2011年10月のみことば |
イエスはエルサレムへ上る途中、サマリアとガリラヤの間を通られた。ある村に入ると、重い皮膚病を患っている十人の人が出迎え、遠くの方に立ち止まったまま、声を張り上げて、「イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください」と言った。イエスは重い皮膚病を患っている人たちを見て、「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」と言われた。彼らは、そこへ行く途中で清くされた。その中の一人は、自分がいやされたのを知って、大声で神を賛美しながら戻って来た。そして、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。この人はサマリア人だった。そこで、イエスは言われた。「清くされたのは十人ではなかったか。ほかの九人はどこにいるのか。この外国人のほかに、神を賛美するために戻って来た者はいないのか。」
それから、イエスはその人に言われた。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」 (ルカによる福音書17章11節~19節) |
![]() わたしは出会いほど不思議な出来事はないと思っています。この「わたし」が今ここにいることも不思議です。ここでは「わたし」のこととして話を進めますので、みなさんもご自分のこととして考えてみてください。この「わたし」が今ここにいるのは、わたしの父と母が結婚したお陰です。しかし、わたしは男3人兄弟の末っ子で兄2人とは容姿も性格も違っています。と言うことは、父の精子と母の卵子の結合(出会い)がちょっと違っていたら、今ここには「わたし」でない「わたし」がいても不思議ではないわけです。このように考えてみますと、わたしたちの存在自体が不思議に包まれていることがわかります。 この不思議をわたしたちはしばしば偶然と考え、あまり深くは考えません。しかし、この「わたし」という小さな存在が天文学的確率で、いまここに存在していることを単に偶然と捉えたら、あなたは自分の存在の意義を確信できるのでしようか。わたしはもっともっと謙虚に一日一日を生きなければならないなと思うのです。 ![]() 上の聖書の箇所は、重い皮膚病にかかった10人の話です。この重い皮膚病は聖書の世界では伝染性があるとして社会から隔離される対象にされていました(旧約聖書レビ記13、14章参照)。道で誰かと出会う時には大声で「わたしは重い皮膚病を病んでいます。」と叫ばされていました。 病気を治していると噂されているイエスさまが通られることを知った10人は大声で「イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください」と叫びました。イエスさまは彼らをじっと見て「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」と言われました(当時、祭司は社会秩序を守る要でしたので、祭司の承認がなければ社会復帰が出きませんでした)。彼らは言われた通りに出かけると、その途中で皮膚病が治っていることに気づきました。 10人のうち9人がユダヤ人で、1人だけがサマリア人でした。ユダヤ人は神さまから特別な恵みを頂いている選民と考えていました。それに対しサマリア人はもともとは同族であったのですが、神さまから離れた不信仰な民族と言って、ユダヤ人から軽蔑されていました。自分の病気が癒されたと知ってイエスさまに感謝しに戻ったのはこのサマリア人ただ1人だけでした。なぜあとの9人はイエスさまの所に戻ってこなかったのでしょうか。 よく考えてみてください。あなたがこのユダヤ人の1人だったら「どうしてイエスさまに感謝しに戻らなかったか」考えてみてください。またサマリア人の立場に立って「なぜ戻ったのか」考えてください。イエスさまはご自分の足下にひれ伏しているこのサマリア人に「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」と言われました。重い病にかかっていたことでは10人は同じ境遇にありました。また、イエスさまに出会い、イエスさまに憐れみを求めて叫んだことも同じでした。また、イエスさまから「祭司の所に行って、見せなさい。」と言われたのも10人同じです。それなのにイエスさまの所に戻ってきたのはたったの1人だけでした。イエスさまに本当に出会っているのは、このサマリア人だったとわたしは思います。 ![]() 神さまとの出会い、ある人との出会い、そこに神さまの必然があったのだと思えるとき、あなたはきっと今までにない心を突き上げるような喜びに満たされます。あなたがこれからの生涯の中で、このことを覚えて豊かな希望に溢れた人生を過ごされることを祈っています。 |
遠藤 富寿教師 (隠退教師) (えんどう とみじゅ) |
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