〜ひまわり〜

「沼野先生の講演に参加して」 西村 育子 さん

 講演を通 し最も印象に残ったことは、沼野先生が人と接する時のその姿勢でした。相手が何をしようとしているのか、本当は何が言いたいのかということを理解しようとする。死と真剣に向き合おうとする人から、逃げるのでも自分の考えを押し付けるのでもなく、共に考えを巡らそうとする。感謝の気持ちを伝え配慮を示し、周囲の人にとって安心できる温かい存在感を持った人であろうとする。そういう姿勢です。
 沼野先生は、チャプレンという仕事をする中で、これらの姿勢の重要性を意識されてきたのだろうと思います。しかし、死を迎えようとしている方と関わる時に限らず、普段人と接する時にも、これらの姿勢を意識することは大変重要なのではないでしょうか。
 死について考え、意識するということは、同時に死に至るまでの人生をどのように生きようとするのかという事を考え、意識することだと思います。人生を締めくくる時に、自分もそして周囲の人にも悔いが残らないように「生きる」という事を考えた場合、大切な人とお互いに満足のいく関係であるために話を聴く、相手と共にある、温かい存在であろうとする姿勢が大切だと感じました。実際に実践していくことはとても難しいことです。しかし、意識するということだけでも随分違うのでは無いかと思います。自分は相手に尊重されている、大切にされていると感じること、また、尊重しよう大切にしようとしている気持ちが相手に伝わったと感じる喜びは、とても大きなものです。身近な人が人生を全うする時にこの喜びを共に味わった一人として、私のことを思い出してもらえる、そして自分が旅立つ時に、そういう相手を思い出すことができる、そんな生き方をしたい、そう思いました。


「死から教えられるもの」 清原 孝明 さん              

 時の流れは早いものである。
 連れ合いが先立ってもう1年半が過ぎようとしている今日この頃である。2000年クリスマスイブの早朝妻は60歳の生涯を閉じた。

 遺影を見るたびに、傍から見れば真に他愛ない葛藤がいまだに私の心の中で渦巻く時がある。
 「死は、避けることが出来ない」ことぐらいは誰でも知ってはいるが、その死が自分自身へ向かって来ることは少なくとも感情の上では認めたくないようである。「人間は身勝手」なものである。
 やがて三周忌を迎えようとしている今、私を襲っていた「悲嘆と欝」は、幾分か遠のきそれは、「故人への懐かしさと感謝」に僅かながら変わって来た様に思う。
 人間には{忘却}と言う仏から授かった「人が人として生きるための知恵と感謝の念」を授かっている事にも、遅まきながら気がつき始め「死」、そこから初めて「祈り」が現れて来たような気もする。
 時の流れと共に「人の生と死」には、「人間の思考や力の及ばない」摂理が働いていることに少しではあるが気づかされ始めた。
 同時に、「悲嘆や絶望」は決して無駄なものではない、悲嘆と絶望の中からこそ見ることが出来る人間の不思議さもあると言うことにも気が付き始めた。
 夫婦と言う人間関係もその例外ではないようである。ある日、男女の一対が出現しその多くは、濃密な人間関係を築きながら生涯を共にするようになる。
 「赤の他人で一対となった夫婦が血を分けた親子ほど、いやそれ以上の濃密な人の関係」を築いているのは真に不思議であり、私には「与えられた出会い」であったような気がしてならない。
 また、「連れ合い」の長い療養生活の中では、担当の先生始め多くの友人に色々な形で助けられたことは忘れることの出来ない出来事であった。「人間の生と死」は、少なくとも一人では何も出来ないことは実感として確かである。
 「生は与えられたものである」と言う事に気づかされる時、改めて「祈りと感謝」から全てが始まり、終わり、それ無くしては、全てが空虚になるような気がしてならない。やはり「人間(生き物全て)は生かされている」ということであろう。このように考える時、「生かされていることへの感謝、驕りへの反省と謙虚さ」は、「祈り」から全てが始まり、人生(命)を実り豊かなものにするのではないだろうか。
 人の死、とりわけ「身近な人の死」は、残された者に、人生の「深い悲しみと生きる知恵」を与え、そこから全ての人間に共通 する価値観を見い出すことが出来るような気がする。