2007年4月のみことば

気前よく自由に生命を与えるキリスト・イエス

 「天の国は次のようにたとえられる。ある家の主人が、ぶどう園で働く労働者を雇うために、夜明けに出かけて行った。主人は、一日につき一デナリオンの約束で、労働者をぶどう園に送った。また、九時ごろ行ってみると、何もしないで広場に立っている人々がいたので、『あなたたちもぶどう園に行きなさい。ふさわしい賃金を払ってやろう』と言った。それで、その人たちは出かけて行った。主人は、十二時ごろと三時ごろにまた出て行き、同じようにした。五時ごろにも行ってみると、ほかの人々が立っていたので、『なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか』と尋ねると、彼らは、『だれも雇ってくれないのです』と言った。主人は彼らに、『あなたたちもぶどう園に行きなさい』と言った。夕方になって、ぶどう園の主人は監督に、『労働者たちを呼んで、最後に来た者から始めて、最初に来た者まで順に賃金を払ってやりなさい』と言った。そこで、五時ごろに雇われた人たちが来て、一デナリオンずつ受け取った。最初に雇われた人たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思っていた。しかし、彼らも一デナリオンずつであった。それで、受け取ると、主人に不平を言った。『最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは。』主人はその一人に答えた。『友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。』このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。」
           (マタイによる福音書20章1節〜16節
)

 私たちはこの世に生まれたからには、何か大切な働きをして、意味のある人生を送りたいと思っています。 だが、働きをするためには、雇ってくれる者がいなければ働けません。自分で働きたくても、働くところがない人がいます。障害者や高齢の者、能力のない者、差別されている者、病気の者、弱い者は雇ってもらえません。たとえ、うまい具合に雇われても、本当に必要な賃金がもらえないのです。

 上の聖書に、イエスが言われた「天の国のたとえ話」があります。そこには不思議な雇い主が出てきます。天の国とは、神(の子イエスキリスト)との交わりが与えられ、神と共に生きる国をさしています。ある主人は神様であり、キリスト・イエスです。働いた結果もらえる一デナリオンは一つの家族がその日生活するのに必要な賃金のことであり、神の永遠の生命なのです。何が不思議かと言うと、朝から夕まで仕事にありつけない人を、何回も出て行って、だれでも雇う雇い主が、ここにいるからです。しかも、十二時間働いた長時間勤務の人たちにも、一時間しか働かず、ほとんど働きのなかった人たちにも、同一賃金を払う雇い主だからです。まさか!そんな事が!と思います。さらに、この雇い主は支払いの時に、長時間働いた人たちに先に払えば何の問題も起きなかったのに、ぶどう園の監督に命じて、あろうことか、一番働きの少ない人たちを優先して、お金を支払わせるのです。これでは、不平がでるのは当然です。でも、ねたみを買おうと、働けなくて、最後になった人たちから先に与えたいのだと、雇い主のやりたい自由を平然と押し通します。これは一体どうなっているの?と思います。

 神の子、救い主のイエスさまは、こんなとんでもないたとえ話をされます。何とまあ!まさか!と驚くような、気前のよい、自由なそして強い思いを行う主人の話ではありませんか!一時間しか働かないのに、本当に必要な家族に充分なものを与えたり、とても働きができない者にも雇い口を与えたり、最後になっている者たちを優先したりする雇い主。でもここで、もし自分が長時間労働した者だったら、がまんならない不平を持ちますが、ひょっとして、まさか!働くところがなく、その日の生活に困っている者が自分だったらどうでしょう?最後に雇われ、しかも優先して、充分な金を払ってもらったら。何とうれしい!感謝感激!飛び上がって踊ってしまいます。

 わたしはある特別養護老人ホームで九十数歳の女の人と、この聖書の話をすることがありました。この年まで好き勝手に生きてきた方で、ホームの医者には「あなたが医者なら、医師免許を見せなさい!そうでないと、診てもらわないよ」などと言う人で、そのホームには自分より年上の人がいないので、人生何でも知っているというように、思いのままに振る舞まっていました。何度か話をしているうちに、この人は「この雇い主は、九十過ぎたわたしを本当に雇ってくれるんだろうか?」と問うようになり、やがて洗礼を受けて、キリスト・イエスによって生きる者となりました。大変喜んで生き、人生に本当に必要なものを与えられたといい、喜びをもって死なれました。人生長く生きたけれど、思い通りやってきたけれど、自分を本当に雇ってくれる者に出会わず、生かして生命を与えてくれる者に出会わなかったので、死を前にして心の底ではさびしく悲しく、横柄にふるまって生きておられたのでしょう。一時間しか働けなかったけれど、喜びに満たされて、いのちの望みを持って人生を終えられました。

 神の子としてこの世に来られたキリスト・イエスが神を神とも思わず、人を人とも思わないで好き勝手に生きてきた自分のために、最低の人とされ、残酷で、血だらけのすさまじい十字架にかかって死なれた。そして、そのどん底から父なる神によってよみがえらされ、今も生きて働いておられるイエスさまが、自分を雇ってくださり、命を満たしてくださったことが、最高に嬉しかったようです。

 ところで、私の子供の一人は交通事故で重い障がいを負い、誰も雇ってくれそうもないことが分かっていますが、にもかかわらず、今、キリスト・イエスに雇われて、喜んで生きています。こう書いている私自身も、とても雇ってもらえないどうしようもない者であるのに、キリスト・イエスが雇ってくださり、働きもないのに支払いとしての命をもらい、感謝感激している者です。
 人間は、本当に自分中心なもので、雇われたならば、何か自分が偉い働きをしていると思い込んでしまいますし、雇われないでいると、「なぜ、誰も雇ってくれないのか」と、落胆しあきらめてしまいます。

 神の子キリスト・イエスは誰もが感謝感激して生きることができるように、私たちすべての人間のため、神によって計画された救いの実現のため、また、人間が神を神様と認めたくないねたみ(罪)のため、神と人から捨てられ、殺される十字架の刑を受けられました。最低だと言われている人の、自分を最低だと思っている人の、なお下に、キリスト・イエスが降ってくださったことにより、神は引き上げ、復活させられたので、今も、私たちを雇い、雇おうとして出かけてくださるのです。
 私は他よりもましな者と思い込み、自分以上と思う人にはねたみ、以下だと思う人を見下げて生きている私たちをキリスト・イエスは下から支えて雇ってくださいます。神を神様と認めない私たちの罪を信頼の出会いによって赦し、命を与えて、本当に生かそうと働いておられます。

 例外なく死に向かい、限られた人生を歩む者たちを誰でも雇い入れ、聖書や教会を通して、キリスト・イエスは新たに雇い入れようとして働いておられることをあなたに知らせたいのです。聖書を読み、近くの教会を訪ねてみてください。そうすればきっと、このたとえ話のような、まさかと思うイエス様の逆転劇を、あなたも身をもって知り、喜ぶ人となるでしょう。

日野原記念上尾栄光教会  山野忠男牧師
(やまの ただお)




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