ヘブライ人、ヘブライ民族

ヘブル教会

 

1.スウェーデンボルグ

2.ルイザ・ピッカレータ

 

 

1.スウェーデンボルグ

 

天界の秘義1238

 

 『エベル』によりまた一つの国民が意味され、その父祖はエベルであり、かれはこの名前で呼ばれたことは以下のように理解されなくてはならない。これまで記された者たちは古代教会がその間に存在していた諸国民であって、かれらはすべてセム、ハム、ヤペテ、カナンの息子たちと呼ばれたのは、セム、ハム、ヤペテ、カナンにより教会の種々の礼拝が意味されているからである。ノア、セム、ハム、ヤペテ、カナンは人間としては決して存在しなかったのであるが、しかし特定的に古代教会はまた全般的に各教会はそれが真の内なるもの、腐敗した内なるもの、真の外なるもの、腐敗した外なるものとなっているものであるため、前に述べた名前が与えられたのであり、それはすべての相違が全般的にかれらとかれらの息子たちとに、その源泉として、帰せられるためであった。さらにここにその名を記されている国民は元来そうした礼拝を持っていたのであり、それでノアの息子たちの一人から生まれた息子たちと呼ばれている。そして同じ理由からまたこうした礼拝はそれ自身が聖言のこれらの国民の名により意味されているのである。

 

 

[2]ノアとその息子たちにより意味されているこの最初の古代教会は少数の者に限定されないで、多くの国民にひろがっていたのであり、そのことはいくたの国民が記されていることから明白である、すなわち、ヨルダンのこちら側と向こう側にある、アッシリア、メソポタミヤ、シリヤ、エチオピア、アラビヤ、リビヤ、エジプト、ツロとシドンにもたっしたペリシテ、カナンの全地から明白である。しかしその後シリヤに一種の外なる礼拝が始まって、そこから広く周囲の多くの国々に、とくにカナンに拡がったが、それは古代教会の礼拝とは異なっていたのである。そして古代教会とは分離した教会の或るものがかくして起ったため、そこから謂わば新しい教会が発生したのである、それ故それは第二古代教会と呼ばれることができよう。この最初の設立者はエベルであった、それでこの教会はエベルに因んだ名をつけられている。当時は、前に言ったように、すべてのものは家族、氏族、国民に分けられていた。聖言の色々なところから見られるように、各々の国民は一人の父祖を承認して、またその父祖の名で呼ばれたのである。かくてエベルをその父祖として承認した国民はヘブル民族と呼ばれたのである。

 

 

 

天界の秘義1241

 

すなわち、エベルにより新たに定められた礼拝が生まれたのであるが、しかしそれはつけ加えられたものであり、また変化したものであった。とくにかれらは生けにえを他の祭儀にまさって称揚し始めたのである。真の古代教会では生けにえはハムとカナンの子孫の若干の者たちの間を除いては知られていなかったのであり、ハムとカナンの子孫らは偶像教徒であり、かれらに生けにえが許されたのはかれらにその息子と娘とを生けにえとして捧げさせないためであったのである。

 

 

天界の秘義1796

 

 「ダマスコ人のこのエリエゼルです」。今しがた言われたことからこれらの言葉は外なる教会を意味していることは今や明白であり、そのことがまた『ダマスコ人』の意義からも現れている。ダマスコはシリアの主要な都会であって、そこには古代教会の礼拝の残りのものがあったのであり、そこからエベルまたはヘブル民族が起ったのであって、その民族のもとには(前の1238、1241番に言ったように)教会の外なるもの以外には何ものもなかったのであり、かくて家の執事の仕事以外には何ものもなかったのである。これらの言葉の中には多少絶望があり、したがって、多少主の試練があったことはその言葉そのものから明白であり、また内なる教会について以下に記されている慰めからも明白である。

 

 

天界の秘義4517

 

「カナン人とペリジ人に」。これは善と真理の中にいる者たちを意味していることは、以下から明白である、すなわち、『カナン人』の意義は、教会の真理の中にいた者たちである。『カナン人とペリジ人』にこうした意義がある理由は、直ぐ前に述べたように(4516番)、古代教会が依然そこのかれらの間に在ったということである。なぜならカナンの地には最古代教会の人々がおり(4447、4454番を参照)、また古代教会の人々もおり、とくに『ヘブル教会』と呼ばれたかの古代教会から来ている人々がいたのであり、そうした理由からカナンの地の住民は全般的に『ヘブル民族』と呼ばれ(創世記10・15)、また祭壇をもち、生けにえをささげたのであり、それでかれらが偶像崇拝者となった後は、そお祭壇の破壊が再三命じられたのである。それで教会がまたは教会の何かがかれらの間に残っているかぎり、その教会の善は『カナン人』により意味され、教会の真理は『ペリジ人』により意味されたのである(1573、1574番)。

 

 

2.ルイザ・ピッカレータ

 

ルイザ・ピッカレータ/被造界の中の神の王国/4巻P257

 

「我が娘よ、私の恩恵から非常に肥沃にされた霊魂にとって、それに応えなかったということは、とても恐るべきことである。もっとも愛され、もっとも富まされたにもかかわらず、結局はもっとも不毛となってヘブライの民は、より少ない富を与えられはしたが、もっとよく応えた他の国にパウロが与えた、あの果実を産出できなかった。恩恵に応えないという事実は、いかなる奇跡を前にしても霊魂の目を眩ませ、惑わせ、強情へと心を備えるのである。