〜講演会から〜


「愛する人を亡くした人の悲しみに寄りそう」      
 「兵庫・生と死を考える会」会長 高木 慶子 さん

2001年2月24日(土)コンパルホール

 私共は、多かれ少なかれ、自分の死を迎えるその前に、自分の家族・友人・愛する方を亡くす体験をします。
 私は 13年程前から、死別 体験者の分かち合いの会を持っていましたが、6年前に、阪神大震災を、その震源地で経験しました。それから、子供を亡くされた方の参加が急に増えました。6年たっても「先生、涙は枯れません」と言われます。
 「愛する人を亡くした人の悲しみに寄りそう」ということは、死に重点を置くのではなく、生きているもの同志、愛することが大事、という事です。450年程前、初めてキリスト教の宣教師が来日した時、「愛」という言葉を使わずに、「お大切」と訳したそうです。それは利己的な愛ではなく、相手を大事にするという意味です。悲しんでいる人に、私達ができることは、悲しいという気持ちを十分に受け止めることです。
 
そのためには
○人の心の痛みは見えません。見えないものを見る目を育てる必要があります。
○人間は必ず、長所も短所もあり、その両方が、その方なのだと、丸ごと受け入れること。
○相手が発信している事を、五感で感じ取れること(目、耳、口、鼻、接触)
 これらの事が重要です。
 悲嘆とは、喪失体験から生じ、それにより対人関係や、生き方に強い影響を与える事が明らかになっています。それまでの人間関係が、非常に悪くなります。どうしても、自分の苦しみを相手が理解してくれないと思い、自分で心の整理が付かない。どうしようも無くて、心身症のようになる人もいます。しかし、すべての人がそういう悲嘆を持つとは限りません。その人の性格、相手との関係による個人的なものなのです。
 私の経験からすると、今までの悲嘆についての考え方で問題なのは、「立直る」という言葉です。これは禁句です。10年たっても立直るということはありません。それよりも、「少し将来が見えて来たかな」、「心が少し元気になったかな」という言葉が良いと思います。
 死別体験者の集まりにも来れない人のため、また私は、何十人という方々の最後の看取りのお手伝いをして来ましたが、その方達は体力がありませんので、魂のケアには童話がとても役立ちます。童話は宗教の枠を超えていますし、希望を与えてくれます。私がいつも準備している本は、宮澤賢治の「銀河鉄道の夜」と、アンデルセンの童話集です。
 心と魂のケアの体験を本にして、2月に出版しました。私達の先輩達が、どの様な最期を迎えたかを知ることによって、死がすべてではない、死をも越えて持ち続けて行く希望もあるのだ、ということを教えられます。私の経験では 99%の方が「死んだらどうなるの」という質問を残されました。どんな立派な男性も女性も。また、遺された家族の多くが、「あの人は今どこで、どうしてるんですか」と聞かれます。私はキリスト教徒ですが、各々の宗教に、その死生観があると思いますので、元気な時から、自分が納得する答を探しておく事が、大事だと思います。


「死と向き合う瞬間(とき)」 高木 慶子 著   学習研究社