2006年9月のみことば

安心していけ

 さて、あるファリサイ派の人が、一緒に食事をしてほしいと願ったので、イエスはその家に入って食事の席に着かれた。この町に一人の罪深い女がいた。イエスがファリサイ派の人の家に入って食事の席に着いておられるのを知り、香油の入った石膏の壺を持って来て、後ろからイエスの足もとに近寄り、泣きながらその足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛でぬぐい、イエスの足に接吻して香油を塗った。イエスを招待したファリサイ派の人はこれを見て、「この人がもし預言者なら、自分に触れている女がだれで、どんな人か分かるはずだ。罪深い女なのに」と思った。そこで、イエスがその人に向かって、「シモン、あなたに言いたいことがある」と言われると、シモンは、「先生、おっしゃってください」と言った。イエスはお話しになった。「ある金貸しから、二人の人が金を借りていた。一人は五百デナリオン、もう一人は五十デナリオンである。二人には返す金がなかったので、金貸しは両方の借金を帳消しにしてやった。二人のうち、どちらが多くその金貸しを愛するだろうか。」 シモンは、「帳消しにしてもらった額の多い方だと思います」と答えた。イエスは、「そのとおりだ」と言われた。そして、女の方を振り向いて、シモンに言われた。「この人を見ないか。わたしがあなたの家に入ったとき、あなたは足を洗う水もくれなかったが、この人は涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でぬぐってくれた。あなたはわたしに接吻の挨拶もしなかったが、この人はわたしが入って来てから、わたしの足に接吻してやまなかった。あなたは頭にオリーブ油を塗ってくれなかったが、この人は足に香油を塗ってくれた。だから、言っておく。この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない。」 そして、イエスは女に、「あなたの罪は赦された」と言われた。同席の人たちは、「罪まで赦すこの人は、いったい何者だろう」と考え始めた。イエスは女に、「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」と言われた。
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ルカによる福音書7章36節〜50節)


 主イエスは、ある町に立ち寄られます。聖書を遡っていきますと7章11節のところで「ナイン」という町に立ちよられた、という記述がありますので、このある町とは恐らくナインでありましょう。ナインは、ナザレの町の南東側に位置する小さな町です。ナインの町の北側には「タボル山」がそびえ立っています。このナインという町で主イエスは、とあるファリサイ派(律法学者)の人から食事の席に招かれます。この主イエスがファリサイ派の家で食事をされるという話しは、瞬く間に小さなナインの町に広まります。だから、その事を耳にした一人の女性がいたという事は、全く不思議なことではありません。この女性は、37節によると「罪深い者」とされています。しかし、聖書は、この女性がどんな罪を犯したのか、と言うことについては、一切触れていません。聖書に書いていない、と言うことは、「誰もが知っていること(当たり前すぎて書く必要がなかった)」か、「関心がないか、全く問題とされない」か、です。恐らく一目でその罪は分かる、という理由だったと思われます。ここで大切なのは、どんな罪を犯したのか、ではなく、主イエスがおられる事を知った罪人が、いても立ってもいられなくなり主イエスの所に出かけた、という事柄なのです。つまり、ここには、主イエスが自分の住む町におられるのを知って、自分は罪人であるという自覚を持っているにもかかわらず、何もしないでじっとしていられなかった、居ても立っても居られなかった一人の人の姿が、ここに描かれているのです。

 彼女は、家を出るとき「香油の入った石膏の壺を持って」、主イエスが食事をしておられるファリサイ派の家に向かいました。その時の様子を38節では、後ろから主イエスの足下に静かに近寄ってと、あります。恐らく、主イエスは家の一番奥まったところに座られていたでありましょう。彼女は、人混みで溢れる玄関入り口から、こっそりと入ったに違いありません。しかし、こっそり入れたのは、入り口だけで、主イエスに近づくに従って、人々の目に触れます。当然、主イエスも彼女が近づいてくるのを目に留めたでありましょう。彼女は、主イエスのそばに来ると、主イエスに拒まれもせずに、主イエスの前に来れたことに感激して、静かに泣きはじめました。何も言わずにただ黙って泣きじゃくる女性の目からは、大きな涙が流れ落ちました。その涙は、ほほを伝わり顎から滴って主イエスの足下をぬらしました。彼女は、涙で濡れた主イエスの足を自分の長い髪の毛でぬぐい、主イエスの足に接吻してから、家から持参した香油を主イエスの足に塗りはじめました。

