2010年5月のみことば

天が開ける

10 ヤコブはベエル・シェバを立ってハランへ向かった。
11 とある場所に来たとき、日が沈んだので、そこで一夜を過ごすことにした。ヤコブはその場所にあった石を一つ取って枕にして、その場所に横たわった。
12 すると、彼は夢を見た。先端が天まで達する階段が地に向かって伸びており、しかも、神の御使いたちがそれを上ったり下ったりしていた。
13 見よ、主が傍らに立って言われた。「わたしは、あなたの父祖アブラハムの神、イサクの神、主である。あなたが今横たわっているこの土地を、あなたとあなたの子孫に与える。
14 あなたの子孫は大地の砂粒のように多くなり、西へ、東へ、北へ、南へと広がっていくであろう。地上の氏族はすべて、あなたとあなたの子孫によって祝福に入る。
15 見よ、わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない。」
16 ヤコブは眠りから覚めて言った。「まことに主がこの場所におられるのに、わたしは知らなかった。」
17 そして、恐れおののいて言った。「ここは、なんと畏れ多い場所だろう。これはまさしく神の家である。そうだ、ここは天の門だ。」
               (創世記28章10節〜17節)

 高名なユダヤの哲学者マルチン・ブーバーは「人生は出会いで決まる」と言いました。わたしどもの生涯は考えてみますと、様々な人々との人格と人格との出会いで決まってゆきます。この世に生れ落ちる前に、母のおなかで10ヶ月過ごします。お母さんの優しい愛と祈りに支えられて、無条件の愛を経験して、人生の備えをします。そしてこの世に生れ落ちてからは、お母さんに出会い、お父さんに出会い、兄弟に出会い、教師やクラスメートに出会います。思春期になりますと異性に出会い、やがて、配偶者に出会います。(これが決定的か?)。しかし、人生の本当の出会いはここに留まりません。やがて、偉大な人格に出会い、創造主、神さまに出会うのです。人生は、魂と魂の出会いの場です。魂と魂が触れ合う人生劇場なのです。そのような意味では、この新しい、礼拝堂は神ご自身が人と出会うところ、世界で最も素晴らしい礼拝の場です。今日は、旧約聖書の創世記28章から、ヤコブという人の生涯から、「天が開ける」という題で御言葉を共に聞きたいと思います。

【テキストの位置と概略】
 今日の話の中心人物、ヤコブという人は、創世記32章で名前をイスラエルと変えられる人です。彼はイスラエル民族の先祖となった人物です。ここには彼の生涯に起こった決定的な出来事が記されています。彼は、びっくり仰天!しました。天地創造の神、歴史の支配者なる全能の神に出会ったからです。「神との出会い」、この出来事は、人生最大のドラマであると思います。しかも、神さまは、不思議な仕方で人に出会われるのです。彼はそのところを「天の門」と呼び、「神の家」と呼びました。

【メッセージのポイント】
1)10 ヤコブはベエル・シェバを立ってハランへ向かった。11 とある場所に来たとき、日が沈んだので、そこで一夜を過ごすことにした。ヤコブはその場所にあった石を一つ取って枕にして、その場所に横たわった。

⇒石の枕

 ヤコブの生涯は、イスラエル民族の象徴です。彼は人を「おしのける者」(ヤコブにはこの意味がある)でした。彼は人間の知恵の限りを尽くして、お兄さんのエサウから財産の「相続権」を奪いました。パンとレンズ豆の料理で現在で言えば、数億、数10億の巨額な財産の相続権を手に入れました。「レンズ豆」はお汁粉のようなもの、あるいはコーヒー豆のような飲み物だったと想像することができます。だます方もだます方ですが、だまされる方もだまされる方です。コーヒー一杯で、膨大な相続財産を失ったというのですから・・・。

 へブライ書では「エサウのように不品行な俗悪な者になるな」(12:16)と言われています。人は目の前にある欲望に弱いのですね。それにしてもこの抜け目のないヤコブは、更に、年老いた父をだまして「祝福」を奪いました。ヤコブは、双子の兄弟のエサウの激怒を買い、殺されそうになってハランの町にまで逃げるはめになったのでした。

 逃亡者となって、命かながら逃げて行くヤコブ。愛するお母さんの指図で、おじさん、すなわち、お母さんのお兄さんのラバンを頼りに、ヤコブは行ったことのないパダンアラムまで行くことになります。ヤコブの住んでいたベエルシバからパダンアラムまでは直線距離で800キロがありました。旅行はかなりの日数がかかります。途中でとっぷりと日が暮れて、野原で野宿することになりました。彼はその時40歳。でも、野宿をするなどきっと初めてのことだったのでしょう。遠くのほうで狼か山犬のほえる声がするような野原のただ中で彼は、石を取って枕として身を横たえたのです。
真っ暗闇の現実。今1人、冷たい固い石を枕に原野に身を横たえて、寝ようにも眠ることが出来なかったのでしょう。

