2002年5月のみことば

 

開いてください、主よ

 

それからまた、イエスはティルスの地方を去り、シドンを経てデカポリス地方を通り抜け、ガリラヤ湖へやって来られた。人々は耳が聞こえず舌が回らない人を連れて来て、その上に手を置いてくださるようにと願った。そこで、イエスはこの人だけを群衆の中から連れ出し、指をその両耳に差し入れ、それから唾をつけてその舌に触れられた。そして、天を仰いで深く息をつき、その人に向かって、「エッファタ」と言われた。これは、「開け」という意味である。すると、たちまち耳が開き、舌のもつれが解け、はっきり話すことができるようになった。イエスは人々に、だれにもこのことを話してはいけない、と口止めをされればされるほど、人々はかえってますます言い広めた。そして、すっかり驚いて言った。「この方のなさったことはすべて、すばらしい。耳の聞こえない人を聞こえるようにし、口の利けない人を話せるようにしてくださる。」

(マルコによる福音書7章31節〜37節)

 

  当時の人々にとってこの出来事は、まさに完全なる神の支配が実現するあの、イザヤ書35章5〜10節までのあの世界を指差しされるような出来事だったでしょう。 

イエス・キリストの癒しの記事を聖書の中で見せられるとき、言い換えれば『主のご計画によって、その人が変えられていく様を見せられるとき』、どこを神の指が指し示されているかが知らされるのです。 そうです。そこはやがて私達が住まうべく、用意された場所、素晴らしく開放された、平和な世界であります。完全なる神のご支配の実現された世界です。  

その世界をイエス様は聖霊に満たされた、力あるご人格によって、開帳されます。隠されていたものをレベレーション(開帳)されるお方、終末の世界を垣間見させてくださるお方、主・イエス・キリスト。 イザヤ書35:5〜6にあるような見えない人の目が開き、聞こえない人の耳が開く。歩けなかった人が鹿のように踊りあがり、口の利けなかった人が喜び歌う。賛美と、愛と、聖なる喜びに満ちた神のご支配の世界なのです。 

全てのものが愛し合う、癒しと豊かさに満ちた世界、長いこと流し続けた涙が拭われる世界のその前味を、イエス・キリストは時々、今、必要とお思いになるときに神の国の幕を少し明けて、黙示してくださいます。  

この男の方はこのような素晴らしい、神の創造の業に触れたとき、ナザレのイエスという方が『やがて来る神の国の王』であられることを、救い主、神の御子であられることを知らされました。 彼はどんなに美しい顔をしてそれを告げ回ったことでしょう。『新しい創造をもたらしてくださるお方がここに立っておられます!』と。  

テキストに戻りましょう。マルコ7章35節。ーするとたちまち耳が開き、舌のもつれが解けはっきりと話すことができるようになった。ー 

舌のもつれ、すなわち舌の機能を阻害しているものを別の聖書では「悪気によるかせ」と訳しています。サタンの束縛の中にあるこの現代に於いてこれはこの男の人のことだけではなく私達すべての問題であります。

 

神学校での私の組織神学の教授である司祭さんはしばしばこう言われました。  『精神的に、信仰的に、しばしば口が利けなくなり、耳が聞こえなくなる現代の人は本当に聞き、自由に語る関係を保つことの難しさを、その“もつれ”をもっている。』と。 そうですね、自己中心で凝り固まったような私たちの人間関係で、今、“本当に自由に語り合う関係を持つ”と言うことの難しさ、すなわち“もつれ”をご自分の中に持っている、と感じる方は案外多いのではないかと思います。前出のカトリックの司祭さんは『イエス・キリストの働きーそれはそう言う私たちを “かせ”から開放する。そして、全く自由にする。そして、互いに正しいことを語り合える関係になさった。マルコ7章の31〜35』と。 
 このぺテロ・メネシェギ先生(今はハンガリーにお帰りになりましたが)が上智大学で開いておられた求道者のクラスでのことをお話しくださいました。 
 授業されて1年経ったアドベントのある日クラスの皆が帰られた中、大教室の最後列でひとり帰り支度しておられる80歳台の男性に向かって声をかけられたそうです。 

“  T さん、あなたもう1年もまじめにクラスに出ておられます。どうですか?今度のクリスマスに洗礼を受けませんか?”

“え、なんですか? 洗礼!(大声で )、それはなんのことですか”

“え、あなたこの1年、洗礼のこときいていなかったんですか? ”

“はーい。私、この席からは、なーんにも先生のお声聞こえなかったんです。耳が遠いものですから。ただ、初めて手にした聖書と言うこの本を読んでいました。”

“ そーうでしたか…。じゃこの洗礼と言うのはね、イエス様に人生の主になってもらってずっーといっしょに生きることですよ。”

“ああそうですか、いいですよ、私1年間何ひとつ聞こえませんでしたが、先生あなたのお顔をいつも見ていました。こどもと話すお顔、校庭でゴミを拾われるお姿、お祈りされているお顔、多分神様のことをお話になっておられた、そのお顔を拝見していて輝いておられる!と。私はああ、この方の信じておられる神様は本物じゃ、と、思っていたのですよ。はい、いいですよ。私、その洗礼というのを受けましょう!”

クリスマスの礼拝のその日そのおじいさまは神様の子とされました。心を聖霊によって開かれて主・イエスを受け入れたのであります。 

このマルコ7章の物語を通して主が私たちに最も言われたいことは、私たちが正しく自分のことを言えないのは正しく、よく人の言葉を聞いていないからだ、主の御心を御言葉を通して聴けないのは、神様の御言葉を正しい、良い心で(あの良い土地のように)聴いていないからだと言うことではないでしょうか。 もしそうならば今日、私たちも、主に願うべきではないでしょうか?『聞きたまえ、主よ!開きたまえ主よ!』と。 私たち今、それぞれの生活の場で礼拝いたしますが礼拝を通して黙想のなかにただひとりたたずんでおられるところのかのお方、イエス・キリストの霊のお働きによって“開いてください、耳も、喉も、眼も、” と、お祈りいたしましょう。

 

イエス・キリストの父なる神様。私たちはあまりに自己中心で耳があっても聞こえず、目があっても見えず、主の御目からは正しいことを語れないそんなものです。どうか 今、御言葉を通して働かれるあなたの霊によって、私たちの耳をあなたの細い御声を聴くものに、私たちの喉をあなたを主と告白し、賛美する喉に、私たちの目をあなたの世界を見る目に変えてください。そしてあなたの救いの出来事から与えられる喜びに溢れて今日も一人一人の任務を聖霊に促されてやりとげることができるようにしてください。尊きわれらの救い主、イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします。アーメン

 

                    桶川伝道所  高橋悦子牧師

                   (たかはし えつこ)

 

 

 

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