2009年8月のみことば

神の恵みによって歩もう

【賛歌。ダビデの詩。】
 主よ、どのような人が、あなたの幕屋に宿り/聖なる山に住むことができるのでしょうか。
それは、完全な道を歩き、正しいことを行う人。心には真実の言葉があり 舌には中傷をもたない人。友に災いをもたらさず、親しい人を嘲らない人。主の目にかなわないものは退け/主を畏れる人を尊び/悪事をしないとの誓いを守る人。金を貸しても利息を取らず/賄賂を受けて無実の人を陥れたりしない人。これらのことを守る人は/とこしえに揺らぐことがないでしょう。
              (詩編15編1節〜5節)

 わたしたちは生まれながらのユダヤ人であって、異邦人のような罪人ではありません。けれども、人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされると知って、わたしたちもキリスト・イエスを信じました。これは、律法の実行ではなく、キリストへの信仰によって義としていただくためでした。なぜなら、律法の実行によっては、だれ一人として義とされないからです。もしわたしたちが、キリストによって義とされるように努めながら、自分自身も罪人であるなら、キリストは罪に仕える者ということになるのでしょうか。決してそうではない。もし自分で打ち壊したものを再び建てるとすれば、わたしは自分が違犯者であると証明することになります。わたしは神に対して生きるために、律法に対しては律法によって死んだのです。わたしは、キリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。わたしは、神の恵みを無にはしません。もし、人が律法のお陰で義とされるとすれば、それこそ、キリストの死は無意味になってしまいます。
              (ガラテヤの信徒への手紙2章15節〜21節)


 私は高校一年の5月頃から信仰告白してキリスト者となり、教会会員になろうと思い始めていました。しかし、私の心の中にためらいがあってキリスト者になる決心がなかなかつかなかったのです。そのためらいとは自分がキリスト者となってキリスト者らしい生活ができるかということです。その時にキリスト者とはどのような者と考えていたのか。それはキリスト者とは道徳的に立派になるために自分で努力しなければならない者であると考えていたのです。私は自分の力で善い人間になることができるのか、それは難しいと思いました。道徳的に立派なキリスト者になれないならば信仰告白をしてキリスト者にならないほうが良いと思いました。

 そのような問題を抱えていた時に、栃木地区高校生の集いがあり、そこである教会の牧師にこのことを話したら、「自分の力で立派になる、そのような可能性ではなくて、神の可能性に頼るのが信仰だ」と教えてくれました。この言葉で勇気づけられ、その年の10月に信仰告白をすることができたのです。                        

 ガラテヤの信徒への手紙を書いたパウロは、キリスト者になる前にサウロと呼ばれていました。サウロは熱心なファリサイ派の人で神に認められるために、その条件である神の律法を守ることに努力していました。神の戒めを一つ一つ守って落ち度なく積み重ねていけば神が正しい者と認めると教えられ、そのために努力をしたのです。                         

 私たちの社会でも、試験の点数が良い学生は教師に認められて成績が良く、業績をあげた会社員は上司に認められて昇格し、良い研究成果を出した研究者はその研究が認められて表彰されています。要求されている条件を満たさなければ認められないのです。しかし、パウロは主イエス・キリストが自分の罪のために贖いの死を遂げてくださったことを知り、律法の行いによって神に正しいと認められる生き方を捨てたのです。自分の善い行いによって神が正しいと認める、そのあり方を捨ててしまったのです。

 律法を行うことよりもキリストを信じることに救いがあることがわかったのです。神が要求していることをキリストが果たしてくださった、その神の一方的な恵みを信じることによって神に認められるのです。自分の行いによって神に認められるあり方ではなく、神の一方的な愛を受け入れることが本当であると信じたのです。神が正しさを私たちに贈り物としてプレゼントしてくださる、そのことを信じて受け入れる者が正しい者と認められることを信じたのです。

 この社会ではがんばれ、がんばれ、と言われながら過ごしています。「がんばってください」、「がんばらないとだめですよ」とよく言われます。この社会では要求されたことをきちんと果たすことによって評価され、認められるのです。良い評価を得て認められるように努力することが求められます。学校では授業に出席し、良いレポ−トを提出し、試験の点数も良い者が良い評価を得ることができるます。会社でも要求された仕事を果たし、業績を出し、結果を出すことが求められます。私たちの社会はそのような自分の努力、がんばりを求める社会です。その中で生活しているとただ信仰だけで良いというのは他力本願の、他のものに頼って自分ではなにもしない、怠け者であると思うのです。律法による行いではなく、信仰によって義とされるというのはこの社会の常識には受け入れられない異質なことなのです。

 宗教改革によって信仰によって義とされることが明確になり、このことが福音主義教会の中心的な主題となりました。プロテスタント教会は、この信仰義認を教会の基礎にしています。この宗教改革に対抗してロ−マ・カトリック教会は北イタリアのトリエントで公会議を開き、この公会議で信仰によって義とされるというプロテスタント教会は呪われ、善い行いをしないと神は正しいと認めないことを宣言しました。この公会議ではじめに神は恵みを与え、罪を赦すが、神に正しいと認められるためには自分の力で善い行いをしないと認めないことを確認しています。

