2004年12月のみことば


クリスマスのよろこび

そこで、ヘロデは占星術の学者たちをひそかに呼び寄せ、星の現れた時期を確かめた。そして、「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」と言ってベツレヘムへ送り出した。彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。学者たちはその星を見て喜びにあふれた。家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬(もつやく)を贈り物として捧げた。ところが、「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。
                 (マタイによる福音書2章7節〜12節)


 
彼らが王の言葉を聞いて出かけると,東方で見た星が先立って進み,ついに幼子のいる場所の上に止まった。学者たちはその星を見て喜びにあふれた。
 「その星」とは,いったいどんな星だったのでしょうか。
 聖書が告げる「不思議な星」について,その正体を科学の目で確かめてみようとする試みがありました。「あれは,その頃地球に近づいていた巨大彗星だったのではないか」との主張がなされたり,あるいは「いや,年老いた星が爆発したときの大きな光に違いない」との主張がなされたり…その当時の記録などをもとにした研究がこれまで熱心に繰り広げられてきました。
 占星術の学者たちが見て「喜びにあふれた」といわれる不思議な星…その星は確かに「不思議な動き」をしました。ユダヤの国から見て遙かに遠い東の国,そこからユダヤに至るまでの「学者たちの旅路」をその星は絶えず導いたのです。それは「不思議に動く星」でした。
 旅路を歩む学者たちを絶えず導いた不思議な星…しかしその「不思議さ」の理由は「その動き」だけにあったのではありません。その星の不思議さ。それはむしろその星の「輝き」にありました。というのも,その星の輝きを受け止めることができたのは,占星術の学者たちだけだったからです。その星の輝きに促されて旅へと赴いたのも,その星の導きによって幼子のいるところにまでたどり着くことができたのも「数人の学者たち」だけだった…そこにこそその星の不思議さがあるのです。
 占星術の学者たち。彼らは皆,今日でいう「天文学者」です。ですから彼らの目は,いつも夜空を見つめていました。つまり,学者たちはいつも暗闇を見つめながら,そこに輝く光を探し求めていたのです。
 もしも,彼らが「その星」だけを探し求めていたのなら,その星が現れるまで彼らはただ「暗闇だけ」を見続けていたということになるのです。もちろん,おびただしい数の「他の星」が闇の中で輝いていたに違いありません。それらもまた,きっと美しかったに違いない…しかし,その輝きや美しさは,彼らにとってはまったく意味がありませんでした。それら「他の星の輝き」を見ても,彼らの心に「喜びがあふれる」ということはなかったのです。
 そんな学者たちにこそ「その星の輝き」は見えたのです。東の国の人々も,またユダヤの国の人々も,その星の輝きを見ることはできませんでした。たとえ,その目がその光を見ていたのだとしても,その心は光の意味を理解することができなかったのです。ほとんどの人々にとって,その光は「あふれる喜び」と結びつきませんでした。しかし,その星を見て学者たちは「喜びにあふれた」のです。

 サン・テグジュペリの童話「星の王子さま」をご存じでしょうか。その童話の中に,こんな一場面が描かれています。

  キツネが言いました。「さっきの秘密をいおうかね。なに,なんでも ないことだよ。心で見なくちゃ,ものごとはよく見えないってことさ。 かんじんなことは,目に見えないんだよ。」
  「かんじんなことは,目には見えない」と,王子さまは忘れないようにくりかえしました。

 「心で見なくちゃ,ものごとはよく見えない」「かんじんなことは,目に見えない」。心で見る,つまりこのわたしが一番大切にしているところで見ないと,かんじんなものは見えないというのです。
 救い主の誕生を知らせた不思議な星。その星は,多くの人々に輝いたのかも知れません。多くの人がその光を実は見ていたのかも知れません。しかし東の国の博士たちだけが,その星を「心で見た」のです。その星の光に込められた「かんじんなもの」,それが見えたのは博士たちだけだったのです。そしてその星を心で見たこの学者たちだけが,喜びにあふれて最初のクリスマスを祝ったのでした。「学者たちはその星を見て喜びにあふれた」(マタイ 2:10)。

 時を経ること2000年。わたしたちも今晩,一つのところに集められてクリスマスを祝っています。どうしてでしょう。なぜだろう。目を開けたまま考えても,なにも見えません。むしろ目を閉じて,心で見てみませんか。このわたしの「一番大切なところ」で見つめてみませんか。そうすれば,わたしたちにも見えるはずです。占星術の学者たちが見たのと同じ星が,わたしたちにも見えるようになるのです。なぜなら,目には見えない神様が,それを見させて下さるからです。目には見えない「もっともかんじんなもの」を神様が人間に見させて下さった…それがクリスマスの出来事であり,またクリスマスの喜びなのです。
 見えないはずのものが見えたときこそ,人は喜びにあふれるのです。見えた!そのときにこそ人の心は「もっともかんじんなところ」で喜ぶのです。ちょうど学者たちがそうだったように。キリスト教会はそんな喜びを大切にしていきたいと願っています。それが神様の願い(御心)だからです。
 ひとりでも多くの方が,神様がイエス・キリストをとおして見させて下さった出来事を見ることができますように,そして今晩,ここに集まって下さったお一人お一人が,その出来事をみて喜びに満たされますように,喜びを与えて下さる神様に祈りをお捧げしたいと思います。


(2002年12月24日 東松山教会クリスマス燭火礼拝説教)

 
東松山教会  金岡秀樹牧師
(かねおか ひでき)




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