2007年3月のみことば

キリストの平和

 わたしは、あなたがたといたときに、これらのことを話した。しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。『わたしは去って行くが、また、あなたがたのところへ戻って来る』と言ったのをあなたがたは聞いた。わたしを愛しているなら、わたしが父のもとに行くのを喜んでくれるはずだ。父はわたしよりも偉大な方だからである。事が起こったときに、あなたがたが信じるようにと、今、その事の起こる前に話しておく。もはや、あなたがたと多くを語るまい。世の支配者が来るからである。だが、彼はわたしをどうすることもできない。わたしが父を愛し、父がお命じになったとおりに行っていることを、世は知るべきである。さあ、立て。ここから出かけよう。」
             (ヨハネによる福音書14章25〜31節)




 「最後の晩餐」は、特にキリスト教国において、多くの画家や芸術家たちが繰り返し作品のテーマにしてきました。ヨハネ14章は、その最後の晩餐の席で、イエスが弟子たちになさった教えの数々です。
 イエスは、ご自分が十字架にかけられるときが近いことをご存知でした。後に残されるまだまだ未熟な弟子たちに、「事(十字架の出来事)が起こったときに、あなたがたが信じるようにと、今、その事の起こる前に話しておく」(29節)と、言葉を尽くして教えられます。「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない」(27節)。この約束は、後のキリスト教会、つまり私たちに向かって語られた言葉でもあるのです。

 この世は素晴らしいだけのものではなく、人の一生はけっしてばら色だけのものではありません。願い通りに事が運ぶことはめったに無く、かえって次から次に問題や気苦労が起こってきます。経済的なこと、家庭や職場での人間関係、健康や将来の不安・・・これでもかと言うくらいそれは次々と起こってきます。
 それだけではありません。毎日のニュースのなんと殺伐としていることでしょうか。弱いものへの虐待、理不尽な殺人強盗、世界を見ればあちこちでテロが起こり、そのテロを制するという名目で戦争が起こります。

 こんな中で、キリストが残された「平和」がいったいどこにあるのでしょうか? 「世が与えるように与えるのではない」なら、いったいどのように与えてくださるのでしょうか?
 キリストの平和は、キリストが十字架につけられ、復活され、父のもとに帰られることによって与えられます。それは人の罪が贖われ、神との平和が回復し、わたしたちの心に、真の平安があたえられることなのです。
 この世も平和や平安を与えることは出来ます。経済的な安定、高い社会的地位、健康、平和な家庭・・・そういったものはこの世において快適さや安定した生活を約束してくれます。
 しかし、世が与える平和は確かなものではありません。いつでも無くなります。いつでも崩れ去ります。ですから財や権力をその手に握り締めながらも、いつそれが奪い去られるか、無くなってしまうかと、人は不安で心を騒がせ、脅えていなくてはならないのです。
 人はどんな中にあっても、心の中で平和を渇望しています。人がまだ罪に陥る前、神が造られたすべてのものを眺めながら「全てよし」と満足された時の平和と自由を、罪にまみれながらも覚えていて求め続けているのかもしれません。
 
 その求めを満たすべく、多くの宗教や思想が生まれました。しかしイエスは「わたしの与える平和は、そのような世の与える平和とは違う」とおっしゃいます。どう違うのでしょうか?
 それは、罪の問題を抜きにしては考えられません。

 人は神に背いて平和を失いました。この神との関係修復なくして真の平和は得られないのです。神との平和を阻む人間の罪・・・これを贖い、神との平和を回復するには、まったく罪の無い、神の独り子の血が必要だったのです。イエスは私たちの罪を全て引き受け、十字架にかかり死んでくださいました。

 私たちがいつも不安で心騒ぎ、心満たされないのは罪があるからです。
 罪は私たちに利己的な考えを起させます。戦争の悲惨さをよく知りながら、平和を願いながら、それでも武器を作り、核兵器を作りそれを売るのは、怪物となった利己主義です。
 そういう国の指導者や関係者は、多くの場合、もうけた莫大なお金で、自分たちの入る核シェルターを作っていると聴きます。自分さえ、あるいは自分の家族さえよければそれでいいのでしょうか。核で不毛となった、誰もいない地球に生き残ったとしても、いったいどうするつもりなのでしょう。

