建安20年(215年)、益州牧劉備との友好関係を回復し、東荊州を獲得した東呉の主・孫権は、十万人の大軍をもって合肥へ攻撃を開始した。
孫権軍は一日で皖城を落とし、勢いにのって合肥に押し寄せてくる。
対する曹操軍の合肥城の守将は、張遼、楽進、李典の三名。
城を守る兵の数はわずか七千だった。
「先ほど、孫権がこの合肥へ向け新軍中との報が入った。その数およそ十万。我らとしてはこの合肥を失うわけにはいかぬ。各々、なにか意見はあるか??」
合肥城防衛の総大将・張遼は孫権進軍の報を受け軍議を開いた。
集まったのは楽進と李典の二名。
もとよりこの合肥城の守将は三名しかいない。「いま我らの兵は七千しかおりませぬ。ここはこの城に篭り、援軍の来るのを待ちましょう。援軍が来たと知れば、孫権は兵を退くでしょう」
まず口を開いたのは李典だ。
曹操挙兵のときから付き従う最古参の一人で、常に冷静で卓越した判断力の持ち主だ。
しかし、どういうわけか張遼とは日頃から馬が合わない。
だが、孫権来襲の報を受け召集に応じたとき彼は、
「非常時とあっては日頃の関係は別だ。喜んで指示に従おう」
と言い、張遼の陣に加わった。
公私混同のない、すばらしい人物だ、と張遼は深く感心していた。「ふむ、曼成の言う事はもっともだ。文謙、そなたは何かあるか??」
「は、十万の兵の前では、この城では不安があります。いっその事この城を引き払い、援軍と合流したのちに奪い返せば良いかと思います」
「一度この城をくれてやると言うのか……。しかし、そう易々と奪い返せるとは思えぬがな……」次に発言をした楽進も、李典と同じく最古参の一人だ。
体はそう大きくないが度胸は人一倍あり、常に先陣を切って敵に突撃をする勇の持ち主だ。
しかし今の状況は、その彼でさえ消極的になるほどに、この兵力差は埋め難いものであった。「文遠どのは何かよい策をお持ちか??」
二人の意見を吟味している張遼に、李典が訊いた。
「そうだな、ここに漢中へ遠征中の殿からの書状がある。殿は非常時に開けと仰せられたが、いまこそまさにその時だ」
そういうと張遼は懐から取り出した一通の書状を開き、一通り読んだ後それを見守る二人に渡した。
「殿は敵の包囲が完成する前に叩け、と仰せられていますが、七千の兵ではそれは厳しくはありませんか??」
読み終えた楽進が言う。
李典もそれに頷く。「確かに、正面からぶつかっては勝機も薄いだろう。だが、」
「なるほど。出ては入るを繰り返し、敵の疲弊を待つのですか。ですがしかし、やはり七千という数は……」李典は兵があまりに少ないゆえ、慎重になっているようだ。
時折臆病に思えるほどの慎重さが李典の長所であり、そして同時に短所でもあった。
将としては、万全を期して負けぬ戦いをすることは重要であるが、慎重過ぎて臆病に見えては兵の士気に関わる。
臆病な将に兵はついては来ないからだ。「これは殿の命令だ。これに背く事は殿に背く事と同じである。まずそれがしが手本を見せよう。貴公らもそれを見れば不安など抱くこともないだろう」
張遼はそう言うと、軍議を終了した。
四日後、孫権軍十万が長江の渡河を開始し、合肥城からも見えるようになった。
城の櫓でそれを見た張遼は早速奇襲部隊を編成、打って出る準備にかかった。「皆の者聞け!! 今、孫権軍が迫ってきている!! まさに我ら魏の興廃はこの一戦にかかっている!! 諸君らは何をためらうのか!!」
出城前、十万の兵を前にして動揺している兵卒に向け、張遼は大きく叫んだ。
この張遼の声で、兵卒のそれまで抱いていた恐怖心が一気に拭き飛んだ。
張遼の奇襲は成功した。
打って出ては戻る魏軍に、孫権軍の将兵は疲弊し、やっと包囲が完成した時には兵の士気はかなり落ちていた。
