2011年2月のみことば

わたしたちを起き上がらせてくださるお方

 数日後、イエスが再びカファルナウムに来られると、家におられることが知れ渡り、大勢の人が集まったので、戸口の辺りまですきまもないほどになった。イエスが御言葉を語っておられると、四人の男が中風の人を運んで来た。しかし、群衆に阻まれて、イエスのもとに連れて行くことができなかったので、イエスがおられる辺りの屋根をはがして穴をあけ、病人の寝ている床をつり降ろした。イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、「子よ、あなたの罪は赦される」と言われた。ところが、そこに律法学者が数人座っていて、心の中であれこれと考えた。「この人は、なぜこういうことを口にするのか。神を冒涜している。神おひとりのほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか。」イエスは、彼らが心の中で考えていることを、御自分の霊の力ですぐに知って言われた。「なぜ、そんな考えを心に抱くのか。中風の人に『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて、床を担いで歩け』と言うのと、どちらが易しいか。人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」そして、中風の人に言われた。「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい。」その人は起き上がり、すぐに床を担いで、皆の見ている前を出て行った。人々は皆驚き、「このようなことは、今まで見たことがない」と言って、神を賛美した。
                    (マルコによる福音書2章1節〜12節)


 今年は新年早々体調を崩してしまい、新年礼拝に出る事ができませんでした。礼拝に出る事が出なかったのは2年前にインフルエンザにかかったとき以来です。そのときは体調が非常に悪く苦しいだけで精一杯でしたが、それぞれに信仰を持ち神様を仰ぎ見るだけでなく、集まって共に主の前に出て礼拝を捧げることの大切さを覚えました。

 昨年4月からKGK(キリスト者学生会)での働きを始めさせていただいていますが、支える会が立ち上がってから2月で1年になります。支える会の決起集会には山田先生にも来ていただき、1年間に亘って皆さんにお支えいただいて本当に感謝です。そのKGKでの働きを始めてとても教えられる事は、神様は交わりの中で働かれるということです。学生たちの活動や、学生の家族がどのように信仰に導かれたかという証を聞くと、神様は一人の人だけでなく、複数のクリスチャンの交わりを通して働かれるということを知るようになりました。今日はマルコによる福音書2章から、イエス様が5人の人の交わりを通して働かれたことを学びたいと思います。

 マルコ2章は、イエス様のガリラヤ伝道中の出来事が記されています。カファルナウムに来て、家におられることが知れ渡った、とありますが、これはペトロの家と考えられています。当時の家は石でできていて、藁と泥を混ぜて作った平らな屋根があったようです。そして、家の外に屋根に続くはしごなり階段なりがありました。

 ここに、四人の男が登場します。彼らは、中風の人をイエスのもとへ連れて行きたいと願いましたが、群衆に阻まれてイエスのもとへ連れて行くことができません。そこで、屋根に穴を開けて中風の人の床を降ろしたというです。中風というのは、脳卒中のことだそうで、突然手足が動かなくなったり、言葉を話せなくなったり、意識がなくなったりする発作を指すそうです。また、その後遺症のマヒ状態も含むようです。

 彼らは、四人であったと記されています。彼らは一人ではありませんでした。そしてこの四人がチームワークをもって屋根をはがし、床を降ろさなければ、中風の人がイエスのもとへ来ることはできなかったのです。四人の男性と言っても、一人の人が横になっている床を運んで屋根にまで連れて行き、さらにそこから屋根をはがして床をつり降ろすのは容易ではありません。おそらく、四人がそれぞれに床の四辺を持って運んだのではないかと考えられますが、このときに一人が勝手な行動をして先走ったり、別の一人が無関心であったりすれば、床を屋根まで運び天井からつり降ろすことはできませんし、ひいてはこの人の癒しは実現しませんでした。

 この交わりには、いくつかの要素があります。

 まず一つは、彼らが同じ思いを持っていたということです。
 中風の人をイエス様のもとへ連れて行きたい、そうすれば必ず治るはずだという思いを、彼らは同じように持っていました。このとき、一人でも「こんなことをしても意味が無いのではないか」と思っていたら、大人が乗った重い床を担ぎ上げることはできません。彼らはイエス様への信仰を共有して、「イエス様のところに連れて行けばイエス様が癒してくださる」ということにおいて一致していました。

 また、彼らは互いに配慮し合ってこのことを実現しました。もし一人が先走って進んでいったら、後の三人はついていくことができずに一緒に床を担ぐ事ができなくなってしまいます。それは四人のうち二人でも三人でも同じです。互いのペースや力を配慮し合いながら、彼らは床を運び上げていきました。
 この一人の人の癒しは、四人が同じ思いを持って、互いに配慮し合う交わりの中で実現したのです。

