……太陽が西の彼方に沈み、暮色を帯びた夕闇が上空を覆い始める頃、クライヴ・
セイングレントにとっての一日が始まる。
目が覚めるとすぐ、クライヴは自分の居る場所を確認する。それは長い間に身に染
みついた習性だった。どんなに安全な場所に思えても、ハンターとしての根強い警戒
心がそうさせるのだ。眠る時でさえ剣を手放すことができないのと同じように。
ここがリャノの街の宿屋であることを確認して、クライヴは気だるそうに身を起こ
す。昼の間しめきっていた窓を開け放ち、部屋に外の空気を呼び込んだ。
ゆるやかに、湿り気を帯びた秋の風と埃っぽい匂いが流れ込んできた。下を覗くと、
人気のない石畳の道が色濃く濡れているのがわかった。どうやら眠っている間に雨が
降ったらしかった。
不揃いに額に落ちてくる前髪をうるさそうに掻き上げ、クライヴは小さく溜め息を
ついた。目を上げると、向かいの建物の窓辺に明かりがついて、母親らしい人影に小
さな子供の影がまといつくのが見えた。空には月があり、風に乗って遠くの雑踏も聞
こえてきた。クライヴは黙ってそれらを眺め、音に耳を傾けた。目の前のあまりに平
和で平凡な光景に、何日か前まで天竜が空を舞い、この世界が滅亡の危機に瀕してい
たなど、作り話のようだと思った。
───違う、あれは現実だ。
クライヴは自分に言い聞かせるように胸の内で呟いた。自分は天使とともに戦って、
堕天使に奪われかけていた世界を取り戻した。それは夢でも幻でもない。すべては本
当に起きたことだ。天使は確かに、自分の隣にいてくれたのだ。
だが、思い出そうとすればするほど、記憶は曖昧に遠く朧気になっていくようだった。
その感覚にクライヴは怒りを感じた。そしてすぐにそれは怒りではなく恐怖だとわ
かった。どんな魔物と対峙した時にも感じたことのない恐ろしさを、今のクライヴは
知っていた。
……わかっている。クライヴは窓枠を掴む指先に力を込めた。怖いのは彼女がそば
にいないことだ。たとえ傍らに姿はなくても、常に身近に感じていた彼女の存在を今
は感じることができない。
───かならずあなたの所へ帰ってきます。
戦いが終わり、天界へと戻る時、彼女はそう言った。これが最後ではないと、約束
してくれた。その言葉を、クライヴは信じた。
あれからずっとリャノの街に留まっているのはその為だった。きっと彼女はこの街
へ降りてくるだろうという予感めいたものがあったからだ。
だが、彼女が天界に戻ってからもうどれくらい経つのだろう。何ヶ月も過ぎたよう
に感じる時もあれば、まだ数時間しか経っていないように思えることもあった。時間
の概念が狂ってしまったかのように、日付がまるで正確な意味をなさないのだ。ただ
彼女に会いたいと思う気持ちだけが日増しに強くなっていった。
クライヴは空を見上げた。すでに漆黒の闇がすっぽりと世界を覆い、ところどころ
に薄い霧のような雲が漂っていた。天界はあの空の彼方にあるのだろうとクライヴは
思った。
同時に決して自分がそこへ行き着けないことも理解していた。あそこは神の領域で
あり、生きている人間を受け入れる場所ではない。クライヴには天界で何が起きてい
るのか知る術はなく、こうして彼女を待つことだけが自分と天界の間で唯一許された
行為だった。
彼女の居場所を知りながら、追いかけることのできないもどかしさ。クライヴが本
当に恐れているのはそれに飲み込まれそうな自分の心だった。
窓枠に寄りかかり、クライヴは眼を閉じた。
「………」
唇が動き、無意識のうちに彼女の名を綴っていた。閉じた視界の中に鮮やかに彼女
の姿が浮かんだ。気がつけば意識はここにはなく、あの、彼女と出会った夜へと遡っ
ていた。
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