 はじめは神は恵みをもって人間に手を差し伸べる、関与する、しかし、その後は自分の力で善い行いを積んで行くことによって神は善いと認める。それは丁度、教師が生徒にはじめの問題の答えが出せるように教えるが、その他の問題は自分で考えて問題を解きなさい、というようなものです。それは丁度、自転車に乗ることができるように、初めは自転車の後ろを押さえているけれども少し慣れたら自分で運転するように、手を離すようなものです。神が関わるのは最初だけです。神が正しいと認めるためには人間が努力しなければならないという考え方です。

 ハイデルベルク信仰問答62問では、わたしたちの善い行いは、神の前に正しいものにならないのか、という問いに対して、神は私たちに完全な正しい行いを要求しているので、わたしたちのしていることは不完全であり、神の要求に応えることはできないのである、と答えています。神が要求していることは完全です。神を完全に礼拝することはできません。完璧な説教、完璧な祈りなどありません。隣人に対して優しい言葉をかけることはします。しかし隣人を完全に愛することはできないのです。

 この信仰問答は「神の裁きに耐えうる義とは、あらゆる点で完全であり、神の律法に全く一致するものでなければなりませんが、この世におけるわたしたちの最善の行いすら、ことごとく不完全であり、罪に汚れているからです」と答えています。このような言葉に私たちは強く反発します。それは人間は悪い心になり、誤って悪いことをすることもあるけれども元来、善い心をもっており、善いことをすることができる、という思いがあります。そして人間には善いことをする意志も悪いことをする意志もあり、選択することができる自由な意志を持っていると主張する者も多いのです。 人間は元々、堕落していて、罪の奴隷で悪いことをする意志しか持っていないということに反発するのです。しかし、実際、私たちは人を憎み、妬み、自分中心、自分の都合で行動し、人を愛することができない者なのです。私たちは罪が深く、堕落しているのです。

 新聞を読むと毎日のように殺人事件が報道され、犯罪の報道が全くない日はないのです。「正しい者はいない。一人もいない。悟る者もなく、神を探し求める者もいない。皆迷い、だれもかれも役に立たない者となった。善を行う者はいない。ただの一人もいない。」(ロ−マの信徒への手紙3・10−12)                     

 神学校を卒業して岡山の教会に赴任した最初の年の5月に伝道集会がありました。講師として招いたのは倉敷教会の田井中牧師で、とてもユ−モアのある、いつも笑いの絶えない牧師です。その伝道集会の話の中で良く覚えている話があります。神の愛についてある譬えを話されました。子どもが公園でどろんこ遊びをして家に帰ってきた、その子どもに母親がその子どもに汚れたものを子どもが自分で洗い、自分できれいにしてきたら家に入れてあげる、という母親はいない。母親がこんなにきたなくして、とは言うが、汚れたからだを母親が拭き、汚れた衣服を脱がせ、母親がきれいな衣服を着せるはずだ。キリストは自分できれいになってからわたしのところに来なさいとは言わない。汚れたままで来て良い、汚れたものをわたしが引き取り、清潔な衣服を私たちに着せる。そのような神の愛を信じることが大切である。このような話をされたのです。 

 神は正しい方だから、正しく生活をする、そこで認められるのではない。神の義を、神の正しさを与えられるのです。「すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。」(ロ−マの信徒への手紙3・22)私たちは「神の義」を与えられているのです。神の恵みを与えられているのです。「恵み」は「カリスマ」、「賜物」、「プレゼント」なのです。神から賜物を与えられて生きるのです。「ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。」(ロ−マの信徒への手紙3・24)  

 「日本基督教団信仰告白」には「神は恵みをもて我らを選び、ただキリストを信じる信仰により、我らの罪を赦して義としたまふ。この変わらざる恵みのうちに、聖霊は我らを潔めて義の果を結ばしめ、その御業を成就したまふ。」と告白しています。この信仰告白には、すべて神が主導権を持ち、神が一切のことをなさってくださることが告白されています。私たちから信仰や善い行いが始まるのではないのです。神が私たちのうちに信仰を起こし、神が私たちに善い行いを起こしてくださるのです。信仰や善い行いは自分から起こったのではないのです。すべて神の御業です。私たちの罪を赦し、義としてくださるのは神です。そしてこの変わらざる恵みによって、聖霊が働いて善い行いを起こしてくださるのです。善い行いを起こしてくださるのも神です。パウロはガラテヤの信徒への手紙2章20節で「わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。」と告白しています。

 神が父として初めから終わりまで私たちと共にいて支配して配慮し、心を配り、キリストによって罪を赦して、義を与え、聖霊によって信仰を起こし、善い行いを生み出してくださるのです。この父、子、聖霊の神に深く寄り頼んでいきたいのです
東大宮教会 山ノ下恭二牧師
(やまのした きょうじ)




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