 静かに考えてみれば、兄をだまして相続権を奪い、父をだまして祝福を奪い、人をだまし押しのけ続けた過去の自分。また、地上でただ一人、血を分けた兄弟である双子の兄に憎まれ殺されそうになって逃げてゆく現在の自分。そして未来は、まだ行ったことのないパダンアラムの町と会ったことのない人々と共に生きる生活。彼は、過去を見ても現在を見ても将来を見ても、この暗闇のように、どこまでも広がってゆく真っ暗闇の現実のただ中で、彼は途方にくれていたのでしょう。しかし、絶望の石を枕にしたこのヤコブの真っ暗闇の現実が、実は、大きな祝福の門だったのでした。

 イスラエル民族の歴史は苦難の歴史です。彼らはしばしば石を枕にするような苦難を受けました。エジプトでの奴隷生活、アッスリアの支配、バビロンへの捕囚、ペルシャ、ギリシャの支配下での苦しい生活、そしてロ−マの支配。彼らは先祖ヤコブの石を枕にする姿と、自分の苦しみに満ちた生涯を重ねあわせて見ていました。

 皆さんは石を枕にしたことがありますでしょうか?私は自分の生涯を考えると、実に多くの石の枕の時があったことかと思います。小学生の3,4年の頃にいじめに会いました。中学生のころや高校生のころ自分の惨めさ、罪深さに失望していました。高校を卒業してからは、芸大の油絵科を目指して、浪人に継ぐ浪人でした。4浪までやりました。それに、失恋の連続。苦き涙を流しました。とにかく、人生の扉はどこも開いていないような青春でした。当時、「・・♪・・・15,16,17とわたしの人生暗かった・・・♪・・・」という歌が巷に流れていましたね。自分のことだと思いました。

2)12 すると、彼は夢を見た。
⇒ 夢と幻

 『人の危機は神のチャンス』という言葉があります。絶望の石を枕とする中でヤコブは夢を見ました。人生の全てを造り変えるほどの夢でした。ユダヤ民族は幻の民です。苦しい時、悲しい時、彼らは厳しい現実を越えて、神の幻を見ました。聖書の中には多くのユダヤの民の幻を見ることが出来ると思います。イザヤ35章には砂漠にサフランの花が咲くという幻があります。エゼキエル37章には枯れた骨の谷で起こる復活の奇跡があります。47章には聖所から流れ出すリバイバルの川の流れの幻があります。彼らはいつも神の霊に満たされ、神のヴィジョンを見ていたのです。

 『美しい夢を見ることが出来なくなった時、その人は死んでいるのです』(ロバ−ト・シュ−ラ−)。
 わたしどもはどのような夢を持って生きているのでしょうか?どのような幻を見ているのでしょうか?
 見城良雄という先生の証しを忘れることができません。
 彼は愛知県のちいさな町の材木屋さんでした。奥様が滝元明先生の牧会される教会に通ってクリスチャンになりました。すでに6人のお子さんがいました。7人目の赤ちゃんが与えられたときにご主人との間に対立が起こったのです。ご主人はもう子供はいらないと言いました。口喧嘩となって、ご主人は怒って家を出て、赤提灯で、一杯飲んでいました。友人に「俺の家内はキリスト教に凝っちゃったよ」とぼやきました。ところが彼は「キリスト教はなかなか良い宗教だ。あなたも行ってみたらどうか?」と言ったのです。「それもそうだ。家内の心惹かれるその教会とやらに、まだ一度も行ったことがない・・・」。彼は仕事のついでに、東京の穐近先生の牧会される教会に出かけられました。そこで新しい業が起こり始めたのです。

 しかし、その背後には奥様の熱心な祈りがありました。夜になると彼女はよく、コモを持って裏庭で祈ったと言うのです。彼女の祈りが聞かれて、ついに彼女の子供達、11人か、12人いたと思いますが、現在、皆、伝道者になり、このご主人も材木屋がつぶれて、ついに伝道者になりました。

 夢と幻にはわたしたちの想像を超えたエネルギーが隠されているようです。ユダヤの民は多くの苦しみ、絶望的、壊滅的な体験をした民ですが、彼らは夢を見ることを忘れなかったのです。幻を持って祈る祈りには恐るべき力があるのです。天からの幻を求めて熱心に祈る時、奇跡的な業が起こりはじめます。夢と幻をもって信仰生涯を歩みたいものですね。

3)12 すると、彼は夢を見た。先端が天まで達する階段が地に向かって伸びており、しかも、神の御使いたちがそれを上ったり下ったりしていた。
⇒さかさはしご

 彼の見た夢は「はしごの夢」でした。天から地へとはしごが伸びており、神の使いが上りおりしていました。普通のはしごは地から天に向けてかけられるものです。しかし「神のはしご」は天から地へと向かうのです。ある旧約学者の説によるとこれは「さかさはしご」であると言います。絶望の石を枕とするわれらの現実に、主は天から「さかさはしご」をかけられた。天の高みから、われらの地の低さまで、「地獄の一丁目までも出張する神」(北森嘉蔵)がここには描かれます。われらの罪を負って十字架にまでもかかって下さる神がここに描かれます。

