2001年10月のみことば

 

「生命(いのち)を愛するとは」

 

最近、新聞に「出生前診断」について取り上げられて、連載されており、その新聞記事から「いのち」について考えさせられたことを話したいと思います。

 「出生前診断」とは、おなかの中にいる赤ちゃんが障害児であるかどうか、前もってわかるように検査することです。厚生省の報告によると1993年には全国で1113件の出生前診断が行なわれ、現在では毎年この検査を受ける人が増えているそうです。この検査の問題点はこの検査で陽性であることが判明したら、障害児の誕生ということになるので出産しないということが起こるということです。

1996年8月までにこの検査の結果、生まれてくる赤ちゃんが障害児であることが確定された親の全員が中絶をしているのです。

 このことから、障害児は生きるに値しないのか、障害を持った者は生きてはいけないのか、という問題になるのです。

 聖学院大学人文学部人間福祉学科・学科長熊沢義宣先生の「聖書の人間理解と今日の教育」という本には、聖書的な人間理解について人間は神のかたちとして、神の光を照り返すものであり、他の人との比較においてではなく、能力においてでもなく、存在において絶対的な価値を持っている、と書かれています。人間の価値は究極的に人間を創造した神の主権に基づいており、人間の尊厳は神が創造されたというところにあるのです。

 ところが、私たち人間の判断で、人間の一生にかかる費用は一億円以上かかり、障害を持った人は、社会に貢献することもなく、労働力にもならず生産にも携わることができず、むしろ、まわりの人の迷惑になるので、生きるに値しないという価値基準で生まれる前にその存在を抹殺してしまおうという考え方が私たちの中にあるのです。能力に優れている人を残し、病気を持ち、障害をもっている人、貢献しない人を排除するという考え方が現にある。人種的、遺伝的に欠陥のある人々を排除し、健康で丈夫な人々を保存し、大切にする、という思想は、能力でなく、比較によってでもなく、存在そのものに絶対的な価値がある、と教えている聖書の考えに反するのです。そして、人間が自分の価値基準で、「存在してよい人」と「生きるに値しない人」とを判別し、生きるに値しない人は存在しなくてもよい、と考えること自体、誤っていることです。

 人間には生きるに値しない人々がおり、その人たちは殺してもよいのだ、という思想を現実に実行して、多くの人々を虐殺したのは、第二次世界大戦でのナチス・ヒットラーです。精神病患者、老人、ユダヤ人、ジプシー、病人、障害者などが強制的安楽死、ガスによる抹殺死、死の行進、などによって虐殺されたのです。これらの虐殺によってユダヤ人だけでも600万以上の人々が犠牲になり、殺されたのです。

 私たちはこのような恐ろしい考えは持っていないだろう、と思っています。しかし、人を殺すことはしていなくても、心の中でいつも殺人をしているのです。「この人がいなかったらどんなにいいだろう」と思わないことはないのです。「この人が死んでくれたらどんなに快適になるか」「この人が出席して発言するから会議の時間が長くなる、休んでくれるといいのに」。そのように心の中で私たちは思っているのです。これは心の中の殺人ではないでしょうか。

 テレビ、新聞などで報道されている事件に保険金殺人事件があります。お金を得るために実の母親にも保険金を掛けて死亡後、多額の保険金を受け取っており、多くの人に保険金を掛けていることが判明しつつあります。お金のために人が死ぬことをいつも願い、人が死ぬ日を心から待ち望んでいる、というのは異常なことではないでしょうか。

キリスト教は神様が私たちの死ぬことは望まず、私たちが生きることをひたすら望みつつ、神の生き写しであるイエス・キリストを罪の犠牲として死なせるところに中心があるのです。私たちが神に対して生きるように、神は私たちに生きることを望んでいるのです

 健康な社会とは、能力が優れている人が生き残り、弱い人々が存在しなくなる社会ではなくて、弱い、障害を持ち、生きることに困難な人をみんなが支え、その重荷を担うことができる社会です。それぞれ、神様からいただいた能力、性格、個性は異なりますが、互いにその存在が神様から与えられた存在であることを受け止めたい、と思います。

 

                   東大宮教会 山ノ下恭二牧師

                   (やまのした きょうじ)

 

 

 

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