夷陵・炎上
[1] 発端
 

事の始まりは、荊州を巡る劉・孫両家のすれ違いだった。
謀臣・諸葛亮の進言を入れた劉備は、先の荊州牧・劉表の長子・劉gを盾に荊州に居座りつづけ、劉gの死後は他の土地を得るまでの借用とし、益州・蜀の地を得た後は荊州に置いた関羽の代わりの土地――漢中を取るまで、と先延ばしにし続け、219年までに孫家は何とか荊州の東半分を得たのみだった。
210年に死んだ周瑜の後を継ぎ、対外行動の全権を任された魯粛が217年に死ぬと、その後を受け継いだ呂蒙はそれまでの親劉備政策を転換。
力づくで荊州を奪い取る方策を練り始めた。

219年秋、荊州を守る蜀の前将軍・関羽が、曹操の南下の拠点である樊城の攻撃に入った。
呂蒙は関羽が北に兵を裂いた今こそ荊州奪還の好機と考えたが、関羽は呂蒙を警戒し、未だ多くの兵を荊州に置いていた。
そこで呂蒙は一計を講じた。
全くの無名の帳下右部督・陸遜を後任に推挙し、自分は持病の肺結核の療養の為に建業に退くというものだ。
以前から陸遜の才智を見抜いていた呂蒙は、自らの更迭と陸遜の推挙にあたって孫権に、

「伯言は自分を超える才を持っています。いま彼に無いのは、地位と名声だけです」

と、陸遜の能力について太鼓判を押し、孫権はその申し出を受け入れた。
呂蒙の進言を受けて孫権は、陸遜を偏将軍・右部督に任じ、呂蒙と入れ替わる形で陸遜は任地の陸口へと入った。
陸口につくと陸遜は早速、樊城を攻める関羽へと手紙を送った。

――私は文弱の徒で万事に疎く、このたび身に余る大任を仰せつかりました。将軍の隣でその御威光に接する事は大きな喜びです。何分にも若輩者ですので、よろしく御指導の上お導きいただきたく思います――

これを読んだ関羽は、呂蒙の代わりに荊州に入った陸遜の腰の低さに安心し、後方の守備に回していた兵を樊城包囲網へと移動させた。
関羽は見事に陸遜の『謙下の計』にかかったのである。

荊州攻略の軍の指揮は呂蒙が取り、防備の手薄となった荊州を瞬く間に制圧。
曹操の援軍によって樊城で敗れた関羽は戻る場所がなくなり、麦城に立て篭もり必死の抗戦を続けたが、ついには捕らえられ、長男で養子の関平や、腹臣の周倉らと共に首を討たれて死んだ。
こうして荊州全土は孫家の物となった。

しかし、それを劉備が黙っていなかった。
曹操の子・曹丕が漢王朝から禅譲を受け魏の皇帝につくと、漢王朝継承を唱え成都にて帝位についた劉備は、義兄弟であった関羽を殺された事に激怒し、孫権討伐を決心した。
諸葛亮や趙雲の説得で一度は思いとどまった劉備だったが、義兄弟の末弟・張飛が強く仇討ちを望んだため、劉備の怒りに再び火がつき、群臣の諌めも聞かずに出兵の準備をはじめた。

221年。
呉討伐の東征軍の準備の最中、張飛が殺された。
犯人は張飛配下の将、范彊と張達。
呉討伐にあたって張飛が二人に無理な命令を下し、それに失敗した二人に激しく罰を与えた為、それを恨みに思った二人は張飛を殺害。
その首級を持って二人は、呉の孫権のもとに出奔した。
その知らせを受けた劉備は深く悲しみ、そして呉討伐の決意を更に固めたのだった。

221年7月。
ついに劉備は呉討伐を開始した。
討伐軍は白帝城に本営を置くと、長江に沿って東進を開始した。
諸葛亮や趙雲といった、呉討伐に反対した者達は成都にとどめ置かれた。
このとき諸葛亮は、弁の立つ法正が昨年死去していた事を思い出し、
「ああ、法正が生きていたならば止められたものを……」
と深く嘆息したという。

かくして、復讐に燃える劉備によって呉は赤壁以来の危機に陥ったのであった。


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