 以前、学生伝道のあるセミナーに行った時のことですが、とても興味深い学びをしました。そのセミナーでは、30人くらいの参加者が5〜6人のチームに分けられ、バラバラのレゴブロックを配られました。土台となる板に、一人が一つずつ順番にブロックを動かす事ができるのですが、その際に言葉を発してはいけないというルールがありました。私がいたチームでは、何かよく分からない建物のようなものができて、結局何だったのだろうと思って帰路につきました。しかし、一緒に参加した別の学生は「本当によく分かった!」と言ってきました。私たちのチームでは、結果的に何かよく分からない四角いものができあがったのですが、その間、一人がブロックを積み上げるごとに周りの学生は「うんうん」とうなずいたり、細長いブロックで十字架を作ってみんなが「お〜!」と歓声を上げたりしていました。一方で、別の学生がいたチームでは、完成したのは見事な宇宙船だったのですが、その宇宙船が出来上がるまでには、他の学生が積み上げたブロックをことごとく取り除くという一人の学生だけのビジョンにより他の学生が排除されるということがありました。その学生が「宇宙船を作ろう」と思ったビジョンのために、他の学生が積み上げたブロックはことごとく取り除かれ、その学生だけのブロックが残っていくという状況になったのでした。結果として完成したのは素晴らしい宇宙船でしたが、チームのメンバーの中には達成感を感じる事のできない、不満の残るものだったというのです。

 同じ思いを持ち、互いへの配慮を持つ交わりを通して、イエス様は働かれました。私たちの中に、交わりがあるでしょうか。その交わりは、主の前にどのようなものでしょうか。

 次に、この四人の男性たちが協力してどのような行動に出たかということを見ていきましょう。
屋根をはがして穴を開ける、というのは非常に大胆な行動です。しかし、彼らにとって、この中風の人を運ぶということは、緊急のことで、切実な願いでした。群集が去ってから、ではなく、今イエス様に会っていただきたい、そのような願いをもって彼らはイエス様が語っていようと群集が聞き入っていようと、どんなリスクを負おうと屋根をはがして穴を開け、中風の人の床を下ろしたのです。それも、「イエスがおられる辺りの」屋根をはがしました。

 ここに、彼らの強い願いを伺うことができます。彼らは何としてもこの中風の人をイエス様のところへ連れて行きたいと思いました。私たちは、神様の業がここでなされることへの強い願いを持っているでしょうか。そしてその事が起こると信じているでしょうか。この四人の男はイエスがおられる辺りの屋根をはがして中風の人の床を降ろしました。イエス様がおられるところから離れた家の中ではなく、イエス様のおられる辺りに。私たちは、私たちの身近な人たちが何としてもイエス様に出会って欲しいと願っているでしょうか。何としてもイエス様に触れていただきたいと願っているでしょうか。そのような方にとって、私たちがイエス様との出会いへの入り口です。私たちは、何をするにしても、「すべてを主の栄光のためにしなさい」とパウロは勧めています。また、「何事でも神の御心に適うことを私たちが願うなら、神は聞き入れてくださる」とヨハネはその手紙の中で確信を持って語っています(Tヨハネ1:14)。私たち自身、また私たちの周りの一人ひとりがイエスのおられる辺りへと来ることができるように関わってゆきたいと願います。

 私自身、この御言葉がとても心に響いたのは、昨年の夏のことでした。私は夏の伝道キャンプの担当をしていて、学生たちとプログラムを作っていました。キャンプでは毎朝ディボーションの時間を持ちますが、このときにある学生が「ディボーションの時間をグループで持つようにしたい」と発言しました。周りの学生も「それがいいのではないか」という雰囲気になりましたが、私にとっては衝撃的な発言であり反応でした。「ディボーションは神様との一対一の交わりの時間ではないか、それをグループで持つなんて考えられない!」という思いが私の中を駆け巡りました。ディボーションの習慣のないノンクリスチャンの学生には、グループリーダーや誘った友達が始めは一緒にディボーションを持ち、一人でできるようになったらそれぞれでする、ということは毎年していますが、グループで、という発想は初めてでした。結論として、ディボーションは神様との一対一の交わりの時間として持つけれど、必要があればグループや同じ部屋のクリスチャン学生がサポートするということになりましたが、この学生たちとの対話は、一人のノンクリスチャン学生をイエス様との出会いへ導くために交わりを通してサポートしていきたいという思いを見ることができました。

 それでは最後に、この四人の人たちの大胆な行動を見て、イエス様がどのように応答されたかを見ていきましょう。
 イエス様は、「その人たちの信仰を見て」、中風の人に目を留められたことが分かります。この中風の人は、体は動かなくてもイエス様にお会いしたいと願っていました。そして治りたいと願いながら、どうすることもできず、どうすることもできなくても、治りたいと願っていたことでしょう。実際、この病の人が何をしたというわけではありません。しかし、イエス様はこの人たちの信仰を見て、「子よ、あなたの罪は赦される」と語りかけられました。

