バルトロマイ

 

いちじく

 

 

1.聖書

2.マリア・ワルトルタ

 

 

 

1.聖書

 

 

ヨハネ1・43−51

 

その翌日、イエスは、ガリラヤへ行こうとしたときに、フィリポに出会って、「わたしに従いなさい」と言われた。 フィリポは、アンデレとペトロの町、ベトサイダの出身であった。 フィリポはナタナエルに出会って言った。「わたしたちは、モーセが律法に記し、預言者たちも書いている方に出会った。それはナザレの人で、ヨセフの子イエスだ。」 するとナタナエルが、「ナザレから何か良いものが出るだろうか」と言ったので、フィリポは、「来て、見なさい」と言った。 イエスは、ナタナエルが御自分の方へ来るのを見て、彼のことをこう言われた。「見なさい。まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない。」 ナタナエルが、「どうしてわたしを知っておられるのですか」と言うと、イエスは答えて、「わたしは、あなたがフィリポから話しかけられる前に、いちじくの木の下にいるのを見た」と言われた。
ナタナエルは答えた。「ラビ、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。」 イエスは答えて言われた。「いちじくの木の下にあなたがいるのを見たと言ったので、信じるのか。もっと偉大なことをあなたは見ることになる。」 更に言われた。「はっきり言っておく。天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる。」

 

 

 

2.マリア・ワルトルタ

 

 

マリア・ワルトルタ/神に出会った人々1巻/P57

 

 いつしか、子供たちはイエズスの周りに輪をつくっている。まるで濃い水色の長い雌しべを取り囲む色とりどりの花びらのように見える。好奇心から、初老の男が一人近づいてくる。イエズスは自分の服を引っ張る子供をなでようとして振り向いてその男に気づき、じっと見つめる。男は真っ赤になってあいさつをするが、それより他は何も言わない。

「さあ、おいで! 私について来なさい」

「はい、先生」

 イエズスは子供たちを祝福し、フィリッポ(この名で呼ぶ)と肩を並べて家に戻る。皆で小さい菜園に腰を下ろす。

「私の弟子になりたいのですか」

「そう望んでいます・・・あえてとは申しません」

「私があなたを呼びました」

「それなら、私はあなたの弟子になります。あなたのために、ここにいます」

「私のことを知っていたのですか」

「少しばかり、アンドレアが話してくれました。

『あなたが請い願っていたものがやって来ました』と私に言ったのです。

 アンドレアは、私がメシアを切に望んでいたのを知っていたのです」

「あなたの望みはかなえられました。その人はあなたの目の前にいます」

「先生、私の先生、そして神よ! 」

「あなたは善意のイスラエル人だから、私はあなたに自らを現します。あなたのもう一人の友人が待っています。その人も本物のイスラエル人です。これから行って、こう伝えなさい。

『われわれは、モーゼと預言者たちとが告げたダビドの子孫のヨゼフの子、ナザレトのイエズスを見つけた』と。さあ、行きなさい」

 イエズスは、フィリッポがナタナエル・バルトロメオと一緒に戻ってくるまで、一人でそこに残る。

「この人は詐欺を知らないまことのイスラエル人です。ナタナエル、あなたに平和」

「どうして私をご存じなのですか」

「フィリッポがあなたを呼んでくる前に、いちじくの木の下であなたを見かけました」

「先生は神の子です、イスラエルの王です! 」

「私がいちじくの木の下で考え込んでいるあなたを見かけたと言ったから信じるのですか。あなたはこれよりもずっとたいへんなことを見るはずです。まことに、おまえたちは、天が開かれ信仰によって天使たちが人の子の上に下ったり上ったりするのを見るはずです。それは、いまあなたに話している私です」

「先生! 私はそれほどの恵みにふさわしくありません! 」

「私を信じなさい。そうすれば天に値する人になります。信じたいですが」

「先生! 信じます」

 

ヴィジョンはここで中断され、その続きは人があふれる屋上のところで始まる。

 

 

 

 

マリア・ヴァルトルタ/私に啓示された福音/5巻下P11/346.3

 

 イエズスは、皆が話すのを聞いていて、言う、イエズスは、皆が話すのを聞いていて、言う、「皆、よく言ってくれました。シモン・ぺトロの言うとおり、人は彼女を『マリア』だから愛する。カイザリアへの途上で、あなたたちに言いました。完全なる信仰を完全なる愛に結びつけた者だけが、次の言葉、すなわち『イエズス・キリスト、御言葉、神の子、人の子』の本当の意味を知るのだと。しかし今、もう一つ含みのある名を言う。それは、私の母の名前です。完全な信仰を完全なる愛と一つにした者だけが『マリア』、神の子の母なる名前の本当の意味が理解できる。その本当の意味が真の信仰者、真の愛を知る者に明らかになるのは、苦難の時、産みの母が、その子と苦難を共にする時、母なる救済者救済者と共に全世界の目の前で未来永劫に人類を救済する時です」。

