いちじく
1.いちじくの木
2.いちじくの実
3.いちじくの葉
1.いちじくの木
マタイ21・18−22
朝早く、都に帰る途中、イエスは空腹を覚えられた。道端にいちじくの木があるのを見て、近寄られたが、葉のほかは何もなかった。そこで、「今から後いつまでも、お前には実がならないように」と言われると、いちじくの木はたちまち枯れてしまった。弟子たちはこれを見て驚き、「なぜ、たちまち枯れてしまったのですか」と言った。イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。あなたがたも信仰を持ち、疑わないならば、いちじくの木に起ったようなことができるばかりでなく、この山に向かい『立ち上がって、海に飛び込め』と言っても、そのとおりになる。信じて祈るならば、求めるものは何でも得られる。」
マルコ11・12−14、20−24
天界の秘義217
『ぶどう』は聖言に霊的な善を意味するために用いられ、『いちじくの木』は自然的な善を意味するために用いられていることは、聖言の内意が失われてしまったため、現今では全く知られていない、それでもこうした表現が用いられている所では常に、それらはこの意義を意味しており、または含んでいるのである、同じくまた主が『ぶどう園』と『いちじくの木』にかかわる譬の中で話されたことにはそのことが意味されており、例えばマタイ伝には―
イエスは途中で一本のいちじくの木を見て、そのもとに来られたが、葉のほかには何をもその上に見られなかった、それでそれに向って言われた、今から後はいつまでもおまえには果がならぬように、と。すると間もなくいちじくの木は枯れてしまった(マタイ21・19)。
このことによりいかような善も、自然的な善さえも地上に見られることができなかったことが意味されているのである。エレミヤ記の『ぶどう』と『いちじくの木』の意義も類似している―
彼らは忌まわしいことを犯したとき恥じたか。いな、彼らはいささかも恥じなかった。彼らは顔を赤らめる仕方も知らなかった、それでわたしはかならず彼らを集めよう、とエホバは言われる、ぶどうの木にはぶどうはなく、いちじくの木にはいちじくはないであろう。その葉は落ちてしまった(エレミヤ8・12,13)。
このことにより、かれらは悪の中にいて、自分の邪悪のために顔を赤らめるどころか、それを誇りとさえしている現代人のように、恥辱感をさえ失ってしまったほどにも堕落した以上、霊的な善も自然的な善も一切の善が死滅してしまったことが意味されている。ホゼア書には―
わたしはイスラエルが荒野のぶどうのようになっているのを見た、わたしはあなたの父祖がいちじくの木の初生の実のようであるのを見た(ホゼア9・10)。
ヨエル書には―
わたしの畠の獣らよ、恐れてはならない、木はその果を結び、いちじくの木とぶどうとはその力を生み出すであろう(ヨエル2・22)。
ここの『ぶどう』は霊的な善を、『いちじくの木』は自然的な善を意味している。
ルカ13・6−9
そして、イエスは次のたとえを話された。「ある人がぶどう園にいちじくの木を植えておき、実を探しに来たが見つからなかった。そこで園丁に言った。『もう三年もの間、このいちじくの木に実を探しに来ているのに、見つけたためしがない。だから切り倒せ。なぜ土地をふさがせておくのか。』園丁は答えた。『御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。そうすれば来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら切り倒してください。』」
天界の秘義4231
自然的なものの善
天界の秘義5113
外的な人の善
黙示録講解109
自然的な人とその内部
2.いちじくの実
黙示録講解109
その自然的な人の善
3.いちじくの葉
黙示録講解109
自然的な人の知識