 このことは、病の人ひとりの信仰では実現しませんでした。四人の男たちと中風の人の信仰の交わりの中で、イエス様は働かれました。

 KGKの働きを始めてから、いろいろな方の救いの話を聞く機会が与えられています。教会を訪問した際に、その教会の先生がやはりノンクリスチャンの家庭から救われた方で、ご家族がどのように救いに導かれたか、という証しや、学生自身はクリスチャンホームであっても、その家族がどのように導かれたかという証しを聞く機会があります。すると、近所にクリスチャンの方がいて友達になったとか、やはりいろいろな布石があって導かれているということをよく聞きました。ナビゲーターズという宣教団体の統計では、一人の人がクリスチャンになるまでには最低5人のクリスチャンとの出会いがあるというものもあります。救いの業、また教会の業は、一人のマンパワーによってできるものではありません。イエス様も弟子たちを二人一組で派遣されました。一人で事を成されるのは神様おひとりです。しかしその神様も、私たちの交わりの中で働かれるのです。

 しかし、そこに居合わせた律法学者たちは心の中で思いました。「神を冒涜している。神おひとりのほかに、一体誰が、罪を赦すことができるだろうか。」

 確かに、イエス様のこの言葉は意味不明でもあります。四人の男たちと中風の人は、癒していただきに来たのではないでしょうか。ところが、よく読んでみると、彼らが癒していただきに来た、とは書かれていないのです。中風の人をイエス様のところに連れて行きたい、と四人の男たちは思いました。病の人も、イエス様に会いたいと思っていたでしょう。病を癒していただきたい、イエス様なら癒してくださるだろう、という願いも持っていたと思われます。しかし彼らがイエス様に会いたい、会わせたいと思ったことのほかは、私たちは何も知ることができません。

 しかしイエス様はこの中風の人に何が一番必要なのかを知っていました。それは、罪の赦しでした。当時、病は罪の結果だと信じられていたこともありますから、イエス様がここで罪の赦しを宣言されるというのは癒しとセットになって、その場にいた人たちにとっては非常に説得力のあることだったと思われます。現代の私たちにとっては、不摂生によって病を得てしまうこともありますから、罪と無関係ではないかもしれませんが、病気が罪の結果ということは必ずしも直接的には結びつきません。しかし、この中風の人が、病を通してイエス様の罪の赦しを体験したように、病によってイエス様と出会うということもあるでしょう。

 しかし、律法学者たちにとって最も大事だったのは、この一人の人の罪が赦され病が癒されるということではなく、「誰が罪を赦す権威を持っているか」ということだったのです。目の前の一人の人が罪赦されるということよりも、「なんでこのイエスという人物がそんなことを言っているのか」ということが最重要課題だったのです。

 イエス様は、彼らの心の中を知って「なぜ、そんな考えを心に抱くのか」と言われました。イエス様が中風の人に「子よ、あなたの罪は赦される」と言われたのは、人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせるためであったことを明らかにされました。反対に言うと、罪を赦す権威を持つ神様の子が、地上に来られた、ということを明らかにされたのです。

実際に、「起きて床を担いで歩け」と言うことと、「あなたの罪は赦される」と言うのとではどちらの方が易しいでしょうか。私たちの視点から言うと、どちらも難しいことで、そう簡単には言うことができません。イエス様はハッキリと「この方が簡単だ」と言っていません。しかし、もしかすると「起きて床を担いで歩け」と言ったほうが簡単かもしれません。当時、今のような医療技術ではありませんがお医者さんもいましたし、似たような不思議な業をなす魔術師もいたかもしれません。しかしイエス様はあえてここで病の癒しを先にせずに罪の赦しを宣言されました。もしかすると、あえて難しいことを先になして、イエス様が地上に来られた本当の意味を知らせようとしたのかもしれません。

 そしてイエス様は中風の人に言われました「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい。」その人は起き上がり、すぐに床を担いで、みなの見ている前を出て行きました。そのとき、この人はイエス様の言葉にすぐに従うという応答をしました。そしてそのとき、この人は自分が横たわっていた床を担いで歩いてゆきました。自分がここにいるしかないというある意味で運命を象徴するような、自分の床を自ら担いで、自分の足で歩いていきました。

 人々は皆驚き、「このようなことは、今まで見たことがない」と言って、神を賛美しました。

 人の業は、人への賛美を導きます。しかし神様の業、神様を指し示す業は、神様への賛美へと導きます。本当に賛美されるべき方への賛美へと導くのです。

 罪の赦しや癒しをなされるのは主の業です。私たちが人々を救うことができるわけではありません。しかし、この四人の男たちが中風の人を屋根をはがすという大胆な行動に出てまで連れて行ったことで、この人の罪の赦しが宣言され、癒しの業が起こされました。それだけでなく、イエス様が罪を赦す権威を持って地上に来られたということを人々に知らせました。主は私たちの信仰を見ておられます。この四人の男たち、そして中風の人のように私たちも、イエス様が御業をなしてくださることを信じていきましょう。そして神様と思いを一つにした交わりの中で、御業を体験し主を賛美する教会でありたいと願います。
浦和別所教会 浅田美由紀牧師
(あさだ みゆき)




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