2007年7月のみことば

神の栄光を現そう

「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。だから、これらの最も小さな掟を一つでも破り、そうするようにと人に教える者は、天の国で最も小さい者と呼ばれる。しかし、それを守り、そうするように教える者は、天の国で大いなる者と呼ばれる。言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない。」「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。だから、あなたが祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい。あなたを訴える人と一緒に道を行く場合、途中で早く和解しなさい。さもないと、その人はあなたを裁判官に引き渡し、裁判官は下役に引き渡し、あなたは牢に投げ込まれるにちがいない。はっきり言っておく。最後の一クァドランスを返すまで、決してそこから出ることはできない。」
           (マタイによる福音書5章17節〜26節)

(1)聖書と道徳教育
 わたしたちは新しい年度を迎えて、いよいよ地域の伝道に覚悟を決めて取り組むようにしたいと思います。このために、わたしたちのなすべきことは多くあるでしょうが、わたしたちが深く認識し、その上に立つべき基礎があるはずであります。それは神の律法であります。主イエスは、「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するために来たのだ、と思ってはならない。完成するためである」(5:11)と仰せになった意味をわたしたちは常に心に刻みつけている必要があります。

 今日の日本社会は外見上は平和で、繁栄しているように見えますが、その内部の病状は進んでおり、様々な弊害が現れています。犯罪や詐欺、汚職、選挙違反、自殺者の増加、また出会いサイトの被害や、性的犯罪、家庭内暴力、その他環境汚染や公害の問題など、多くの暗いニュースが毎日報道されています。これは精神的な道徳的な面での貧困さの表れではないでしょうか。
 このことに多くの人々は憂慮し、教育の改革が必要であると政府も盛んに宣伝しています。安倍内閣は特に道徳教育に重点を置いた教育改革を推し進めようとしています。そこに改めてよく考えなければならない問題が潜んでおります。それは何かと申しますと、道徳と宗教との関連の問題です。人間は社会を離れては生きられない者ですから、道徳や倫理は人間社会の秩序を保つための良識に基づいた教えであり、それは理性や知性の造り出したものであると考えている人たちが多いのですが、それは心の問題であり、人間の良心と深く結び付いていますので、単に合理的な判断の事柄であるとは言い切れません。そこに道徳と宗教との深い関係があります。そのような道徳の基礎は、宗教ではなく、哲学であるという人々もいますが、哲学ではその問題は解決しない深さと広さとがあります。
 なぜならば、この世界と人類を創造された神と人間との関係の中で、道徳は存在するからです。人間が神の前に立って、神から人間の良心に呼びかけられていることに気づくとき、そこに初めて人間が人間としての自覚と、人間に与えられた人格に目覚め、神が欲せられる人間関係としての道徳を知ることができるのです。そのときに、人間は初めて、日本人や韓国人やアメリカ人や、どこの国民であっても、人間として共通する道徳的な規範を持つことができるのです。

 安倍内閣の道徳教育は復古調であり、日本の古くからの良き文化や伝統を大切にしようと考えていますが、日本政府が戦前に強要してきたものは、日本の国体が他の諸国とは異なり、日本国は「神国」であると信じる「日本教」を基礎とした道徳教育でした。そのような日本教とは日本書紀や古事記の神話に基づいた宗教であり、多くの国家や民族が共存する国際社会に通用することはできません。このことを十分に考慮しますと、本当の意味での愛国心を育成する教育は、そのような「日本教」によっては最早不可能である、これからの教育は決して過去に戻ることはできないのだ、ということを今日の日本人が自覚する必要があります。

 真の神、唯一の神、この世界と人間の創造者である神、同時にまたその救済者である神が与えられている道徳が世界の万人に通用する道徳の基礎なのです。聖書はこのことを示しています。だから、聖書は決して古代の書物ではなく、常に現代的な書物であることをわたしたちクリスチャンはもっと自覚する必要があります。他方、天地の創造者である神は歴史の始まるよりずーと昔に世界を造られたので、それ以後、世界は世界に内在する法則に従って動いているのだ、という考え方もありますが、それは聖書の見方ではありません。それは哲学や科学の立場なのです。聖書の信仰は神の創造の業が世界が始まった時だけでなく、現在も続いており、神は摂理によって、この世界を支え、導き、支配しておられることを信じるのです。聖書の神は決して神話の神々ではなく、創造者であり、主権者であります。活きて働き、歴史を支配しておられる唯一の神なのです。従いまして、この世界の創造者であり、主権者である神の言葉を記した聖書は、常に現代的な意味を持っています。
 要するに、今日のクリスチャンはこのことをよく理解するならば、生活の中で信仰の力を一層発揮するようになる、と思います。

(2)神の律法
 ところで、主イエスは「神の律法」を成就するためにわたしは来たのであると仰せになりましたが、主エイスがお教えになった神の律法は、パリサイ派の人たちがお教えていた律法を遙かに超えたものでありました。

 山上の説教において、主イエスはモーセの十戒を解釈して、それを一層霊的に高めておられます。皆さんがご承知のように、十戒とは神と人との関係を規定している神の命令でありますが、主イエスは特に、人間と人間の関係を規定している六つの戒めを更に一層内面化されました。極めて具体的な言葉で、次にようにお教えになりました。
 「殺してはならない」という第六の戒めについて、「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける」と仰せになりました。イエスはここで、身体的な殺害を超えて、兄弟に腹を立てる者は、心の中で兄弟を殺す者である、そのような者は神さまの裁判を受ける、(5:21)と教えられたのです。

