2010年8月のみことば

二つの道

いかに幸いなことか
神に逆らう者の計らいに従って歩まず
罪ある者の道にとどまらず
傲慢な者と共に座らず
主の教えを愛し
その教えを昼も夜も口ずさむ人。
その人は流れのほとりに植えられた木。
ときが巡り来れば実を結び
葉もしおれることがない。
その人のすることはすべて、繁栄をもたらす。

神に逆らう者はそうではない。
彼は風に吹き飛ばされるもみ殻。
神に逆らう者は裁きに堪えず
罪ある者は神に従う人の集いに堪えない。

神に従う人の道を主は知っていてくださる。
神に逆らう者の道は滅びに至る。
               (詩編1篇1節〜6節)


 私たちには二つの道があります。それは、幸いな道か滅びの道かという二つの道です。教会につながれば、「滅びの道から幸いな道に導かれます」とは簡単には言えません。教会につながりながら、自分の破れや罪に苦しむことがあります。

 目に見える教会は完全ではありません。「12人の一人であるユダ」と主イエスを裏切るユダが12人の弟子の一人であることが福音書で示されます。ユダは主イエスの12人の弟子の一人です。すわわち、教会はユダ的破れを常に内に含んでいるのです。
 教会に通いながら自分の破れや罪を思い知るということがあります。その破れや罪を思い知らされる中で、思い知る中で、幸いな道に導かれるのです。

 幸いの道と滅びの道、この二つの道が詩篇1編に示されています。
 詩篇1編4節以下で「滅びの道」について語られています。
 4節「神に逆らう者はそうではない。彼は風に吹き飛ばされるもみ殻。神に逆らう者は裁きに堪えず、罪ある者は神に従う人の集いに堪えない。神に従う人の道を主は知っていてくださる。神に逆らう者の道は滅びに至る」
 神に逆らう者は、風に吹き飛ばされるもみ殻だというのです。
 「神に逆らう者の道は滅びに至る」と6節にあります。
 ここで注意したいことは神に逆らう者に対する反発や憎しみの感情は一切表現されていません。
 神に逆らう者は滅びる者たちだ、そんな人間になってはいけないと上から下を見下すようには語られていません。

 イスラエル、この信仰の共同体には常に二つの道があったのです。信仰者の前には常に二つの道があるのです。わたしたちの前には二つの道があるのです。滅びの道と幸いな道です。
 滅びの道とは神の言葉を必要としないで生きる生き方です。
 アブラハムもモーセもダビデも滅びの道を歩むときがあったのです。
 イスラエルもその歴史においてしばしば「滅びの道を歩んだのです」。その結果として自分たちは、もみ殻のようだと嘆かざるをえなかったのです。神の言葉を失ったらもみ殻のようだ。時代の風に翻弄される。強い風に吹き飛ばされる。

 実際にこの詩篇第一篇はエルサレムの神殿が破壊されてしまった。自分たちのよりどころである神殿が敵の攻撃で破壊されてしまったという悲劇を経験した信仰者が、神の言葉のみにすがって生きようとする信仰を示しているのです。
 神の言葉を神の言葉として聞くことができず、神に信頼することよりも、エジプトの軍事力を頼ったりしました。神に逆らう道を歩んでしまいました。その結果、全てを失ってしまいました。信仰の中心であった神殿も破壊されてしまいました。礼拝の場を失ってしまったのです。
 そこで思い知ったのです。神を見失ってしまった人生は、もみ殻のような人生だということを。時代の風に翻弄されて、様々な危機に吹き飛ばされて、もう滅ぶ以外にない人生を歩む事となってしまったのです。罪の中に沈む人生になってしまったのです。

 5節「神に逆らう者は裁きに堪えず、罪ある者は神に従う人の集いに堪えない。」
 神の言葉が喜びの言葉ではなく、裁きの言葉として響きました。神の言葉に逆らって生きていますから、罪の中に沈んでいますから神は怖い神に見えてしまうのです。
 このように神に逆らい、神の前に大失敗をして罪の中に沈んでしまう、大失敗をして、神を失い、国を失い、自分の生きる場を失うという経験を重ねながら、信仰が明確にされていくのです。

