2007年9月のみことば

あなたは幸せな人ですか?

 「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」
                (ヨハネによる福音書14章6節)。


 周りの人から、自分は宗教に関心がないという話で困ったことがあります。今日本で一時的に起きる社会的な現状だと思います。一部の新興宗教グループの、反社会的な犯罪、あるいは一般的な常識を超えた行動からくる当然の反応だと思います。けれとも宗教自体に関心が無いという話は自分の霊性を否定する話です。人ならば誰でも宗教的な本能を持っています。人ならばいつか死ぬ存在であり、この限界意識を持っているのです。死を克服できない絶望感は誰でも持っています。知識的にも道徳的にも、自分の能力についての限界意識を持っています。強い足と、星のように光る目と、弾力的な胸と、一つのしわの無い顔にも、死の影はだんだん来るのです。結局人の体は土に戻る存在なのです。風に飛ぶ灰に戻るのです。これは人間実存の孤独であり、絶望なのです。この絶望と孤独から人々は神の前に来るのです。それで信仰は贅沢なものではなく、人生にとって必需品なのです。人が持っている限界意識は、宗教意識なのです。死ぬしか仕方の無い存在であっても、死なないで永久に生きたい。できないけれども、もっと高いレベルの道徳的な存在になりたい。悩みや苦しみがあっても幸福な人生になりたい。というのは、宗教的な本能なのです。

 フランスの哲学者ボルテールが死ぬ時でした。急いで来た医者に泣きながら頼みました。「先生、私の命を六ヶ月延長してください。そうすれば私の命の値段の半分を謝礼としてお支払いします。」医者は静かに答えました。「もしかしたら、六週間くらい生きられるかも知れません。」これを聞いたボルテールは「俺は地獄に行くのだ」と言いながらこの日、息を引き取りました。フランスの知性を代表した存在で、神は存在しないと言いながら、けっこう成功した人生でした。しかし、死の前で分かるようになった宗教的な本能は、無力な自分の存在を示したのです。

 永久の命は死んだ後で起こる将来のことだけではなく、今起こっている現在のことでもあります。ルカの福音書17:20と21で、「ファリサイ派の人々が、神の国はいつ来るのかと尋ねたので、イエスは答えて言われた。「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」とあります。またルカの福音書12:15には、「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである。」とあります。

 赤ちゃんがベッドの上で激しく泣いていました。色々なおもちゃを見せたりあげたりしても、泣き止みませんでした。おいしいあめも口に入れてみましたが、泣き止みませんでした。その時おかあさんが来て、すぐ赤ちゃんを抱き上げておっぱいを赤ちゃんの口に入れました。するとあかちゃんはすぐ静かになって平和な顔でおっぱいを飲みました。母のおっぱい以外はどんなことも赤ちゃんを泣き止ませることはできませんでした。同じことです。人というのは、神の前に来る前は幸福はありません。人生の苦しみも、この世で解決出来ません。人生は神の国を故郷として生まれたからです。

 人は神の形どおり造られたといわれています。神の形というのは、体の形より霊的な存在であるということです。わかりやすく心という言葉をよく使っていますが、もっと正確に表現すれば、心よりもっと奥深くにある、もう一人の自分の存在が霊的な自分の姿なのです。人は霊性を持っている存在なのです。そして、神の前に来るまでは、人は不安定な存在なのです。ヨハネの福音書14:6で、「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」とイエスが言われています。また、11:25と26では、「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」と言われています。

 あなたは幸せですか?イギリスの有名な説教家スポルジョンが死ぬ直前に残した言葉です。「神様、本当にすばらしい旅でした。今からはもっとすばらしい旅になると信じています。」あなたは霊的な存在です。神の前に来るまでは、あなたは本当に幸せになりません。
朝霞教会  韓泰帥牧師
(ハン テースー)




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