 勿論これは極端な言い方だ、と疑問を感じる人は可成りいると思いますが、イエスが兄弟に対して腹を立てることが、良くないと言われたのではなく、兄弟の人格を否定するような怒りは兄弟を殺すことである、と言われたのです。つまりそれは、根にもって兄弟に危害を加えようとするような怒りを指しています。先日、長崎の伊藤市長を殺害した暴力団員は自分がその株主である解体作業を行っている会社に市の融資が受けられなかったことに腹を立て、遂に市長を殺害しました。しかし、必ずしも怒りが殺人に至るとは限りません。たいていの場合に自制心が働き、犯行を思い止めるケースは多いのですが、それにしても殺してやるという怒りを抱くことがすでに、神の前では犯罪である、と主イエスは教えられたのです。
 また、不正を為す者に対して、抱く正当な怒りもあります。しかし、この場合でも不正に対しては断固として拒否しながら、他方で人間として見る場合に、相手を赦す心がなければならない、と教えられたのです。また、最近のいじめの問題もその人の人格を否定する悪辣な言葉を周囲の友だちから浴びせかけられるので、いじめられた子供が追いつめられて、自殺するという悲劇を招いています。そのようないじめは、神の前で犯罪である、とイエスは教えられたのです。
 また、「姦淫してはならない」という第八の戒めについては、「あなたがたも聞いているとおり、『姦淫するな』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。」(5:27)と教えられました。

 このように主イエスはモーセの十戒をさらに掘り下げ、それは人間の心の中の思いを照らしだし、その思いを規制する戒めである、と言われました。
 さらに、十戒だけでなく、旧約聖書の中にあるその他の律法を取り上げ、「あなたがたも聞いているとおり『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し自分を迫害する者のために祈りなさい。」(5:43)と教えられました。 そしてイエスはこれらの戒めを総括するものとしての愛について、次にようにお教えになりました。それは7章12に記されています。これはいわゆる黄金律と呼ばれている戒めです。
 「だから、人にして貰いたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である。」
 
 以上のように主イスが教えられた教えをわたしたちが実行しますならば、わたしたちクリスチャンは神のみ栄えを現すのであります。
このことをハイデルベルグの信仰問答は特に強調しています。
 問86で、「わたしたちは恵みによって、キリストを通して、功績によらないで、救われています。それなのに、なぜ良い行いをしなければならないのですか」という問いを提出し、その答えとして、次の三点を挙げています。
 第一は、キリストの贖いにより、聖霊の働きを通して、神がわたしたちをキリストの似姿に回復してくださっているので、わたしたちは良い行いを、実行するのです、ということです。
 第二は、クリスチャンのなす良い行いは、あくまで神への感謝を現し、神を賛美するためです、と言っています。
 第三は、良い行いによって、自分の信仰を確信することができ、更に、我々の隣人をキリストに導くためです、と言っています。

 このようにハイデルベルグ信仰問答は、わたしたちがキリストの教えを実行して善き業を行い、神に対する感謝を言い表すならば、そのことが隣人をキリストに導く伝道の働きなだ、と教えています。
 わたしたちは自己の能力ではなく、聖霊を通して働くキリストの贖いによって、わたしたちは善き業をすることができるのです。ハイデルベルグ信仰問答はそのことが伝道である、と教えています。
 地域に対する伝道という視点から、わたしはこのことが特に必要だ、と思います。
 さらに広い観点から見ますと、人間が神さまから命じられている道徳を実行することが、人々の間で、そして社会の中で、互いに理解と協調をそして平和を造り出すということが、今日の人間が最も必要としている事柄なのです。

(3)命の泉
 最後に、主イエスはわたしたちが善き業を行い、隣人を愛することを可能にする「命の泉」であります。

 宗教改革者ルターは、神の愛は「溢れ出る愛」であると言いました。しかもその愛の泉は主イエスなのです。わたしたちは主イエスを信じ、主イエスと人格的に結び付くときに、わたしたちの心の中に神さまは聖霊を通して、御自身の愛を注がれるのです。
 その神の愛はわたしたちが隣人を愛する愛として、すなわち、黄金律の戒めを実行する愛として、わたしたちから、隣人に向かって流れ出ていくのです。隣人を愛するとは、すなわちわたしたちが隣人の役に立つために自分の力と知恵を尽くして労苦することです。
 その結果、わたしたちの中は再び空になってしまいますので、もう愛することはできないというような気持ちになります。しかし、神の愛はわたしたちの心に溢れ出るので、再びわたしたちは感謝と喜びをもって、隣人に向かい、その愛を隣人に注ぐことができるのです。

 主イエス・キリストはわたしたちに祈るように命じられました。先ほど引用しました黄金律のところで、主イエスは先ず祈り求めなさい、そうすれば与えられる、と仰せになっています。
 「求めなさい。そうすれば与えられる。探しなさい。そうすれば見つかる。門を叩きなさい。そうすれば開かれる」(7:7)
 神は主イエスを通して、祈る者に神の愛を聖霊を通して、常に注ぎ込まれるのです。この関連を12節の「だから」という言葉が示しています。この言葉は非常に小さな言葉ですが、非常に重要です。わたしたちは祈るとき、必ず与えられるのです。そして隣人ために祈ることによって、神の愛がわたしたちの心に湧き出るのです。それ故に、わたしたちは愛を実行し、神の栄光を現すことが可能なのです。

三芳教会  中山弘隆牧師
(なかやま ひろたか)




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