2009年3月のみことば

道が見える

 一行はエリコの町に着いた。イエスが弟子たちや大勢の群衆と一緒に、エリコを出て行こうとされたとき、ティマイの子で、バルティマイという盲人の物乞いが道端に座っていた。ナザレのイエスだと聞くと、叫んで、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と言い始めた。多くの人々が叱りつけて黙らせようとしたが、彼はますます、「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と叫び続けた。イエスは立ち止まって、「あの男を呼んで来なさい」と言われた。人々は盲人を呼んで言った。「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ。」盲人は上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエスのところに来た。イエスは、「何をしてほしいのか」と言われた。盲人は、「先生、目が見えるようになりたいのです」と言った。そこで、イエスは言われた。「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」盲人は、すぐ見えるようになり、なお道を進まれるイエスに従った。
                     (マルコによる福音書10章46節〜52節)



 「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」(47節)。
 エリコの道端で物乞いをしていたバルティマイは、主イエスに向かって叫びました。この人は盲人でした。いつものように物乞いをしていると、いつもと違って大勢の人が通る気配がする。彼は目が見えませんから、どうしてこんなに大勢の人が通るのか分かりません。そこで、呼びかければ誰かかが答えてくれるだろうと思い、人の気配を感じる方に向かって、“何事が起こっているのですか?”と呼びかけてみたのでしょう。すると、ナザレのイエスのお通りだ、と答えが返って来ました。ナザレのイエス。バルティマイもその名前を知っていたのです。ガリラヤ地方で、多くの病人や障がいを持った人々を癒しておられる噂も耳にしていたのでしょう。そのイエスだと知って、バルティマイは叫んだのです。
 「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と。

 彼は真っ暗な虚空に向かって叫んだのです。もちろん、イエスの姿が見えているわけではない。どこにいらっしゃるのか分からない。自分の声が届くかどうかも分からない。それでも、彼は「目が見えるようになりたいのです」(51節)という一心で真っ暗な虚空に向かって叫んだのです。人々に、“うるさい、黙れ”と叱りつけられても叫び続けたのです。
 「ナザレのイエスだ」と言われたにもかかわらず、バルティマイは「ダビデの子イエスよ」と叫んでいます。ダビデとは、かつてユダヤ人の王国の最盛期を造り上げた偉大な王の名です。けれども、当時のユダヤ人はローマ帝国という大国に支配され、苦しい思いをしていました。しかし、彼らは、やがてダビデ王の子孫からダビデ王のような英雄が現われて、自分たちを救ってくれると信じていました。ですから、「ダビデの子」という呼びかけは、“救い主さま”という意味で呼びかけられています。バルティマイは、ナザレのイエスこそ、自分の救い主だ、この方の許にこそ救いがある、と信じたのです。

 バルティマイの姿は、まさに救いを求める“求道者”の姿だなあ、と思います。教会に来て求道をされる方は、何か苦しみや悩みがあって、あるいは思うところがあって、道を求め、救いを求める方が少なくありません。しかし、イエスの救いがはっきりと見えているわけではないのです。救いを求める自分の心の声が、確かにイエスに届くのか、神さまに届くのかどうかも分からない。教会で救われるのかどうかも分からない。暗中模索です。しかも、家族や周りの人には、宗教なんてやめろと反対され、叱りつけられることもあるかも知れません。そういう意味では、目の見えないバルティマイが真っ暗な虚空に向かって叫んだのと似通っています。それでも、ここに道があると信じて、叫び続けるのです。ここに救いがあると期待して求め続けるのです。教会に通い続けるのです。そして、その求道の思いは、いつかきっと主イエスに、神さまに聞き届けられるに違いありません。

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 人々に叱りつけられても、ますます叫び続けるバルティマイの声は、主イエスに届きました。その声に主イエスは立ち止まられたのです。仔細を聞いて、主イエスは「あの男を呼んできなさい」(49節)と、ご自分の周囲にいる人々に命じました。そこで、人々はバルティマイのそばに行き、「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ」(49節)と告げました。

 「安心」とは何でしょうか?。私は、この49節の言葉から、ふと“安心とはどういうことだろう”と考えさせられます。
 普通、私たちは事の結果が見えたところで安心します。問題が解決して初めて、苦しみや悩みが取り除かれて初めて、私たちは安心します。自分が直面している問題が、抱えている苦しみ悩みがどうなるか分からないから不安になるのです。
 けれども、バルティマイの場合を考えてみると、この時点で彼はまだ、目が見えるようになったわけではありません。ただ、主イエスに呼ばれたというだけです。これからどうなるのか、癒されるのか癒されないのか、まだ分からないのです。それなのに彼は、「安心しなさい」と告げられています。
 それは、目の見えない苦しみ悩みが癒され、見えるようになったから安心、といことではなく、叫び続けているあなたの声がちゃんと届いたから、イエスさまがあなたを呼んでくださっているから安心していいよ、ということです。しかし、「安心」とはまさに、この、主イエスに呼ばれている、神さまから“私”が呼ばれている、ということにあるのではないでしょうか。