そして上がらぬ士気のまま十余日間合肥を攻撃しつづけたが、いたずらに兵を失うばかりで成果が得られず、ついに孫権は撤退を決意した。「文遠どの、孫権は撤退を始めるようです。追撃をかけましょうか??」
「よし、早速準備にかかろう」すでに援軍として来た曹休をはじめとする軍も、城に入っていた。
追撃のために城を空けても、後ろを取られる心配は全くなかった。「全軍、孫権を目指せ!! 孫権はまだ、船には乗っておらぬ!!」
張遼、楽進の二名を先鋒とする追撃軍は、まさに船に乗りこもうとする孫権を襲った。
すでに兵の大半は船で長江の上。
残ったのは孫権本人とわずかな手勢、そして甘寧、凌統の二名とその兵たちだけだった。「殿、ここは我らが防ぎます。殿はお早く船に乗りこんでください」
船の渡し場の前に立ち止まる孫権に、凌統が声をかけた。
そうしているうちに、追撃軍の攻撃は始まっていた。「いたぞ!! あそこに孫権がいるぞ!! 皆の者、孫権を捕らえた者に功一等を与える!! かかれ!!」
「そうはさせぬ!! 殿には指一本たりとも触れさせるものか!!」
「む、そなたはこの間の小僧か。その傷も癒えぬままそれがしと戦おうとはいい度胸だ。ゆくぞ!!」張遼の前に立ちはだかったのは凌統。
この二人は、この間戦ったばかりだった。
張遼は槍をしごき凌統に向かう。
凌統も槍で受け、二人はしばらく打ち合った。
そうしている内に孫権は船に乗り込み、以前受けた矢傷が痛む凌統は次第に支えきれなくなっていった。「殿は無事逃げられたようだ。十分時間を稼いだな……。この勝負、この次に取っておく。さらば!!」
「……ちっ、孫権もあの小僧も逃げたか。まあいい、この戦、我らの勝ちだ!!」孫権の逃げる時間を稼いだ凌統は、素早く馬首を返し船に逃げこんでいった。
まんまと逃げられた張遼だったが、勝ったことには変わりない。
槍を掲げて勝ち鬨をあげた。
「うぬぬ……まさかあの程度の兵にやられるとは。合肥の守将、確か張遼といったな」
「はい。見事にしてやられましたな」長江を渡り建業に戻った孫権は、呂蒙と二人で盃を交わしていた。
今回の合肥攻撃の戦果は全くなし。
援軍をもって再び攻めたが、やはり戦果はなく、あろう事か和睦の条件として曹操に朝貢する事となってしまった。
結局、完全に無駄な戦いだった。「張遼の生きているうちは、合肥はなかなか落とせんな」
「全くそうですな」敗戦の悔しさを忘れるよう、孫権は呂蒙と二人、朝まで飲み交わした。
……そしてこの一戦以来長江の南側、呉の地で子供を泣き止ませるのに流行った言葉がある。
「張遼が来るぞ」
呉の子供の中で、そう言われて泣き止まなかった子供はいなかったという……。
張来々:終
はい、今回は魏の五将軍の筆頭、張遼の登場です。
ちなみに、魏の五将軍とは、張遼、徐晃、張コウ、于禁、楽進の五名。
蜀の五虎大将と比べると、ちょっと華がないですねぇ。
特に于禁と楽進は、あまり名前が売れていない。
于禁はともかく、楽進は好きなんだけどなぁ……。今回の話は、孫権の2回目の合肥攻めの時の話です。
ちょうど曹操は漢中の張魯を攻めていて、東側は手薄だったんですねぇ。
その点では孫権は時の運を得てはいたようですが、張遼と当ったのは運がなかった、と言うしかありません。ちなみに、この話は微妙に史実とは違ったりします。
ですが、あまり気にしない方がいいでしょう。
深くつっこむと、胃に穴があくかもしれませんからね(笑)ちなみに、自分は李典が好きだったりします。
李典の紹介文で非常に誉めちぎっていたりするのはその為です。
非常に地味なんだけど、そこがいいんですよねー。
いつか李典の話も書きたいけど、地味ゆえに資料が少ない……。
哀しいかな、哀しいかな……(哀)