 この様子を見ていたファリサイ派の人は、39節にある様に「この人がもし預言者なら、自分に触れている女がだれで、どんな人か分かるはずだ。罪深い女なのに」と、心に思いました。つまり、その女性を一目見ただけで、どんな罪を犯したかが判断できるような身なりだった。または彼女が持参した香油の種類によって、彼女の職業がわかりその罪を理解できた、と読めます。恐らく、体を売る商売、と推測されます。いかにもな身なりの女性がいかにもな香油を持って主イエスの体に触れている、だとしたらユダヤの律法によれば、汚れた者に触れるだけで、その人は汚れた者と見なされる、という規定があります。だからこそ、ファリサイ派の律法学者から見れば、明らかに罪に汚れていく主イエスの姿を、そこに見たのです。恐らく、彼の表情が、それを物語っていました。だから主イエスは、すぐに彼の心の内にあるものを読み取りました。40節で、そのファリサイ派の人が「シモン」であったことが記録されます。主は、心にあることを顔の表情に出ていたシモンに「言いたいことがある」と促しました。主に促されたシモンは、すぐさま「先生、おっしゃってください」と応えます。すると、主イエスは、一つの譬え話を話されました。その譬え話は、「ある金貸しから、二人の人が金を借りていた。一人は五百デナリオン、もう一人は五十デナリオンである。7:42 二人には返す金がなかったので、金貸しは両方の借金を帳消しにしてやった。二人のうち、どちらが多くその金貸しを愛するだろうか」というものでした。43節で、シモンは、何で、こんな質問を主イエスがしたのか不思議に思いながら、「帳消しにしてもらった額の多い方だと思います」と答えています。すると主イエスは、「そのとおりだ」とシモンの答えに同意しています。そして、一人の罪深い女性の方を振り向いて、「この人を見ないか。わたしがあなたの家に入ったとき、あなたは足を洗う水もくれなかったが、この人は涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でぬぐってくれた。7:45 あなたはわたしに接吻の挨拶もしなかったが、この人はわたしが入って来てから、わたしの足に接吻してやまなかった。7:46 あなたは頭にオリーブ油を塗ってくれなかったが、この人は足に香油を塗ってくれた。7:47 だから、言っておく。この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない」と厳しく諭したのです。つまり、主は、「赦される感謝と喜び」について、シモンに問い返したのです。あなたは、私を招いておきながら、少しも歓迎していなかったのではないか。むしろ、私が自分の家に来るのが当たり前と考えて軽んじなかったか?。だから、あなたの気持ちは、あなたの示す態度で、すでに分かっていた。しかし、この女性は、自分が主イエスをお招きする資格なんて、これっぽっちもない、ということを心に受け留めつつ。もしかすると私の体に触れようとしたら、否まれ罵られ追い出されるかも知れない、と恐れながらも私の下に来たのだ。その彼女は、自分が受け入れられる、という事を知ったときに、心の底から溢れる感謝と喜びの涙を流したのだ。と、主イエスは、彼にその事を諭したくてこの譬えを語ったのです。

 そして、主イエスは、皆の前でその女性に対して「あなたの罪は赦された」と罪の赦しを宣言されたのです。49節では、「「罪まで赦すこの人は、いったい何者だろう」と考え始めた」と記されています。しかし、主は、そのように考えたファリサイ派のシモンの家にいた者達にいっこうにお構いなしに、最後に主イエスは、罪の赦しの宣言を受けた女性に、「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」と優しく送り出したのです。
 この箇所で語られる事は、罪深い女性が主イエスによって赦された、という事だけではありません。むしろ、この罪の赦しが、大きな神様の恵みと感謝へと変えられていくプロセスなのです。神様の恵みが、この私に注がれている、そのことをしっかりと心に受け留められているか、という問いかけなのです。神様の恵みと感謝がしっかりと心に受け留められているならば、例えどんな小さな出来事であっても、それが神様の恵みとして心に留めるならば、それを感謝を持って数え逃すことはあり得ない、というメッセージなのです。

 私達は、日頃、与えられている恵みを当たり前としてしまうと、その事に喜びと感謝を感じなくなってしまいます。心が麻痺し鈍く愚かな心だからです。神様は、そのような心が鈍く愚かな者を、どうしようもない人として捨ててしまわれるのか、というと、今日の聖書の箇所を読みますと、捨ててしまわれないお方である、と受け留めることが出来ます。それは、例えファリサイ派シモンのような人を罪人として決めつけ裁くような心のかたくなな人であっても、その招きに応えられている主イエスの姿があるからです。つまり、どんな人であっても主は、そばに来てくださるのです。しかも、御言葉を持って諭してくださいます。また、今日の罪深い女性がそうですが、どんな罪を負っている人でも、足蹴にされずに、罵られもせず、しっかりとその心を受け留めてくださるお方、それが救い主イエス・キリストを遣わされる神様なのです。

 主イエス・キリストの神様は、シモンのような心のかたくなな人、自分は重い罪を負っている、と自覚しているような今日の女性の様な人を捨てて置かれない。むしろ、その一人をしっかりと受け留め、心から愛してくださいます。だから、私達一人一人のために神様は、主イエス・キリストを遣わされ、私達に代わって十字架にかかられ、三日目に神様の栄光を表す復活を通して私達に希望をもって進むべき道を示されたのです。今日のメッセージから主イエスは、私達を様々な方法で愛してくださる事を心に受け留めます。時には、御言葉によって諭しを与えるという愛であったり、心を優しく受け留めてくださるという方法であったりです。その様々な神様の愛の形は、最後に「あなたの罪は赦された、安心していけ」という宣言に結びつきます。実は、主イエスが食事に招かれたファリサイ派の家は、教会に譬えられます。教会は、どんな人も、譬え罪人であっても、いや、むしろ罪人の家だからこそ、主は来て下さるのです。マタイ福音書の最後で復活の主イエスが弟子達にお会いに成られる場面があります。そこに「疑う者も」主イエスの前に招かれています。つまり、今日の箇所と同じように、教会は、あきらかに罪人、神を疑う者であっても、主の前に招かれている人として受け留める事が大事です。
 それは、神様が、全ての人の罪を赦すために、私達の心に様々な方法で、また、礼拝で語られる御言葉で神様の愛を問いかけてきます。その中で、私達は、神様に心を開いて、悔い改めて、主イエス・キリストの十字架と復活の愛を受け入れていくならば、主イエスの最後の言葉「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」と、神様に赦される大きな神様の恵みに喜びつつ、ここから出て行きなさい、と肩を押し出して遣わしてくださるのです。神様の恵みに喜びと感謝に生きる人々を、神様は、「安心して行きなさい」と「祝福を持って」心新たに遣わしてくださるのです。

武蔵豊岡教会  栗原清牧師
(くりはら きよし)




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