 道を求め、救いを求めて求道している時は、自分の方がひたすら神さまを呼び求めています。その声が神さまに届いているのかどうか、なかなか確信が持てない。自分が救われているかどうか分からないのです。
 けれども、神さまを呼び求め続けていると、ある時、ハッと気づかされることがあります。それは、自分だけが神さまを呼び求めていたのではなく、神さまが“私”を呼んでくださっていたということ、神さまが“私”を救いの道へと招いてくださっていたということです。理屈ではなく、そのように確信的に悟るのです。

 別の箇所で、主イエスは弟子たちにも同じように語っておられます。「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ」(ヨハネ15章16節)と。弟子たちが主イエスを選んで従って行ったように見えて、実は人生の、目に見えないもっと深いところで主イエスが弟子たちを選んでいた、神さまが弟子たちを呼び、招いていたという意味です。その意味が、自分が神さまを呼び求めているというよりも、神さまが“私”を呼んで、救いへと招いてくださっていたという恵みが見えるようになります。  
 言わば、それは人生観の逆転、人生の主従関係の逆転です。今までは、自分の人生の主体は自分、“私”だったのです。私が生きていた(来た)のです。もちろん、その通りで何も間違いではありません。けれども、ある時、この主体が“私”ではなく“神さま”に逆転するのです。神さまが私を生かしてくださっていた、そういう“生かされている自分”が見えるようになるのです。

 この、神さまに呼ばれている自分、生かされてある自分が見えるようになると、私たちは、ある種の「安心」を得るのです。生かしてくださる神さまのお計らいにおゆだねする、おゆだねできる安心を得るのです。成功か失敗か、順調か挫折か、そんな“事”の結果にかかわらず、人生の深いところで、おゆだねして安心なのです。
 ちょうどサルの親子とネコの親子を思い浮かべてみてください。サルの子供はお母さんのお腹に必死にしがみついています。自分が手を離したら落っこちます。だから、懸命にしがみついているように見えます。その様子が、自分が神さまを呼び求めている求道生活、信仰生活に似ています。けれども、ネコの子供はお母さんに首根っこをくわえられています。自分では何もしていない、お母さんにお任せです。その姿が、私たちを呼び、救いへと招き、生かしてくださる神さまのお計らいにおゆだねして安心している信仰生活に似ています。
 神さまから呼ばれ、生かされてある自分を知る。だからこそ、“よろしくお願いします”と神さまにおゆだねする。そこに信じる者の「安心」があります。

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 「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ」。そう告げられて、バルティマイは躍り上がって主イエスのところに来ました。そして、見えない目を主イエスに癒していただき、見えるようにされます。そして、最後に何気なく、まとめの言葉が記されています。
「盲人は、すぐ見えるようになり、なお道を進まれるイエスに従った」(52節)。
 何気ない言葉のようですが、私は、この最後の御言葉に深く示されるものがあります。
と言うのは、見えるようにしていただいた者が、その後「道を進まれるイエスに従った」とあるからです。イエス様に救われた者がイエス様に従うのは当然ではないかと思われるかも知れません。けれども、決してそうではないのです。

 ルカ福音書17章11節以下に、重い皮膚病を患っていた10人の人が主イエスに癒される物語があります。しかし、病を癒されたと気づいて、主イエスの許に戻って来て感謝したのは、たった一人でした。主イエスはそれを見て、「ほかの九人はどこにいるのか」と嘆いておられるのです。
 主イエスによって癒された者、救われた者が、主イエスの許に立ち戻り、感謝して主イエスに従うことは、決して当たり前のことではないのです。私たちもまた、苦しかった時のことを忘れ、救われた喜びを忘れ、信仰生活を疎かにし、ともすれば離れていくことだってあるのです。
 けれども、バルティマイは主イエスに従いました。このバルティマイの姿によって、彼の目に見えたものは一体何だったのだろうか、と思い巡らします。彼は癒され、目が見えるようになりました。けれども、見えるようになったのは、単に目の前の風景や人や物だけではなかったと思うのです。聖書において、見えるということには、もっと深い意味が込められています。

 一つには、先ほどもお話ししたように、神さまに呼ばれ、生かされてある自分が見えるようになる、ということです。懸命に神さまを呼び求め、願い続けても、私たちの人生には、抱えている問題が解決されないことも、背負っている苦しみが取り除かれないこともあるでしょう。それでも!、今、神さまに生かされてある自分が見えるようになるのです。成功か失敗か、順調か挫折かにかかわらず、生かしてくださる神が、愛され生かされている自分が見えるようにされるのです。それが、「あなたの信仰があなたを救った」(52節)と主イエスが言われている「信仰」でありましょう。
 そして、もう一つは、自分の進む「道」、自分の従う「道」、つまり自分の“生き方”が見えるようになるということです。神に呼ばれている自分、すなわち、生かされて、今こうしてある自分が見えるようになった。その時、その自分も従うべき「道」もまた見えて来るのです。それは、主イエスが進む「道」です。主イエスのように人を愛する「道」です。愛することによって人を生かす生き方です。自分の従う「道」が見える。それが、あなたを救う「信仰」でありましょう。

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 「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」(52節)。
 神の愛によって生かされてある自分が見えるようにされ、そういう自分も人を愛して人を生かす道を歩む。その歩みがたどたどしくても良い。それが、救われているということなのです。
坂戸いずみ教会 山岡 創牧師
(やまおか はじめ)




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