルを生んだとき」。これは、記憶知の情愛の生命が合理的なものを生んだとき、を意味していることは、『ハガル』の意義が記憶知の情愛の生命であることから、また『イシマエル』の意義が最初にみごもった合理的なものであることから明白である―それらの意義については前にとり扱った。本章にはとり扱われている主題は人間の合理的なものであるため、そして合理的なものが専ら真理のみから構成されているときの、また善と善から派生している真理から構成されているときの、その合理的なものの性質が記されているため、以下のことを知らなくてはならない、すなわち、合理的なものは知識(scientifika et cognitiones)によらなくては決してみごもり、生まれることはできない、すなわち、形成されることはできないのである、しかしこれらの知識は用をその目的としなくてはならないのであり、それらが用を持つとき、生命をその目的とするのである、なぜなら生命はことごとく目的にぞくしているため、用にぞくしており、それで知識は用の生命のために学ばれない限り、無用なものであるため、無価値なものであるからである。

 

[2]用の生命を持たないこうした知識のみからでは、合理的なものはここに記されているようなものになって、自己への愛に汚された一種の真理の愛から、野生のろばに似て気むずかしく、争いを好み、ひからびた、乾いた生命のような性質をもつようになるのである。しかしこれらの知識が用をその目的とするときは、用から生命を受けるが、それでもその用の性質に似た性質の生命を受けるのである。愛の信仰において完全なものになるために知識を学ぶ者たちは―なぜなら真の、真実の信仰は主に対する、また隣人に対する愛であるから―あらゆる用の中の用の内にいて、主から霊的な天的な生命を受けるのであり、かれらはこの生命の中にいるとき、主の王国のあらゆるものを認識する能力を得るのである。この生命のうちに天使たちはことごとくいるのであって、かれらはこの生命のうちにいるため、理知そのものと知恵そのものとのうちにいるのである。

 

 

 

天使館/天使のたより2007.05/13号P15/マリア・ヴァルトルタ/福音3下

 

荒れ野に馴れた雌驢馬が風の中に雄の臭いを嗅ぐように―わたしたち人間の場合は、その雄の臭いとは情欲そのものに加えて、権力欲、金銭欲という名で呼ばれていますが―彼らは犯罪に至るまでその臭いについて行くのです。