 この詩編は滅びの道を歩みものが、その道から救いあげられて、幸いな道へと導かれて、信仰が明確にされた喜びが歌われているのです。
 その喜びが今日の聖書の最初の言葉に示されています。
 1節「いかに幸いなことか。神に逆らう者の計らいに従って歩まず。罪ある者の道にとどまらず、傲慢な者と共に座らず」 
 「いかに幸いなことか」と記されています。この幸いな人といのは信仰の危機、人生の危機に直面し、その危機から救いあげられた人です。
 神に逆らう力に翻弄されたり、誘惑されたりして、神を見失ってしまう事が、ありました。その危機から救い上げられて生きる人です。この世の誘惑に負けて罪に沈んでいました。しかし、今は罪から救い上げられて生きています。罪に沈むということは神を神と思わない傲慢な振る舞いをして生きていました。しかし、今、その傲慢な人生から救い上げられ、神の恵みを深く知るものとして生きています。そして、今は神の救いの力を受け、恵みの神の言葉を喜んでいる人です。
 喜んで神を賛美している人は「いかに幸いなことか」と語られているのです。

 2節「主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口すさむ人。」
 注意したいことは、信仰者が受身であるということです。どこまでも幸いな道を歩むことができるのは神の導きによるのです。
 誤解して1節2節を受け止められてしまうことがあります。
 「神に逆らうもののはかりごとに従わない、罪に留まらない、傲慢なものにならないで、主の教えを愛しましょう」と人間の側の強い態度が求められているととらえられてしまうことがあります。

 その原因は、新共同訳聖書の訳にあります。
 2節「主の教えを愛し」とあります。この愛すと訳されている言葉は、本来「喜ぶ」と訳すべき言葉だと注解書に示されています。口語訳聖書の訳は「主のおきてを喜び」と訳されています。
 神の言葉によって、神の教えによって、滅びの道から幸いの道に引き上げられたのです。ですから、神の言葉を喜ぶのです。神の教えを喜び、神の言葉を昼も夜も口にして主を賛美するものは幸いだと語られているのです。

 神に対して「ああしましょう、こうしましょう」「愛しましょう」と人間の側の業が求められていないのです。そうではなくて、神の恵みの言葉によって救われたのです。滅びの道から幸いの道に引き上げられたのです。「だから喜びましょう」と語られています。
 神の力ある恵みの業、救いの業に包まれるのです。ですから喜ぶことができるのです。主の教えを喜び、主の言葉を常に口ずさみ、主を賛美する人が幸いな人です。その人は『流れのほとりに植えられた木だ』というのです。

 3節「その人は流れのほとりに植えられた木。ときが巡り来れば実を結び、葉もしおれることがない。その人のすることはすべて、繁栄をもたらす」
 木は植えられるのです。自分で自分を植えることはできません。植えられるのです。神によって植えられるのです。
 流れのほとりに植えられた木について、エレミヤも語っています。
 エレミヤ書17章7節8節「祝福されよ、主に信頼する人は。主がその人のよりどころとなられる。彼は水のほとりに植えられて木。水路のほとりに根を張り、暑さが襲うのを見ることなく、その葉は青々としている。干ばつの年にも憂いがなく、実を結ぶことをやめない。」

 パレスチナの南側は荒地の多い厳しい風土です。南の砂漠から熱風が吹けば、たちまち植物は焼かれてしまいます。11月から最初の雨季があり、3月に次の雨季があり、それ以外は雨がふりません。この雨季に雨が少ないと、飢饉になったり、干ばつに苦しむことになります。しかし、オアシスのように水が湧き上がり、その流れのほとりに植えられて木は、干ばつや熱風の影響を受けないのです。
 青々と葉が茂り、やがて、実を結ぶのです。必ず実をならし、必ず果物を豊かにみのらすのです。木が根をはり、その根から命の水をたっぷりと吸い取って、伸びています。だから、どのように風が吹いても、激しい暑さに多くの命あるものが苦しむ中にあっても、青々と葉を茂らして立ち続ける事ができるのです。

 神の御言葉を神の教えを喜び、常に口ずさみ、主を賛美するものは「流れのほとりに植えられた木」のようなものだというのです。
 時代の風がどのように吹きまくっても、倒れないのです。そして、必ず実りの時を迎えるのです。私たちの人生は枯れて滅びる事は決してないのです。
 主イエス・キリストも語られました。「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない」(ヨハネ福音書4章14節)

 主イエス・キリストの十字架と復活によって救われました。この十字架と復活の主に結びつく者は「流れのほとりに植えられた木」であるのです。決して渇くことのない命の水をいただいて、生きる事ができるのです。
 今、この時代の中で、時代の風が吹き荒れても「流れのほとりに植えられた木」のように根をはって、主イエス・キリストの命の水をいただいて、青々と葉を広げて、すなわち、喜んで、賛美して生き抜くことができるのです。神の前に必ず実をならす人生へと導かれるのです。
越谷教会 石橋秀雄牧師
(いしばし ひでお)




今月のみことば              H O M E