 この世には歴然とした不平等や矛盾があります。若い頃の私はそれが許せませんでした。人の幸不幸は富んでいるか貧しいかの違いにあると思い、貧富の差の原因は経済の仕組みにあると思い、人が平等で、平和で自由な社会にするためには革命しかないと思い込んでいました。
 しかし、人間社会の不平等や矛盾は、人の知恵や力ではどうにもならないのです。社会の矛盾も悲惨さも、人間の罪の問題を抜きにしては本当の解決は無いのです。
 今思うと、社会の矛盾を正したいと意気込んでいた若い日の自分も、真に願っていたのは、自分の立身出世だったのではないかと思います。

 イエスは、「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない」と言われます。世が与えるような、脆い、不安定な平和ではなく、「キリストの平和」を与えてくださる。
 私たちは何かが起こると、自分にとって都合のよいことが解決であり恵みだと思ってしまう。しかし、現実はそうはいかない。そうすると心が騒ぎ、悩み苦しみ、誰かを恨みたくなる。
 イエスはそんな私たちの罪を全て背負い、十字架にかかって死んでくださいました。
 そのことを感謝し受け入れ、イエスを救い主を信じるとき、私たちの罪は全て赦され、利己的な考えから解放されるのです。何か事が起こっても、自分の都合のよい解決を望むのではなく、主のなさる道こそ最善であることを信じ、すべて主に委ねることができる。その時、「キリストの平和」が私たちを満たしてくれるのです。
 それはどんな外的な力も奪えない内的な平和です。どんな中でも、動揺の無い落ち着きと、あらゆるものに心を開き、柔和で、確信に満ちた生き方のできる平和です。もう何も怖れない。もう何も恐くない。ただ感謝で、喜びが溢れてくるのです。

 しかしこの世を支配しているのは悪魔です。悪魔はこの「キリストの平和」私たちから奪いとろうと、虎視眈々と狙っています。
 しかし、「彼(世の支配者=悪魔)はわたしをどうすることもできない」(30節)とイエスはおっしゃいます。なぜなら、一見この世は悪魔の支配下にあるように見えても、その実、実際に行われているのは悪魔の意志ではなく、父なる神の御意志だからです。
 悪魔から見れば、イエスを捉え殺すことは、自分の思惑通りに事が進んでいると思えたでしょうが、事実は神の救いの御業の完成です。イエスの十字架は、サタンの敗北、神の勝利を意味するものでした。

 イエスは、「しばらくすると、世はもうわたしを見なくなる」(19節)と言われましたが、これは弟子たちだけでなく、イエスが地上におられない世で信仰を持って生きていく今の私たちに向けられた御言葉でもあります。
 もし私たちの信仰生活が喜びのない惰性的なものだとしたら、いつでも心騒ぎ不安に襲われているとしたら、私たちが追い求めているのは「キリストの平和」ではなく、「この世の平和」なのではないでしょうか。

 イエスは、「わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者」だと言われました。愛は掟を守るのです。喜んで守るのです。
 イエスの掟とは何でしょうか? 聖書のメッセージ、「神を愛しなさい、人を愛しなさい」ということです。キリストがあなたを愛されたように、教会を愛しなさい、妻を、夫を、子を、親を愛しなさい、友人を、同僚を、隣人を、世界を愛しなさい。
 父なる神が御子を遣わされ、十字架にかけて私たちの罪を赦し、和解の手を差し伸ばしてくださったように、私たちも自分から、自分の周りにいる人々に手を差し伸べ、キリストとの平和を分かち合っていきましょう。
 キリストの平和のあるところ、そこはこの世にありながら神のいましたもう天国となるのですから。
西川口教会  永本慶子牧師
(ながもと けいこ)




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