「いつのことですか? 」、バルトロマイが尋ねる。大きな川の岸辺に立ち寄って、多くの弟子がその水を飲んでいる時である。

「ここで休んでパンを食べることにしよう。もう昼時だから。夕刻までにはメロン湖に着き、船に乗れば近道ができます」、イエズスは答えを濁す。

 穏やかな太陽の下、川の岸辺の柔らかな草の上に皆腰を下ろす。ヨハネが言う。「こんなに可愛らしい花を踏みつけるのは心が痛みます。まるで空の小さいかけらが、草の上に落ちたようだ」。何百本という勿忘草である。

「明日には、もっときれいに生まれ変るだろう。地上を神の宴の間に変えるために、花を咲かせる」、ヤコブが兄弟を慰める。

 イエズスは食物に祝福を与え、皆陽気に食事をする。弟子たちは皆、まるでたくさんのひまわりのように、十二使徒の真ん中に座っているイエズスを見ている。

 

 

 

マリア・ヴァルトルタ/私に啓示された福音/5巻下P12/346・4

 

 うららかな日和ときれいな水が味を添えた食事は、すぐに終わる。しかし、イエズスがそこに座ったままなので、誰も動かない。いや弟子たちは、イエズスにもっと近づこうと移動している。イエズスが使徒たちに言うことを聞くためだ。前にイエズスが彼の母について話したことについて、使徒たちが尋ねたからである。

「ええ、肉体的に私の母であるというだけで偉大なことです。エルカナのアンナがサムエルの母として記憶されていることを考えてごらんなさい。彼は単なる預言者にすぎませんでした。それでもアンナは、彼を産んだことで記憶されています。したがってマリアは、イエズス、救世主を世に贈ったことで、最も高い称賛に値すると考えるべきなのです。だが、こうした評価も、神が世界を救済するために必要とされる基準を満たすためにマリアに要求されることに比べれば、まだ低すぎます。マリアは神の要望を裏切ることはありません。一度も裏切ったことはありません。彼女は、完全なる愛の要求、完全なる犠牲の要求、いずれに対しても完全に自らを捧げてきたし、これからも捧げるでしょう。彼女が最大の犠牲を、と共にのために、また世のために払うとき、本物の愛を知る人は、彼女の名前の本当の意味が分かるでしょう。そして未来永劫に、本当の愛を知る忠実は信仰者はだれでも、その意味を知ることを許されるのです。偉大なる母聖なる養育者の意味を。聖なる養育者は、キリストの子らを天の命へと育て上げるために、ご自分の涙で養われます。」

 

 

 

 

マリア・ヴァルトルタ/私に啓示された福音/5巻下P188/360・2

 

 使徒たちの気分は天候よりも暗い。それが全てを語っている。誰もが自分の思っていることを口にしようとし、口に出る言葉は、全て忠告の形を取っているが非難である。口々に言う。「だから言ったではないか」、「私が言ったようにしていれば」等々。すでに間違いを犯し、気が重くなっている者の気持ちを一層傷つける。

「ペラで川を渡って、向こう岸を行った方がよかった。これほど水浸しにはならなかったろう」と言う者もいれば、あるいは、「あの馬車を使えばよかったのに! いいところを見せようとして、このざまだ・・・」、とか、「山にあのままいれば、この泥はなかったろうに!」と言う者もいる。

 ヨハネが言う。「あなたがたは、過去の出来事の預言者です。誰がこの降り続く雨を予想したでしょうか? 」

「雨の季節なのだから、予想はできたはず」と、バルトロマイがもっともらしく言う。

「これまでは、過越祭の前にこうではありませんよ。私が来た時は、ケドロンは豪雨ではありませんでした。それどころか去年は旱魃でさえあった。あなたがたは不平を言っていますが、フィリシテア平原で、どんなに喉が渇いたか忘れたのですか! 」と、ゼロテが言う。

「その通り! 二人の賢者がそう言って、私たちをお叱りになる! 」と、ケリオットのユダが皮肉っぽく言う。

「口を慎みなさい。あなたは批判するだけだ。それなのに、ファリサイ派か誰かに口を開くべき時には、まるで舌を縛られたように何も言わない」。タダイが苛々して言う。