2008年10月のみことば

良き人生の過ごし方

 「はっきり言っておく。羊の囲いに入るのに、門を通らないでほかの所を乗り越えて来る者は、盗人であり、強盗である。門から入る者が羊飼いである。門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、ついて行く。しかし、ほかの者には決してついて行かず、逃げ去る。ほかの者たちの声を知らないからである。」イエスは、このたとえをファリサイ派の人々に話されたが、彼らはその話が何のことか分らなかった。
                  (ヨハネによる福音書10章1節〜6節)

 イエス様が暮らしていたところは羊が多かったようです。関東では動物園や牧場に行かなければ羊を見ることができません。羊の行動がどうのこうのと言われてもピンとこないかもしれません。イエス様の周りの人々は、羊の事なら何でも知っている者たちです。ですから、イエス様は羊のたとえをよくされました。身近な事なので、みんな良くイエス様のお話を聞き、良く理解できました。

 幸な事に、わたしも高校時代羊400匹いる牧場に一年間ホームスティしていたので、羊のことを少しは知っているつもりです。聖書に書かれている通りだなと思います。夕暮れになって羊たちが羊飼いに連れられて囲いの中に帰っていきます。わたしも手伝った事がありますが、羊を連れてではなく、羊が怖がって滅茶苦茶に走り回っておりました。心臓麻痺で倒れた羊もおりました。それから手伝いはさせてもらえませんでした。羊飼いは、羊一匹一匹の健康状態を診るのですね。わたしたちにはみんな同じ羊にしか見えませんが、彼らには見分けがつくのです。植木や盆栽を育てている人が木の枝ひとつひとつ、葉の一枚一枚を覚えているように、羊飼いは羊のことをよく知っているのです。

 イエス様は羊の羊飼であり、神よりつかわされた唯一の救い主であって、正しく「門から入って」きてメシアとしての業をなされるのです。すなわち、イエス様は、預言に従ってダビデの子孫より生まれた待望のメシアなのです。イエス様をおいて他に救い主はいないのです。わたしたちは、ここにメシアの預言の成就と、メシアの主権と愛を認めなければ成りません。このようにはっきりと聖書を通して教えられているのですが、わたしたちは中々イエス様に全てを委ねる事ができません。自らの価値観の中で、悩み苦しんでしまいます。全てを委ねた時、悩み苦しみから解放されるのです。

 ある教会の信者さんですが、癌が再発してしまいました。信仰弱いわたしでしたら落ち込んでしまいます。ですが、この方はとても明るいのです。肉体は病んでも、精神が健康でなくてはならないと言われ、有言実行されているのです。また、持ち前の明るさで病院の待合室で、多くの癌患者に勇気を与えられておられるのです。70才を過ぎたここまで生かされたことを感謝だとも言われております。ここに全てを神に委ねた生き方があるのではないでしょうか。悩み苦しみから解放され、他の人々に勇気を与えているのです。

 イエス様は羊の名前を呼んで連れ出す羊飼いのごとく、信仰者を召し、選びわかち、この世から連れ出して、死から生命へと移されるのです。救いはわたしたちが勝ち取るものではなく、神の先鞭による召しによってくるものであり、主の弟子たちは「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」(マタイ4:19)に記されておりますように、イエス様の「ついてきなさい」との言葉によって、新しい生涯を踏み出したのです。わたしたちもこのように素直にイエス様の声を聞き、新しい生涯を踏み出したいものです。

 新しい生涯を踏み出すには、主の召命に対して、服従の決断が必要です。自分の価値観に縛られていたなら主の召命に服従できないのです。自分の価値観を捨てる。とても厳しいことです。先ほども申しましたように、わたしが癌になったら動揺を隠せないでしょう。再発などと言われたら引きこもりになると思います。頭では恐れてはならない、全てを神に委ねてとわかっているのですが、有言実行は難しいです。ですが、真の信仰者は「羊はその声を知っているので、ついて行く」のです。

 M.ルターは信仰を、「自分が到達した確信や信念を意味しているのではない」「相手を選ばず、ひたすらに信じていく事でもない」「『信仰』とは、ある人たちが信仰だと考えているような、人間的な妄想や夢ではない」「人の行為や努力によって勝ち取るものではなく、神がキリストにおいて与えられる恵みを、信仰をもって受け取る」ことが必要だと理解しました。聖書に記されているのは喜ばしいおとずれ、福音なのです。だから、悪い事をしてもよいのだと言う事ではなく、「信仰はわたしたちのうちにおける神の業」「信仰とは真に、生きた、勤勉な、活動的な、強力なものであって、絶え間なしによいことをすることができるもの」「信仰とは、神の恵みに対する生きた、大胆な信頼であり、そのためには千度死んでもよいというほどの確信」なのです。

 謙遜な心でメシア、救い主の来るのを待ち望んだ者は、イエス様において旧約の預言の成就を見、またイエス様の業によって救い主であることを知り、意を決して主に従っていくのです。その時、悩み苦しみから解放され、主に感謝の気持ちでいっぱいになり、喜びを持って歩む事ができるのです。このような生き方によってわたしたちは恵みを受けている喜びを感じるのです。自分中心の生き方では、本当の喜びを感じる事は無く、不安と苦痛、悲劇の中から出ることはできません。わたしのように信仰弱い者だと言わずに、素直にイエス様に従いよりよい人生を歩もうではありませんか。
岩槻教会  川中 真牧師
(かわなか まこと)




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