2008年2月のみことば

神が時を備えられる

 エリシャは、かつてその子供を生き返らせてやったことのある婦人に言った。「あなたは家族と共に立ち去り、住める所に移り住みなさい。主が飢饉を呼び起こし、それはこの地にも及んで七年も続くからだ。」 婦人は直ちに神の人の言葉どおりに行動し、家族と共に立ち去り、ペリシテ人の地に七年間住んだ。七年たってから、その婦人はペリシテ人の地から帰り、王のもとに自分の家と畑の返還を求めて訴え出た。そのとき、王は神の人の従者ゲハジに話しかけ、「エリシャの行った大いなる業をすべて語り聞かせてくれ」と言っていた。神の人が死人を生き返らせたことをゲハジが王に語り聞かせていると、ちょうどそのとき、かつて子供を生き返らせてもらった婦人が、自分の家と畑のことで訴えに来たのであった。ゲハジは、「わたしの主君、王よ、これがその婦人です。またこれがその子で、エリシャはこの子を生き返らせたのです」と言った。婦人は王の求めに応じてその事実を語った。そこで王は彼女のために、一人の宦官に次のように命じた。「この婦人の物をすべて返しなさい。またこの地を後にした日から今に至るまでの畑のすべての収穫も返しなさい。」
               (列王記下8章1節〜6節)

 神のことばは私たちの魂を生き返らせ、私たちに生きる力を与えてくれます。 また、「何事にも時があり  天の下の出来事にはすべて定められた時がある。」(コヘレトの言葉3章1節)
 神から出る神のことばはむなしく神のもとに戻ることなく、必ず神の御旨をなしとげる(イザヤ55章11節)とあるように、神は約束されたものを受け継ぐ人々に、御自分の計画が変わらないものであることを、はっきりと示したいと考え、それを誓いによって保証なさったのです(ヘブライ6章17節)。今テキストに登場するシュネムの婦人も、神の預言者エリシャが語ったことばに忠実に従った人でした。

 時代はイスラエルの統一王朝がソロモン王の死後、南北に分裂し、背信の王たちの中でも最も悪を行ったとされるアハブ王の息子王代の北イスラエルに於いて(紀元前842年頃)、と推定し得ます。
 1節にエリシャがその婦人の息子を生き返らせたとありますが、それまでのいきさつは少し前の同4章8〜37節にあります。神の人エリシャをもてなし、休息の部屋まで準備してくれた裕福なシュネムの婦人の親切に応えようと、子供がいなかった婦人に子供が授けられました。ところがその子は少し大きくなってから急に死んでしまったのです。その時、婦人は夫にその子の死を告げず、従者を強いて急いで神の人エリシャのいるカルメル山まで片道25qを行き、息子の急変を知らせるべくその足にすがりつきました。「主は生きておられ、あなた御自身も生きておられます。わたしは決してあなたを離れません(列下4章30節)」と訴える婦人の強い信仰をここに見ることができます。エリシャはその言葉を聞いて同行し、神への祈りと厳しい現実への直接行為によって子供は生き返り、婦人はその腕に再び生き返った子供を抱くことができました。

 その婦人に、エリシャがこの地に飢饉が主によって起こるから別の地に7年間家族と共に移り住むようにと言ったので、婦人は直ちに神の人エリシャの言葉どおりに行動し(2節)、7年後に帰ってきました。しかし、「王のもとに自分の家と畑の返還を求めて訴え出た(3節)」とあります。婦人は帰ってきて、当然自分の家に住み、以前のように畑を所有して暮らせると思っていたことでしょう。ところが留守の間に、事情が変化していて婦人の納得できるものではなかったようです。王の管理下に置かれていたのかもしれません。婦人は王に直訴をしました。以前の断固とした決断による行動は再び婦人と共にありました。それは神の人エリシャが語った神のことば通りに従った故の結果だったからです。
 時おりしも、エリシャの従者ゲハジが王のもとにおり、しかも「エリシャの行った大いなる業をすべて語り聞かせてくれ」と、王がゲハジに話しかけ(4節)、ゲハジが、かつて神の人が死人を生き返らせたことを王に語り聞かせている時でした。ちょうどその時に、婦人は王のところに訴えに来たのでした(5節)。

 私たちの主イエスが、私たちの罪のために犠牲の仔羊となられて十字架に架けられ、死んで葬られた時、三人の主を愛する女性達は週の初めの日の朝ごく早く墓にいきました。「だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」と話し合っていた(マルコ16章2節)とあります。ところが、目を上げて見ると、石は既にわきへ転がしてあった(同4節)のです。女性達が計画し実行しようとしたことは、神への捧げものの行為で、神の喜ばれることであったと思います。女性たちの抱えていた問題----その墓には大きな石が入り口を塞ぐ為置かれていて、女性では動かせ得ない物でした----が、既に石は脇に転がしてあったのです。問題は既に解決されていました。私達が神の御旨に適って行動する時、神も共にあって困難を解決して下さるのです。

 今年1月、私はイスラエルに行く機会を得、園の墓にも行って参りました。現在、石はすっかり取り除かれて影も形もなく、“He is not here. He has risen!”と入り口の内側に文字が掲げられています。
 今日、問題は墓にではなく、復活の命にいかに生かされるかということではないでしょうか。
神が準備された時というのは、このようなジャストタイムであると思います。そして、既にその時シュネムの婦人の問題は解決される準備が整うまでになっていました。婦人は王の求めに応じて、エリシャに息子を生き返らせて貰った事実を語り、続いて家と畑の返還も訴えたことでありましょう。主のことばに従った婦人は家と畑の他に、その地を後にした日から今に至るまでの畑のすべての収穫もという恵み付きで返して頂けました(6節)。問題は全て解決したのです。

 人の生死に関わる問題は今も昔も変わりなく、人々の最大の関心事ではないでしょうか。命は神のみが取られ、また与えられます。人はそれを自分でどうすることもできません。それ故に主の復活に私達は望みを置き、主イエスの復活の命に生かされていることを喜びます。
 かつて神の人エリシャが甦らせた子供の命は、信仰によって行動したシュネムの婦人に確信を得させ、今また、その死から命に移された子供の話を語ることで、大きな感動と信仰が王の心に与えられたことでもありましょう。 このように、信じ見た者は、主イエスの死を告げ知らせる者であり、それによって人々に感動と信仰を呼び起こす者でもあるということです。

 神は時を用い、王を通して働かれ、神の義が主を信じる者に現わされました。婦人は平安を得て自分の家に戻り、安心して生活できる経済をも与えられました。私たちが神のみことばに聞き従う時、全ては神の御手の中に握り締められています。それ故の守りと祝福は今日も私たちと共にあります。
 お祈りしましょう。

東京聖書学校吉川教会  岡田はるみ伝道師
(おかだ はるみ)




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