ケルビム

 

 

 

天界の秘義306

 

 『東からケルビムを住まわせる』ことは彼が信仰のいかような秘められたものにも入り込まないように供える[配慮する]ことである、なぜなら『エデンの園に向った東』は理知の発してくる天的なものであり、『ケルビム』によりこうした人間を信仰の諸々のものに入り込ませない主の配慮[摂理]が意味されるからである。『それ自らを回す剣の焔』により、狂った欲望とそこから由来してくる確信とを伴った自己への愛が意味され、それらは彼が実際入ろうと望みはするが、形体的な地的な物に拉し去られる底のものであり、このことは『生命の木を守る』すなわち聖いものを冒涜させまいとする目的のためである。

 

 

 

天界の秘義308

 

 『東』と『エデンの庭園』の意義は前に述べられたため、これについてさらに長く詳述することは不必要であるが、しかし『ケルビム』は人間が狂って人間自身のものから、また感覚と記憶知とに属したものから信仰の諸々の秘義に入り、かくてそれらを冒涜し、自分自身を破壊しないように主が供えられることを意味することは『ケルビム』が記されている聖言の凡ての記事から明白である。ユダヤ人は主が来られることについて、主を意味する教会の表象的なもの、また型について、死後の生命について、内なる人と聖言の内なる意義について明らかな知識を持ったならば、それを冒涜し、永遠に滅びてしまったであろうというような性質を持っていた、それでこのことが箱の上の贖罪所の上の、幕屋の帳の、幕の上の、また神殿の中のケルビムにより表象され、主がそれらを管理されたことが意味されたのである(出エジプト記25・18−21、26・1、31、列王記6・23−29、32)。なぜなら内に証が置かれていた箱はこの記事の中の生命の木と同じものを、すなわち、主と主にのみ属した天的なものを意味したからである。ここからまた主は極めて頻繁に『ケルビムの上に坐られるイスラエルの神』と呼ばれ、またここから主は『ケルビムの間から』モーセとアロンと話されたのである(出エジプト記25・22、民数記7・89)。

 

 

 

天界の秘義6832〔4〕

 

『ケルビム』は主の摂理を意味していることについては、308番を参照されたい。

 

 

 

真の基督教208

 

彼はその霊的な意義を破壊する惧れがあるのは、彼はその知っている僅かな相応によって霊的な意義を歪め、それに強いて誤ったものを確認させ、かくして彼は真理に暴行を加え、従ってその神的真理の住む天界に暴行を加えるからである。

それ故、もし何人でも主の助けを得ないで、その意義を発見しようと欲するならば、天界は彼に閉ざされ、彼はその時真理を一つとして認めなくなるか、或いは霊的狂気に陥るかするのである。

 

 

 

真の基督教260

 聖言の文字的な意義はその内にある純粋な真理を危害から守るのである。何故なら、読者はその霊的な意義に危害あるいは暴行を加えること無しに、己が理解に応じて聖言を解釈し、説明し得るからである。文字の意義が異なった人々によって異なった風に理解されることは何らの害を与えないが、神的真理に相反している虚偽がもたらされるとき、害が生まれ、これは虚偽を確認した者によってのみ行われる。かくして、聖言は暴行を受けるが、宗教的な虚偽に取り憑かれてはいるものの、これを確認しない者たちからは何らの暴行をも受けない。此処に、その文字的な意義は全き警備者となっている。この警備者はアダムとその妻がエデンの園から追放された後、その入口に置かれ
たケルビムによって意味されており、また我々は神エホバは「その人を追い出し、エデンの園の東方にケルビムと、自らまわる焔の剣を置いて生命の樹の道を守り給う」ことを読むのである(創世記3・23,24)。

 

 

 

真の基督教776

 

乗ることは聖言から発する神的真理によって教えることを意味する。何故なら馬は聖言の理解を意味するからである(「黙示録の啓示」298番参照)。神は文字通りに雲の上に乗り給わないことを誰が認め得ないであろうか。更に、「神はケルビムに乗り給えり。天の密雲を幕となし給えり」(詩篇18・10,11)。ケルビムも亦聖言を意味する(「黙示録の啓示」239、672番参照。)

 

 

人の子が大いなる力と栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見る(マタイ24・30)

 

 

 

 

聖書26

 

[5]「今後聖言の霊的意義は主から純粋な諸真理にいる者にのみ専ら与えられるであろう」。

 

この理由は何人も主のみによらなくては霊的意義を認めることは出来ず、また主から純粋な諸真理にいなくてはそれを認めることも出来ないということである。なぜなら聖言の霊的意義は専ら主とその王国とを取扱っているからであり、これが天界の主の天使たちが認めている意義である、なぜならそれがそこの主の神的真理であるから。もし人間が相応を知って、それにより、また自己の理知から聖言の霊的意義を究めようと望むなら、彼はこの意義に暴行を加えることが出来るのである。なぜなら彼はその知っている若干の相応を通して、その意味を歪め、それをこじつけさえもして、誤ったものを確認して、そうしたことは神的真理に、また天界に暴行を加えることになるからである。それでもし誰でも自分自身からその意義を開こうと望んで、主からそれを開こうと望まないなら、天界はかれに閉じられ、そのときはその人間は何ものも認めないか、または霊的に狂うかするのである。

 

 

 

2]他の理由は主は聖言によって各々の人間に教えられ、その人間がすでに得ているその諸真理から教えられて、媒介物がなくては新しい真理を注ぎ入れられないということである、それでもし人間が神的な真理にいないなら、またはたんに若干の真理にいるのみで、それと同時に誤謬にいるならば、彼はその真理をその誤謬から誤謬化してしまうのであり、そのことは聖言の文字の意義について凡ゆる異端者により為されたことは良く知られている。それで何人をも聖言の霊的意義に入らせないために、またはその意義に属した純粋は真理を歪ませないために、主により警護の者が置かれており、それが聖言ではケルビムにより意味されている。

 

 

 

3]警護の者が置かれたことは以下のように私に表象されたことがある― (後略)