2002年3月のみことば

 

愛の力

 

神は、その独り子(ひとりご)をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信ずる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信ずるものは裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。悪を行なうものは皆、光を憎み、その行いが明るみにだされるのを恐れて、光の方に来ないからである。しかし、真理を行なう者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために。                                                               

(ヨハネによる福音書3章16節〜21節)

 

 南米のアマゾン川にはピラルクーという魚がいます。私はブラジルで見てきましたが、ネットで調べたところ、捕獲された最大のものは体長268cm、体重200kg近くもありました。淡水魚では最大です。肺呼吸をするという珍しい魚で、1億年前の姿そのままで生きている古代魚です。

 ところでこの魚がある時期、真紅に発色します。ピラルクーとはインデオ語で「赤い魚」の意味です。その子育てがまた変わっています。親が肌から粘液を出し、子どもがこれをオッパイよろしく吸うのです。親の周囲には稚魚が群がっています。濁った川の中で親と稚魚が互いを見失わないのは難しいことです。親は稚魚に存在を知らせるのに、吠えるわけにもいかず、手も足も無い。どうしたらいいのでしょう。ついに親は非常手段のようにして、自分の体を赤く染めたのです。

 「愛あれば方法あり」といいます。赤ければ目立ちやすく敵にも見つけられやすいのです。実際、人間の乱獲にあって絶滅の危機にあります。そんな危険を犯してまでも体を赤く染めて子を守ろうという親心です。1億年前、この魚にこんな知恵と力を与えたのは創造主である神です。

 「神は愛です」と聖書にあります。人間の心が罪に汚れ、互いに傷付けあってしまう現状を救うために、神は独り子であるイエス・キリストを世に遣わされました。人間の世界に、罪には裁きがあるように、神は人の罪を裁かれます。その厳しさは人間の法廷以上です。罪にまみれた人間には滅びしかありません。この窮状を救うために愛である神は、み子イエスを人の代わりに裁かれたのです。それが十字架です。

 罪の現状をもう一つの魚の例でお話しましょう。

 ある小さな魚は、大きな魚のうろこやエラに着いた寄生虫を食べて生きています。大きな魚にしてみれば命の恩人です。そこで猛魚もこの小魚が来ると、おとなしくしてエラや口をあけて掃除をしてもらいます。ギブアンドテイクの麗しい関係です。これもまた神の創造の妙です。自然界はこのようにして互いに益しあって生きています。

 ところが、この創造の秩序を乱すのが罪です。実は、この寄生虫を食べる魚にそっくりな姿をした別の魚がいます。この魚が近づくと大きな魚は寄生虫を食べてもらえると思ってエラなど開けるのですが、擬態をとった魚は大きな魚の軟らかそうな肉を「喰いちぎって逃げる」のです。何という悪いやつでしょう。警官の制服を着て強盗に入るようなものです。喰いちぎられた魚は警戒するようになるでしょう。疑われた魚はいい迷惑です。そして魚社会も混乱します。すべての被造物も「共にうめき、共に産みの苦しみを味わっている」(ローマ8:18〜23)と聖書にあるとおりです。 

 それ以上のことが人の世界にあります。互いに持ち味を生かし合って、共同で働くために社会はあるのですが、この秩序を乱し、互いに傷付けあってしまうのが罪の働きです。利己心、猜疑心、憎悪、復讐心……それらの罪が社会を暗くし、混乱させ、貧しく、生きずらくします。

 この泥沼から、人は神の子によって「救われる」(ヨハネ3:17)以外に脱出する方法はありません。神の愛には人をこの窮状から救う力があります。神は十字架という非常手段をもってわたしたちを救って下さいます。「御子を信じる者は裁かれない」(同18)とあるのは、神の子が十字架でわたしたちの身代わりになって裁かれたからです。

 この赦しの恵みの中にあって、わたしたちは神への感謝の心をもって生きるのです。神に感謝し、神を賛美して生きるならば、自分の内から復讐心などは消えていくのを知ります。神の愛の力が世界に行きわたるように祈りましょう。

 皆さまの上に神の祝福を祈ります。

 

                    吉川教会  西海静雄牧師

                   (にしがい しずお)

 

 ※ 西海静雄牧師は2004年6月29日に逝去されました。

 

 

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