［1］ 沓中脱出
蜀・炎興1年、魏・景元4年(263年)8月、魏は蜀征討の詔勅を下し、魏大将軍・司馬昭の総指揮のもと、征西将軍・鄧艾、鎮西将軍・鐘会、雍州刺史・諸葛緒らに命じて蜀への侵攻を開始した。
司馬昭はまず、昨年の北伐以来そのまま沓中に駐屯しつづける、今回の侵攻で最大の脅威となるであろう、蜀大将軍・姜維を鄧艾らに攻撃させ国外に釘付けにすると共に、諸葛緒に命じて姜維の退路を立つ作戦に出た。
そして姜維を留めている間に鐘会の主力軍が漢中を抜け、一気に蜀都・成都まで取ってしまおうと考えての作戦だった。
魏軍侵攻の報は、沓中の姜維の元にもすぐに伝わった。
｢……やはり……。だから増援を要請していたというのに……｣
魏軍進軍の第一報を受けた姜維には、落胆の色が濃かった。
丞相・諸葛亮亡き後蜀の政治を支えた蒋ｴﾝ、董允、費イといった人物の死後、蜀の朝政は腐敗しきっている。
その原因は、やはり皇帝・劉禅お気に入りの宦官・黄皓だ。
皇帝の信任をいいことに好き放題をし、魏と通じて北伐中の姜維を呼び戻させたり、巫女の託宣を信じ、前線に兵を送らせなかったりと、命を削って国の為に尽くす自分たちを何だと思っているのか。
それに、黄皓に政治をさせ自らは酒色にふけり続ける皇帝・劉禅にも、非がある。
幾度となく黄皓の罷免をと上奏したにも関わらず、返ってくる答えは｢姜将軍の気にする事ではない｣だ。
影で黄皓に何をされているかも知らず、ただ安穏とした暮らしを続ける劉禅には、前線の危機感という物が伝わっていない。
それが姜維には歯がゆかった。
｢漢中へと退却する!! 全軍、撤退の準備を整えるのだ!!｣
迷わず姜維は指示を出した。
昨年の北伐のまま沓中に駐屯したのは、魏への牽制という意味合いよりも、出来るだけ蜀の中央から離れたいという気持ちからだった。
それにもとより、現状の兵力では魏に抗する術がないという事は、姜維自身がよくわかっていた。その手際は見事で、鄧艾・諸葛緒の包囲が完成する前に沓中を脱出できるかに思えた。
しかし……｢全軍、速やかに撤退せよ!! 漢中まで戻るのだ!!｣
｢姜将軍、敵です!! このままでは、我が軍の後背を突かれてしまいます!!｣
｢何だと!! ……よし、私が殿軍を務める。張翼、廖化の二人は、先に漢中に向かうのだ｣
｢はっ!!｣漢中に撤退する姜維の軍を襲ったのは、楊欣と牽弘の二名。
共に鄧艾の命を受け、沓中から退却する姜維軍に追撃をかけた。
姜維は先に副将の張翼、廖化の二名に兵を預け先行させ、漢中を目指させたために応戦にあたる事のできる兵が少なく、また楊欣と牽弘は攻めては退くといった戦法で消耗を図り、さらには退路の陣屋を焼くなどしたため、姜維が追撃を振り切ったときには激しく消耗し多くの兵を失っていた。しかし帰国を至上命題とする姜維は何とか兵をまとめなおし、再び漢中を目指して駆けた。
｢申し上げます!! この先の橋頭に、敵軍が展開中。我が軍の帰路をふさいでおります!!｣
漢中への退却行を続ける姜維に、斥候からまた新たな情報が入った。
｢……そうか、遅かったか……。いや、待て。その軍の指揮は誰が取っているのだ??｣
帰路を塞がれていると聞いて一旦は消沈した姜維だったが、すぐに思い直し、敵指揮官の名を訊いた。
｢雍州刺史・諸葛緒であります｣
｢よし、諸葛緒の背後を突く!! 孔函谷を通り北道を目指す!!｣敵将が諸葛緒である事を知った姜維は、橋頭に駐屯する軍の裏手に回るべく転進した。
一方の諸葛緒の方も、姜維が転進して自軍の背後を突こうとする動きを察知した。
そして、それに対応すべく三十里ほど陣を後退させ、姜維を迎え討とうとした。｢姜維さま。諸葛緒は陣を後退させ、我が軍を迎え討とうとしている模様でございます｣
諸葛緒の軍を探らせていた斥候が、諸葛緒の動きを逐一報告してくる。
諸葛緒が陣を後退させたと聞いた姜維は、全軍に命令した。｢全軍、来た道を引き返すのだ!! 橋頭を抜けるぞ!!｣
すぐさま引き返し、姜維軍は驚くべき速さでそれまで諸葛緒が駐屯していた橋頭を抜けた。
姜維が引き返したと聞いて慌てて戻った諸葛緒であったが、橋頭に着いた時にはすでに姜維軍は遥か遠方まで駆けて行った後だった。姜維はその変幻自在の指揮で、魏軍がしかけた周到な包囲網を脱したのだった。