 これは新約聖書の主イエスキリストの十字架を指し示すできごとであると語られます。ヨハネ1章の終わりで、主イエスのもとにやってきたナタナエルに主イエスは、「人の子の上に、天使が上り下りするのを見るであろう」と言われました。主イエスこそ天と地をつなぐ神からのはしごだったのです。主イエスはわたしどもの身代わりとなり、十字架にかかってわたしどもの罪をあがない、「わたしは決してあなたを捨てない!」と語ってくださるのです。
 16節に「ヤコブは眠りから覚めて言った。「まことに主がこの場所におられるのに、わたしは知らなかった。」17 そして、恐れおののいて言った。「ここは、なんと畏れ多い場所だろう。これはまさしく神の家である。そうだ、ここは天の門だ。」ヤコブはこの神様に出会い『ここは天国の入り口だ!』と叫んだのでした。

 はずかしながら、わたしもヤコブのように主イエスに出会いました。
 1969年12月21日、わたしは日本基督教団練馬開進教会という教会で洗礼を受けました。当時、19才の青年でした。わたしはそのころは絵描きになろうと思って、東京芸術大学を目指して、美術の予備校、目白のすいどーばた美術学園に通っていました。当時は1970年直前で、日本でもベトナム戦争反対、安保反対の大嵐が吹いていた時です。19才のわたしは自分の生きる道を真剣に求めていたのでした。一時はヘルメットをかぶって、新左翼運動に加わったこともあります。けれども、何をしても心の平安が得られませんでした。わたしのうちには深い罪意識があり、こころの最も深いところでは、罪の許しを求めていたのだと思います。

 洗礼を受ける日の朝、わたしは自分の魂に語りかけていました。「オレは今日死ぬんだ、今日から新しい自分が生まれるんだ!覚悟はできているか?」と。クリスマス礼拝が始まった。牧師の説教が終わって、いよいよ、洗礼の時である。胸がどきどきしました。牧師に導かれるまま信仰の告白をし、その後洗礼を受けました。市川牧師が「深谷春男、われ汝に父と、子と、聖霊の名によってバプテスマを授ずく!」と宣言して、わたしの頭に水をかけられた。その水が襟首から背中に流れ、冷やりと感じた時に、「救いが来た!」と感じました。わたしはその時、感動を押さえることができずに、男泣きに泣きました。市川牧師が、「深谷くんは今、感動で泣いておりますが、主よ、この青年を祝し…」と祈ってくださいました。

 この日、わたしは夕方から行われるクリスマス祝会に出席するために残っていました。夕方のクリスマス祝会も大変喜びに満ちたものでした。キャンドルサービスがあって、出席した一同が、ある者は大きな声で賛美をし、ある者は一年の感謝をしました。市川先生が「深谷くんも証しをしな」とおっしゃるので、自分が主イエス様を知るようになった中学生の頃から現在にいたるまで、かなり長いお証しをしました。最後に「昨日、月を見ていたら、イエス様がわたしを愛しているよ!って言ってくださってるようで、涙が止まりませんでした…」と言った時に、涙で声が詰まってしまいました。市川師が「そこまででいいでしょう…・」と言われたが、先生の目にも涙が光っているように見えました。

 クリスマス祝会を終えて、桜台駅から自分のアパートに帰るまで、わたしは、うれしくて、うれしくて、心の喜びを押さえ切れませんでした。町を歩きながら、賛美したり、横に歩いたり、後ろ向きになったり、飛び跳ねたりして帰って行ったのです。夜風がわたしの首に巻き付いて来るような解放の喜びでした。自分の部屋に入って、油絵の具を紐で縛って押し入れに投げやり、「主よ、わたしは、あなたに献身し、牧師になります!」と祈りました。その時、20―30人の友人にはがきを書きました。「俺は今日、洗礼を受けて神の子となった。俺は罪が許され、永遠に生きることを信じる。お前も信じろ、このばか。」

 わたしの生涯は、この主イエスキリストとの出会いによって、まったく変えられてしまいました。数えるともう40年も前のことになりますが、昨日のことのように思い起こされます。そして、教会に加わり、献身して神学校に行き、牧師になって32年、最高の人生を歩ませていただきました。
皆様の上にも「天が開け」、主イエスと共に歩む、最高の人生をお祈り申し上げます。

【祈り】 
 天の父よ。今日はヤコブの物語を共に学ばせていただきました。ヤコブが絶望の石を枕にした時のように、わたしどもはしばしば暗闇の中におります。今、ヤコブのように霊の目を開いていただいて、あなたからの幻を受けたいと願っています。どうぞ天からのはしご、主イエスの十字架のあがないの幻をしっかりと見上げるものとならせてください。あなたに出会い、「ここは神の家だ。ここは天の門だ!」と告白し、新しい生涯に入ることを得させてください。今、心を開いてあなたを受け入れます。内なる天国を開いて、神さまご自身の臨在と救いの恵をわたしどもに見させてください。
 愛と命の救い主、主イエスのお名前で祈ります。   アーメン
東京聖書学校吉川教会 深谷春男牧師
(ふかや はるお)




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