燦流楽団の本公演は観客が少ない。本公演は回を重ねるごとに
客の数が減っているようだ。私が見たときも観客は10数人だっ
た。この数年の本公演はほぼ見ているが、観客である私も客か減
っていると実感できる。観客が滅っている理由は一般的な意味で
の演劇が分解・解体されているからだろうと思う。「<5」
(under five または五歳末満と読むらしい) では、公演の2日
間の1日目が上演の構築、2日目が上演の解体という仕掛けだっ
たようだ。私が見たのは2日目の解体バージョンなので、上演の
途中からスタッフが登場し、演技と平行して照明器具を片づけ始
めた。
台本は5歳児の目から見えるであろう世界を記述したもので、
すべてひらがなで書かれている。台詞在るいは文章であるはずな
のにひらがなという文字にされているので、意味内容を即座に理
解することは困難だろうと思われる。通常であれば、俳優は台詞
を憶えているはずだが、俳優はバラバラにされた台本を無作為に
取り出して朗読するという演出だったので、どうも台詞も憶えて
いない様子でもある。「<5」では、台本のレベルでも、上演の
レペルでも演劇の要素の分解・解体か意図されているようだ。
どうしてこのような演劇がなされるのか。また、なされる必要
があるのか。「わけわかんない」ということにはなるだろうが、
演劇の上演や演劇の各要素を自明のものと考えるのか、あるいは
その自明性を疑い分解・解体して検討してみるのかで判断が分か
れてくるところでもあるだろう。演劇の自明性を疑う方向で、演
技や戯曲の成り立ち・来歴について考えを巡らしはじめると、2
0世紀においては、一旦は演劇の解体、演技の解体、戯曲の解体
に突き当たるのだろうと思う。それは20世紀の先進諸国に生き
る人々が自分自身の生に対する意味を失っているという存在様式
に対応しているのではないか。そこでは生きていることははじめ
から無意味であり、存在自体が解体しているのであり、そのこと
と演劇が解体していることは正確に対応しているのではないか。
つまり、人は演技などできるほと統一した人格を持っていないの
ではないか、日常の行為もすへては演技ではないか、といった根
元的な問題に出会ってしまうということのように思われる。
こうした根元的な問題との出会いが不幸なのか幸せなのかはわ
からなしいが、演劇や演技の自明性を疑えば出会ってしまうであ
ろうことは想像できるように思われる。観客にとって共有できな
いこうした問題に出会ってしまった上演が、観客にとつて「面白
い」はずがない。だから観客は来ない。その通りである。だが、
劇団側もそれは当然のこととして承知している。にもかかわらず
上演は行われている。「<5」の観客には演劇の「コアなファン」
や「ハードユーザー」さえいないように思う。言い換えれば、市
場経済の中では商品としての価値は無いのだと思う。だが、諸経
費もかかり入場料もとる演劇が市場経済と無縁だということもあ
り得ない。ここから正当な結論など導き出せるはずはないが、演
劇の自明性を疑うこうした上演や考え方を敬して遠ざけたり排除
してはならないということはだけは言っていいだろうと思われる。
(Voice of NANA2 第37号掲載)
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