復元された東京駅

東京駅 東京駅は開業当初の姿に復元された。そして今年 (2014年)、1914年 (大正3年)12月20日に開業してからちょうど100年になった。

なお、東京駅を設計したのは佐賀県唐津市出身の建築家 辰野金吾(1854〜1919)である。

写真は、丸の内南口の斜め前の KITTE ビル6階、屋上庭園から撮影したもの。
丸の内南口 丸の内南口。 上には大きなドームがある。
皇室専用の出入口 これが、丸の内側の中央にある皇室専用の出入口である。
駅名が彫られた石 皇室専用の出入口の斜め前にある標識。この出入口の前は、東京の人気観光スポットの一つである。
「横綱の土俵入りの手」の飾り(1) 皇室専用出入口の上の屋根には、横綱の土俵入りの際の手をかたどった飾りが取付けられており、地上からは手の先の部分だけが見える。
「横綱の土俵入りの手」の飾り(2) 望遠レンズを使って、KITTE ビルから撮った皇室専用出入口の上の屋根。最上部の飾りの左下に、土俵入りの手の飾りが見える。
「横綱の土俵入りの手」の飾り(3) その手の飾り。
大きなドームの内側(1) 丸の内北口と南口それぞれの真上には、大きなドームがあり、その内側は八角形になっていて、8つの角のそれぞれに稲穂をつかんだ鷲の像が取付けられている。

稲穂は豊かさの象徴として取付けられたのではないか、という。
大きなドームの内側(2) 鷲の像が取付けられている部分の1段下には、干支のレリーフが、八角形のそれぞれの角に取付けられている。(緑色っぽい丸い部分)
丑(うし) 写真の干支は丑 (うし)。

丑の左側の辺は北の方向に一致させているので、北を表す子(ね)のレリーフは、取付けられないため省かれている。 同様に、東・南・西にも八角形の辺がくるので、卯(う)・午(うま)・酉(とり)のレリーフもない。

なお、ここにない4つの干支は、作りは大きく異なるが、辰野金吾のふるさと 佐賀県にある。(それらの写真は本ページの最後尾に掲載)
寅(とら) 丑(うし)の右隣の寅(とら)。
辰(たつ) 次は、卯(う)がなくて辰(たつ)。
巳(み) その次は巳(み)。
未(ひつじ) 次は、午(うま)がなくて未(ひつじ)。
申(さる) 次は申(さる)。
戌(いぬ) その次は、酉(とり)がなくて戌(いぬ)。
亥(い) 次は最後の亥(い)。
秀吉の兜のレリーフ 干支のレリーフが取付けられている八角形の部分のそれぞれの辺の中央には、豊臣秀吉の兜の飾りがある。

秀吉の兜は、列車の行き先の代表として大阪を表しているのではないか、という。
0(ゼロ)キロ・ポスト これが、鉄道の起点を示すゼロキロ・ポストである。1番線 (中央線) の線路の向こう側にある。

鉄道の起点となっている東京駅は、要するに中央駅である。しかし、到着した多くの電車は隣の駅へと出ていく特異な中央駅である、という。

確かにロンドンの中央駅も、マドリードの中央駅も、ニューヨークの中央駅も、全ての到着した列車はそこで行き止まりである。
楼門の子(ね) 佐賀県の武雄温泉には一つの楼門があり、天井の4隅には通気口の役割を兼ねた子(ね)・卯(う)・午(うま)・酉(とり)の像がある。この楼門も辰野の設計になるものであり、東京駅開業の翌年に完成した。

写真の干支は北を表す子 (ね)。

楼門は全部で3つ計画されたが、建設されたのは 「東南楼門」 だけである。残りの 「東楼門」 と 「東北楼門」 は、資金難で作られなかった。(楼門が計画どおり更に2つ作られていれば、武雄温泉には12支が揃っていただろう。)
楼門の卯(う) 天井の東の隅にある卯(う)。
楼門の午(うま) 南の隅にある午(うま)。
楼門の酉(とり) 西の隅にある酉(とり)。

なお、辰野金吾の生誕地 佐賀県唐津市には、辰野ゆかりの旧唐津銀行がある。 赤レンガの重厚な感じは東京駅にも通じているが、そこには干支の像はない。 この建物は、2011年に開業当時の姿に復元され、文化財として一般公開されている。